津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川氏肥後入国

2008-12-09 17:57:35 | 歴史
 忠利は九日夜深く山鹿(山鹿市)を出立、巳の刻には熊本城天守に上ったとされる。寛永九年(1632)の今日十二月九日のことである。

先達而追々差越候御家中之面々、所々警固御番等之外は各御途中ニ罷出、供奉して御城ニ至られ候、追手の御門外ニ御城番之御衆御出迎有之、忠利君御下乗、此処二而請取渡之御挨拶済候と、御先足軽頭下知して火縄之火を消させ候、其時御門之蹴放しを御頂門々を過、御玄関の上ニ而石川主殿頭殿より、御城内武具・財宝の書記等御受取被成、天守之上段ニ御登被成候、時ニ巳ノ刻比なり

忠利君御装束ニ而、大手門前ニ新敷莚を敷、御門之蹴放シを御頂戴之御心ニ而御辞遊候

爰二而中尾山本妙寺の方を御尋被成、清正の廟所を遥拝なされ、多年御入魂なりしか不思議二当城を賜り候と、御挨拶ニ被及候と也

作家・司馬遼太郎はかって、細川護貞氏の案内で熊本城を訪ねている。氏の著「春灯雑記」に次のように書いている。
       護貞氏がふと、「忠利は、あの天守台の台上にのぼって、はるかに清正の
       廟所にむかって平伏したそうです」といわれた。
       この忠利の所作も、おそらく三齋忠興の助言によるものだったろう。
       さらに忠利は声をあげて、

         いまからあなたのお城をあずからせていただきます。

       といったというのである。はじめてきく話だった。
       このことばが、おそらく肥後の人心を、春の海のように凪がせたはずである。

こうして肥後入国のながい一日が暮れていくのである。それから366年が経過した。
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重箱の隅をつつく・・1 せん姫様

2008-12-09 13:15:23 | 歴史
 細川忠利室は千代姫と名乗られているが、どうやらこれは後年公儀に「御系譜」を差し出す際に、千代姫の実家小笠原家と辻妻合わせをして登場した名前らしい。本当のところは「御せん様」のようだ。
 綿考輯録の編者・小野武次郎も苦労をしている。

「私云、右御姫様御名御家譜等ニ而見当不申、色々吟味仕候処、岩間権之進小笠原殿より御附人岩間六兵衛子孫家記之内ニ御せん様と有之、又長岡筑後直之(松井家五代当主)所持之御系図と有之本ニも同様ニ御座候、然処御書所ニ而は千代姫様と有之様ニ聞候間、此方之証拠を以学校より問合候処、彼方ニても吟味詮議も有之たる由ニ而、御千様と有之方く、御記録も直り候との儀、安永庚子七月御祐筆頭松本幸之進より申来候、然処公儀より仰を被蒙、寛政五年癸丑御系譜被差出候事ハ御大名衆御一同之由ニ而、小倉小笠原殿御当代右近将監忠苗より御問合之ケ条数々御答ニ相成、且御名之事彼方之御達二万一相違なと有之候而ハいかゝとの事ニ而、此方様よりも御問合ニ成候処、千代姫様と御書出に成候段申来、元彼御家より被為御入候御方故、唯今是よりとやかく可有様無之との事ニ而、此方様よりも千代姫様と御書出ニ成候ニ付、御家譜も此節千代姫様と改申候」

 これにて一件落着・・・しかしいい加減?
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