見ておくか・・・と、重い腰をあげ、首里城に向かった。守礼の門は変わらなかった。中国人の方々が居ないので、ほぼ日本の中高年ばかり?
龍樋は絶えることなく流れていた。
やがて漏刻門を過ぎると・・・
焼けて崩れた首里城が現れる・・
本殿は跡形もなく、片づけられた龍柱でここが正殿だと分かる程度だ。
弁天堂は何も変わらず静かなたたずまいで、バリケンは相変わらずだった。
市場に戻り、ジランバ屋でかまぼこを買って、呉屋天ぷら屋で天ぷら。仮設の市場でラッキョウを購入した。
いよいよ悲しい最終日だ。
この日は、積徳高女たちが配属された「第24師団第2野戦病院」の壕の跡を調べてみるが最後のテーマであった。
事前にかなり調べたが、ほとんどヒットせず、豊見城城址公園にあり、慰霊碑なども建っている。としか、分からなかった。
まぁ、仕方ないので、城址公園に行って、徘徊すればなんとかなるだろう・・と、行き当たりばったりであった。
牧志からゆいレールに乗って、壷川で降りて、タクシーを拾った。運転手氏から「空手ですか~、すごい会館が出来たんですよ~」などと聞く。
下車!確かにすごそうな「空手会館」!さすが、空手発祥の地ってことか?2020年東京オリンピックでは、もっとも金メダルに近いと目されている、喜友名 諒(きゆな りょう)も沖縄空手だもんな。
何だか、大会の前日らしく、練習風景などタダで見られた。すごい迫力だったが、こんなことしてる場合じゃないと、城址徘徊に出かけた。
空手会館の敷地内なのか?はたまた違うのか?綺麗に刈られた芝生の奥・・・まさにブッシュの中に、塔のようなものを見つける。
濤魄の塔・・・昭和20年3月、海軍部隊によって編成された海軍陸戦隊と陸軍部隊を併せてこの地区でアメリカ軍をむかえ打つが、アメリカ軍の兵力に敵わず、6月13日に残存兵力を結集して突撃を決行し全員玉砕。その慰霊碑のようだ。
見事に荒れ果てていた。悲しいほど荒れ果て、管理するものが居ないような姿だった。
そして、周辺は工事中、進入禁止ばかりなのだ・・・ここは、一体、市の管理する公園なのだろうか?
公園らしき、結構広い場所は、使われていない乗り物の軌道とか、遊具などがあるが・・・
かなり迷い・・空手会館の事務所に行って情報をと、戻ってみる。親切なネーネが居た。
近くの濤魄の塔は知ってるが壕は分からない・ここは私有地なのでこの会館も空手の協会が買収して建てた・あるとすれば東の「ハーリー発祥の碑」のほうだが・皆私有地なので新しく開発を始めているので工事中が多い。などの情報を得て、ハーリーの碑はそこまで行ったので、その奥に行ってみることにした。
やっと、お目当ての「碑」にたどり着いた。
「山武隊野戦病院」・・・第24師団・・通称「山3487」部隊だ。まぎれもなく積徳女学院が配属された場所だ。
病院壕があるはずだ!!!近くを徘徊する・・・やがて、斜面を降りる階段があった。
階段を下りた奥・・・さらに10m程度の草深い奥に、病院壕の入り口が口をあけていたのだった。
あの碑まで戻る。この碑の下には、アリの巣のような壕がまだ、残っているに違いないのだった。
積徳女学院の高女たち(フジ学徒隊)は、ここでも戦火に焼かれる。やがて、南部撤退で、昨年6月にミネさんやせいごうさんと訪ねた「糸洲外科壕」で非業の死を遂げるのだった。
多くの高女が亡くなり、仏教寺院の運営する学校だったので、学校の再建は叶わず、糸洲の「糸洲外科壕・・ウッツカーガマ」と那覇の現在も続く仏教寺院の庭の学徒碑、そしてここにのみ痕跡が残っているだけである。
豊見城は糸満に次ぐ激戦地で3116名の方が亡くなっている(糸満は7007)。その豊見城に存在する戦争遺跡は、ほとんどが放置されたままのようである。
これで、いいはずがない・・・私有地なら、買い戻し、せめて戦跡は残し管理すべきだと思うのだ。何とかしろ、豊見城市である。
タクシーで帰ろうと思ったが、たぶん4キロほどで奥武山(おうのやま)公園駅だ。しかも、そこまではすべて下りなので、歩くことにした。
折角奥武山公園・・・駅から100mほどで島田叡の顕彰碑がある。手を合わせに行った。「あなたの歩いた道をたどってみましたよ」と、声をかけた。
遠くに鉄塔が見える。あれがさっき徘徊した、豊見城城址公園だ。
3泊4日・・・穴ばかり見て歩いた。1日の平均歩行は2万歩を悠に超えていた。充実の旅だった気がする。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます