蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

それでもボクはやってない

2008年01月14日 | 映画の感想
それでもボクはやってない

痴漢と間違えられて女子学生に逮捕された主人公は、容疑を否認し続けて長期間拘留されたあげくに起訴され刑事裁判の被告となってしまう。その経過を(ドラマチックな要素を極力排除して)淡々と描いた作品。

この映画はとても怖い。
ホラー映画も怖いが、それは見ている間だけ恐怖感を味わうエンタテインメントである。仮面をかぶった大男がチェンソーを持って迫ってくるなんてことは普通の人の人生には起こらないとわかっているから上映時間が過ぎれば怖くなくなる。
しかし、電車通勤している人なら痴漢と間違われることは、今日にも起こりえることである。そして間違えられたら平穏だった人生は一瞬にして破綻する。いくら無実を訴えても日本の警察・司法制度においては効果がないことを冷徹に教えてくれるので、この映画は終わった後も恐怖感が消えない。

いくら無実で、それを主張しても、運悪く熱心な捜査官、熱心な検事、そして自己保身を考えている裁判官に当たってしまえばどうしようもない。極めて長期間人生を消耗したあげく残るのは屈辱だけだ。(無罪になっても有罪になっても)

司法制度の不備を訴える映画でありながら、この映画を見た人のほとんどは皮肉にも思うだろう。「痴漢に間違えられたら、例え無実であろうがすぐに罪を認めて示談をしよう」と。

タイトル通り、無罪を主張し続ける主人公にくだされた判決は有罪(執行猶予付)であった。有罪を告げる裁判長は映画の中では悪役っぽく見えるが、彼の立場に立ってみると有罪判決をだしたのもあまり無理がないようにも思える。裁判長はこう考えたのではないか。
«被害者の女学生の陳述は一応真実らしく聞こえる。被告がやったという明確な証拠はないが否定する証拠もないし他人がやったようにも思えない。刑事裁判では厳密な証拠が求められるはずで、それからすると無罪としか言えない(疑わしきは被告人の利益に)、のだが、そもそも痴漢事件というのは目撃者や直接証拠がある方が珍しいわけで、あまり証拠主義を厳密に採用すると有罪にできることはほとんどなくなってしまい、そうすると痴漢被害を訴える女性はいなくなってしまって、結局社会正義が実現できない。だから被告には気の毒だが有罪にしよう。執行猶予を付ければ無罪放免と変わるところはないし、どうせ被告はフリーターで失うべき社会的地位なんてないじゃないか。»

さて、この映画で主張されていること(それが真実であるかを調べたわけではないが)を備忘のためにあげておこう。

①裁判官も法務省管轄下の(特殊な)公務員である。その勤務評定はこなした裁判数で決まるし、常時200くらいの裁判を受け持っているので、とにかく早く裁判を進めようとする。

②刑事裁判は国(法務省)と被告が争う裁判。法務省管轄下にある裁判官が国が不利になる判決をくだすインセンティブはあまりない。(逆に、検事は起訴した案件で無罪判決が出ると評価に大きな悪影響がでるので、案外起訴には慎重な場合があるそうだ。検事には不起訴にできる権利があり、現実にやたらとどんな事件でも不起訴にしてしまう検事もいるらしい。だから、容疑者になったら、裁判で裁判官に無実を訴えるより、とにかく不起訴になるように検事に無実を訴える方が効果的かもしれない。←この括弧内は映画で主張されたことではありません。また事実かどうかもわかりませんが、こういった噂を聞いたことがあります)

③日本の警察では(アメリカの警察小説などでよく出てくるミランダ宣告のような)被告人の権利を親切には教えてくれないらしい。映画の中で「当番弁護士を呼んだら?」と教えてくれるのは拘置所の収容者だった。

④裁判の途中で裁判官が(転勤等により)変わることは珍しくない。(うーん、考えてみると、法務省の役人(検事出身が多いらしい)が「この裁判、変な方向に行きそうだな。よしこの裁判長左遷してしまえ」なんて考えることがありそうだなあ)
⑤無罪判決を出す(奇特な)裁判官が少ないように、経済的な利益が少ない刑事裁判に熱心な弁護士も少ない。

なお、裁判員制度はこうした「捜査員も検事も裁判官も皆公務員」という制度から出る弊害を減らすこともその目的の一つで、導入されれば上記ような司法制度の弱点が少しは克服されるのではないかと思われる。しかし、痴漢のような軽犯罪については裁判員制度の対象外であり、効果はない。
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