津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・山本氏

2008-12-15 15:08:55 | 歴史
 千利休の死にあたりその介錯役を勤めたのは、研究書や小説などでは殆どが蒔田淡路守だとしている。村井康彦氏の名著「千利休」もそうだし、野上弥生子氏の小説「秀吉と利休」も同様である。WEBサイトで検索してもほとんどがそうなっている。過日ご紹介した「利休最後の半年」の著者、土田隆宏氏は大変勉強をなさっていて、介錯役は細川忠興家臣・山本正倶だとされている。その出典は綿考輯録であることは間違いない。

 綿考輯録・巻十に、千利休に対して「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」とある。私は蒔田淡路守は秀吉がつかわした検使役であり、介錯役は山本正倶であったと信じて疑がわない。

 山本正倶は名を三四郎(三左衛門)という。その正倶については、  
「三四郎親掛ニ而、三斎様御側に被召仕、御知行弐百石被下置、(父親)三郎右衛門隠居仕候節、家督四百石拝領、有馬御陳にも御供仕、綱利君御代まて相勤、追々御加増千石被下候」とある。

 父親山本三郎右衛門については、「元亀四年岩成主税を御攻被成候時、御家に来り御合力十八人扶持被下候、直に忠興君に仕て御懇也、九曜の御紋御付被成候後、夫迄の御紋六ッ鉄線を政倶に被下、定紋二仕候と申伝候、丹後御入国之節、弐百石拝領、度々の戦功あり、関原御陳後、御召之御鎧・鞍置馬を被下、御知行四百石に被成下(一ニ豊前ニ而五百石)その後加々山隼人被誅候時三郎右衛門に被仰付、友次の御刀拝領仕候、三斎様御剃髪の時、山本も剃髪、宗の字を被下宗覚と改申候、三斎様御逝去両年前ニ病死」と綿孝輯録・巻五は紹介する。中務とも称し、観世小次郎元頼の弟子であったという。
細川幽齋の田邊城籠城に際しては、村野庄助 ・坂井半助 ・篠山五右衛門(飯河豊前守)・久代右近右衛門 ・平田因幡・平田彦三・寺井道運・神戸喜右衛門等とともに北海手の守備にあたった。

 子孫は1500石を領し、番頭や用人などを勤めた。





            
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喝食なる人・・弐

2008-12-15 08:43:50 | 歴史
 綿考輯録に玄喝食について詳しく紹介されていた。(まだ読みようが足りません)

 寛永十二年七月九日、於熊本(忠利)御三男御出生、御幼名鶴千代、庶母金子氏
寛永十八年七歳にして大淵和尚の御弟子ト成、正保元年落髪、玄覚喝食一ニ玄喝食と申候
 考ニ大塚家記ニ、弐歳之御時大塚当帰斎に御預被成、八歳迄当帰斎屋敷ニ而御生立被成候と云々、再考可仕候
正保三年大淵和尚より啓室和尚ニ被進、妙解寺ニ御移候て宗玄と御改被成候、其後光尚
君より御還俗御すゝめ被成候へとも、無御同心、其比御受書之写残候、左之通
                    御請申上覚
一、私儀泰勝院ニ被為召置出家仕、今又当時ニ罷在候処にに、為御使朝山斎助殿・林外
  記殿以両人被仰出候様、私還俗仕候ハゝ可被召遣旨被仰出、忝奉存候、乍去近年泰
  勝院にて四五年暮シ申候時之心中も、又今当寺ニ罷在候にも、還俗之儀不存知寄候
  条、右之通斎助殿・外記殿へ被仰入可被下候、学文之儀は向後随分精を出シ可申候
  間、可然様ニ奉頼候、以上
      七月廿四日                 宗玄

 増々学文等御すゝミ被成、後ニ天岸と被号妙解寺二代目之住職也、貞享元年正月十七日
 於洛転位大和尚、同二月朔日於大徳寺中常楽庵遷化、五十歳、大徳寺中玉林院ニ葬る
 (以下略)
                 (綿考輯録巻三十六・忠利公(上)p449~)
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