津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

肥後モッコスの元祖

2008-12-22 17:00:27 | 歴史
 元和九年八・九月頃の三齋の書状である。

 以上
文拝見いたし候、内きかたよりけんもつ事ニつきふミしん上申、
くハしくミ申候、むり二かゝへ候へとハ申さす候、よそへつか
ハし候ハんとも、かゝへ候ハんともまゝにて候よし申つかハし
候、何と成とも心したいと仰遣され候へと、かしく
 御ち                三より
  御中
   御返事

 慶長十二年出奔した米田監物の帰参に関する書状だが、宛先が乳人であるのが面白い。多分「大局(おおつぼね)」と呼ばれていた、中村新助の妻に宛てたものだと思われる。
忠利から召出しに関し当然相談があったのであろうが、「無理に召抱えろとは言っていない、他所へやろうと召抱えようとどうぞご自由に」といった意であろうか。
何故乳人を通じてのことなのかがよく理解できない。

 監物の出奔は、「忠興君御意に不叶儀有之」とされているが、真実のところは監物の姉婿・飯河肥後とその父・豊前の誅伐に関してとされる。若干22歳のころの話だが、帰参まで16年が経過している。そして三齋公に監物が御目見えしたのは、寛永二十年正月八代に於いてである。「肥後モッコス」の元祖は、三齋公ではないかと密かに考えている。
コメント
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