津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・1

2008-12-18 12:58:38 | 歴史
 寛永十五年二月廿七日、佐賀勢の抜け駆けにより戦いは始まった。三の丸の担当である細川勢と柳川の立花勢は、これを知って一気に攻め入る。その先頭にたったのが長岡寄之(松井興長養嗣子・細川忠利末弟)である。

長岡寄之今日の当番にて仕寄場に居候か、鍋嶋家抜かけの由聞とひとしく、一歩も人におくれしと速に打出る、松井新太郎正元組の卒をひきひ、請取の挙城戸迄早く来りしに、辻庄左衛門当番ニ而、大将の下知なきにハ壱人も私に出さすと云ふ内に、寄之ハ中西孫之允宗昌をはしめ・井出惣右衛門・本田勘之允・江口七太夫・奥野伝右衛門・磯田作左衛門五人歩卒・辻源太郎・祐藤勘三郎二人児性以上八人をしたかえ来る。伝右衛門下知をうけ脇差にて木戸を截ひらき、寄之直に三の丸屏に乗上り、柄弦の差物を抽て打ふり、細川家長岡式部寄之三丸一番乗と声高に名謁て、出丸の内に飛入る。新太郎・庄左衛門を初式部手の者ハ勿論、組之士卒・諸牢人迄我先と追々乗込候、三の丸をハ大塚四郎兵衛・会津左兵衛・堂崎対馬を首として、大江源左衛門・布津吉蔵等三千五百人ニ而守之、西の出丸ハ有江掃部五百人ニ而固めけるか、俄之事ニ驚候哉、しはらくさゝへ候得とも、わつかの勢に切立てられ、出丸を捨て三の丸に集る所を、寄之すかさす付入候

三の丸に入とひとしく中西孫之允真先にすゝミ、敵を突ふせ首を取、三の丸の一番首也、二番に敵鉄炮をかまへ火ふたをきるを、和田伊一ニ利兵衛飛ひかゝて突伏る、小寺杢左衛門鉄炮疵を被りなから鑓を合せ賊を討、谷主膳手に附居たる浪人益田太兵衛一村弥三兵衛弟、今の益田尉右衛門祖すゝミ出、鑓を合けるか、鉄炮に中り死す、是一番の討死也、賊徒頻りニ鉄炮を発し候へ共、寄之少も擬義せすすゝむに、路三方に分れたる所にて、中西先にたち何れを参候ハんと云、寄之見てたゞ真中の直路よりすゝむへしとて、三の郭の中を南ニ向ひ田を渉るを、田向の土居より炮玉来て寄が指物に中る、江口七大夫矢表に立塞て忠死を遂候間、寄之深く歎惜いたし候

佐渡か鉄炮頭下津半助組の足軽をしたかえ、田尻口の方へ打向候を寄之招て、直に此口より二丸ニ攻入へしとて、稠く鉄炮をうたせ、敵も爰を詮度と打合いけるか、賊壱人田をわたり一文字ニ打てかゝるを、田中三郎左衛門名謁かけてしはらくあらそひ、打ふせて首をかく、本嶋角大夫・上原兵助始末寄之か側を不離、其職を守、九郎右衛門嫡子也も来て力戦いたし、中山助九郎昌良敵を討て鼻をかく、松井掃部秀通か嫡子三左衛門吉任鑓を合敵を討取、二男志水加兵衛も敵を討ツ、新太郎か乗口の小屋より敵老若弐人刀を振てかゝるを、正元鑓ニ而若者を突伏る、老人ハ若党井羽一ニ伊橋茂大夫是を討ツ、大村掃部平井杢之允親也、此時ハ弥次右衛門養介ニ而居申候、三の丸一番乗、本丸水手ニ而弐ヶ所手負、無証拠其儘打過と家記に在・今福五左衛門も一所に働く、有吉頼母隊下にてハ松野縫殿助親政織部嫡子・其弟吉弘四郎大夫と共に、鍋嶋家の仕寄付るを見物せんとて忍て外張に出居候に、無思懸城乗に及候間、其場より直に生膚にて乗入、此外陳々我先と浮立、甲冑を帯する暇なく、生膚打てに出しも多かりしと也、興長か手各すゝむ中、谷主膳組永良弥角・入江八郎兵衛・小林助大夫・佐田長三郎後市郎左衛門四人ミつから三丸一番乗と称し四人の差出ニ一番乗と有り、段々にすゝミ、二の丸にても働有、或云此四人帰陳の上御暇被下と有ハ誤なるへし、浪人木造左馬允も興長手に加り、一番乗と申候、有吉隊下にて薮図書助組共に佐分利加左衛門組足軽を卒し、清田石見組後藤一十郎・志賀左門組菅村藤兵衛等も三丸一番乗相争と也、沼田勘解由組の物頭国友式右衛門ハ松井組ニ加り、足軽を下知し、西の須戸口より一番ニ乗入候二丸ニ而も塀下に着、御鉄炮うたせ乗入、本丸ニもうたせ働候

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