津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川護久と深水家の関係

2023-08-31 06:12:25 | 人物

 細川家14代目の細川護久は、明治元年十一月五日に佐賀の鍋島齊正(閑叟)女・宏子と結婚する。
実はその年の八月三日、側室・深水縫との間に建千代を為していた。のちの15代・護成である。
この事実について、花嫁について来た大隈重信が噛みついたという伝聞が残る。
この間三ヶ月しかないから、鍋島家に伝えられていたのかどうか・・詳しい経緯を知らない。
この深水縫については、水俣の惣庄屋・深水家の最期の当主でのちに初代の水俣村長になった深水頼寛の娘だとされる。
これは、井上智重氏の著「異風者伝」にある「深水吉衛」の記事で知った。吉衛は映画俳優となった。
戸籍上は頼寛の8男となっているが、実は孫らしい。複雑な事情があるという。
 尚、護久の生母・田鶴も深水氏であり、加藤家の養女となり12代齊護の側室となっている。井上氏は「縫は(護久)生母の姪」と比定されている。
花岡興輝氏著「近世大名の領国支配の構造」にある「水俣氏」系図には12代当主として最後に登場しているが、田鶴や縫についての記述は一切ない。
田鶴は護久を生んで三年後に死去している。加藤家の菩提寺でもある西福寺に眠る。

 護久には護成の他に、正室・宏子の子として護全・護晃・護立三人の兄弟がある。
護全は叔父・細川護美の養嗣子となったが24歳で戦死している。
護晃は14歳で男爵家を創家するが17歳で死去する。跡を弟・護貞 護立がつぎ、大正三年長兄・護全 護成が47歳で死去すると護貞 護立が16代を継承する。
正室を生母とするのは4代の光尚以来であることを思うと、側室の有りようと言うものを深く考えさせられる。

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