津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■生田又助覺書・番外編 板倉氏

2024-04-21 07:30:13 | 史料

               家紋
 細川宗孝を殿中で襲い死に至らしめた旗本6,000石・板倉修理(勝該)、その原因は乱心だとされるが一方では家紋がよく似ているが故に、
同族の佐渡守勝清(当時・若年寄)と間違えて切り付けたという話がある。

修理の病気(狂癇の質)などを理由隠居させ、勝清の庶子を跡継ぎに入れよういう話があったらしい。
一方氏家幹人氏著「旗本御家人・驚きの幕臣社会の真実」には、修理の屋敷が白金台の細川家下屋敷の隣のがけ下に位置し、大雨の時に汚水
が流れ込み浸水することがあり、これを恨みに思ったという確信犯的な理由を挙げている。

同書には写真が添えられているが3~4mの高低差が伺える。
氏家氏は人違い説より「恨み」説が真実に近いとされるが真実は闇の中である。
たしかに「分間江戸大絵図」を見ると細川家下屋敷の北側に「板クラ下ツケ」の書き込みがある。

 処でこの板倉氏、一族四家が大名として明治を迎えている名家である。
板倉修理(勝該)の系を遡ると三河深溝藩主・重昌に行きつくが、この人が天草島原の乱で討死したその人である。

          下総関宿      伊勢亀山    
   勝重――+――重宗――+――重郷――重常
       |      |  上野安中  陸奥泉     
       |      +――重形――重同――勝清
       |  三河深溝     下野烏山       
       +――重昌――+――重矩――+――重良
              |      | 武蔵岩槻 陸奥福島
              |      +――重種                                         
              | (旗本)
              +――重浮――勝丘――勝該(断絶)

 

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