津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■京兆家・典厩家・野州家

2020-10-22 10:53:36 | 展覧会

 今日の「細川小倉藩」でご紹介した細川七左衛門については、長い間一族ではあろうがどういう人物なのか謎であった。
ある方の情報で今年の3月11日、下記の系図をお示しした。
         ■細川之系図「典厩家細川藤賢の子が清左衛門、その子が七左衛門と出雲」

典厩家とは代々の人(全てではない)が右馬助を名乗ったため、 「馬寮の長官を務める官職、左馬頭・右馬頭(従五位下)の名称」の唐名からそう称したとされる。
典厩家は細川宗家の京兆(左京大夫・右京大夫の唐名)家の10代持之の弟・持賢を初代とし藤賢は4代目である。

肥後細川家は藤孝(幽齋)が和泉守護家とされるが、典厩家系・七左衛門と肥後細川家の関係は、それぞれの家系を京兆家3代頼春まで10代余遡らなければならない遠い/\一族である。
この親子二代三人を忠興・忠利が豊前に迎え入れた。「細川小倉藩」の記録に時折名前が登場するが、清左衛門は小倉で亡くなったようだが、清左衛門は熊本入国後離国したらしい。弟・出雲については詳しいことは判らない。
一族の栄枯盛衰が見て取れる。

さて系図上からすると、和泉守護家の細川藤孝(幽齋)の後は、息・幸隆が継ぎ、そののちは細川刑部家がついだとされている。(ウイキペディア)

藤孝の息・忠興は細川奥州家を継承した。陸奥守を名乗った家柄から奥州家とされるが、忠興は「自分は父藤孝とは違う大外様である」といっている。(綿考輯録)奥州家はまさに足利将軍家の大外様の家である。

はっきりしている事は、藤孝(幽齋)、忠興、忠利と肥後細川家の流れは一本の「清らかな流れ」として今日に至っているということである。

                                     

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