津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■北村甚太郎覚書(四・五)

2018-10-25 10:52:54 | 史料


)七月廿ニ日敵兵嶺より下りしヲ北村甚太郎大筒ニテ撃チシヿ
一明ル廿ニ日之朝西南の嶺より昇とも谷へおろし敵銘/\の

 陣所を定る躰尓見へ申候 城より巽尓當り若狭海道尓大内 
 と申在所あり城より間十二三町計有之其上之嶺尓山崎
 左馬・小出大和昇見へ申候 左馬昇ハ白黒段々也 此昇皆谷

 二下り陣取と見へ申候 彼所へ大筒打候て見可申由妙庵公私へ
 被仰付候間則妙庵公御矢倉より山崎左馬昇を當て大筒三
                       狭間

 ッ放かけ候へ共敵少も驚く躰見へす此方より矢倉塀さまより
 物見衆数多候つれとも玉行見届不申候 四ツ目の玉よき所へ参り候哉
 昇共殊之外騒見へ申候尓付て其積尓て又一ッ打申候ヘハ人数騒昇

 差物皆々元トの嶺へ引上り二ゲ込申候 妙庵公御悦無限候 夫より
 敵近く寄申候ヘハ私尓被仰付度々打除申候 後尓者竹たば尓て付
 寄申候事

(五)七月廿三日橋ヲ落シ城下ノ民家ヲ焼拂ヒシヿ
 同廿三日の朝西の方大橋の向惣かまへの簾戸口へ小野木縫殿

 数大勢責懸ヶ鉄炮打申候 城中より大橋の向まて出向ひ侍数三
 十人計尓て防互尓鉄炮厳敷打合申候 志ばらくさゝゑ申候
 處尓味方の侍の中坂井半助と云もの申けるハ何と防申とも
 敵大勢味方ハわつか小勢也 多勢に無勢難叶皆々引
 取候て大橋の板をはづし可申由申候 尤可然と皆々一同尓寄
 合候て橋の板色々として打破候へとも俄の儀道具は無之
 破兼申候を阿た里の石柱なと取寄散々尓打破り大方
 爰かしこ板はなし馬ハ渡り不申程尓仕候 其橋長サ廿間余
 有之其内敵もはや橋のむかひまて攻來り橋向尓町屋
 有其家の中尓敵とも入込戸口窓より鉄炮打申候 此方尓
 は川端尓船とも引上て有り又左の方尓ハ高サ四尺計りの
 石垣有夫をこたてにして鉄炮稠敷打申候 我等と半助とハ
 石垣の上より替る/\打申候 薬を込替/\打申候尓互ニ
 
 見へたり 見しりたるかと申敵数多打倒し申所尓半助
 甲の真中に敵の鉄炮中り即時尓討死仕候 半助首を敵尓
 とらせしと死骸を番屋へ投入申候 残るものとも随分防申
 所尓半助討死仕候由 幽齋様被聞召付為御使千家七
 藤木猪右衛門を以被仰下候者 敵大勢なりミかた能き
                
 もの一人も討るれはいかほとのよわりそや急き町中へ
 火をかけ引取候へと御意尓付方々尓火をかけおびただしく
 焼立申候ゆへ敵も味かたも引取尓仕候 廿三日の朝より
 明ル朝まて焼申候 残りたるハ又人をいたし焼き申候事

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