館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2019梅雨明けの沖縄のはずだった怪しい4人旅・その3・せいごうセレクション「ひめゆりの道を歩く」。

2019-07-03 04:52:09 | 旅は続く


3日目の朝、始発の8時発フェリー・8時半に本部港・・すぐ前のバス停から、41分発のやんばる急行で那覇・・古島駅で、タクシーの大城さんと10時20分に待ち合わせ。
今日は、せいごうさんをメインに据えた企画「せいごうひめゆりの道を歩く」である。

ひめゆりが最初に召集された、南風原陸軍病院壕を体験することから始まるのだが、まずはその入構可能な「20号」の内部が再現されている「南風原文化センター」を見学した。
実際の壕の中のベッドの再現品などに寝ることができるのだ。



文化センターの左の小高い丘に20を超える壕を掘り、首里の大本営の後方支援の拠点がここだ。
文化センターの立つ低地には、ひめゆりたちが食べ物を作ったり、死体を埋葬した場所などがあったようだ。

作られた食べ物は、醤油だるに詰められ、毎日丘を登って病院壕まで運んだのだ。その山越えの道「飯上げの道」を歩くせいごう氏。




壕は予約しなければいけないが、ボランティアガイドが、丁寧に説明しながら20号を進んでくれる。
必見の場所だ。



続いて、ちょいとひめゆりを逸れるが、みちすがらなので、2人が見ていない「牛島中将自決の壕」など見に、摩文仁の丘に立つ。
平和祈念資料館の全景が見える。



隣国に侵略戦争を仕掛け、やがて負け続け、本土決戦が現実味を帯び、ひろひとの大本営を「松代」に移すべく突貫工事が始まる。
その完成までの時間稼ぎに沖縄が「捨て石」にされる。如何に抵抗して、時間を稼ぐか・・だ。
その沖縄陸軍の親玉が牛島中将で、本人は自決するが、「諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」などとのたまい。この最後の命令が、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛ることとなり、彼の自決後、おびただしい数の死者を出すことになるのだ。「みんな降伏してください、ぬちどう宝です」と言って死ねば、どれだけの人が助かり、ひめゆりたちも生き残ったことだろう。

戦争だから仕方ないなどの、言い訳は通用しないぜ。マッドネス・・・狂気なんだよ。写真、自決の壕の入り口。



自決の壕を通りすぎ、崖にへばりつくような細い坂を下りると「沖縄師範健児の塔」に行きつく。
最高学歴の若き知性たちの自決の場所に建つ。沖縄学徒・・その男子たちは「鉄血勤王隊」として組織される。13歳から19歳・・法的根拠なく動員されたのだ。
鉄血勤皇隊は伝令や通信、切り込み、急造爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負っての特攻を行った。伝令なども、同じ文書を3人に持たし走らせ、そのうち1人だけがたどり着く、そのような任務であった。慰霊の日の翌日・・・たくさんの花が添えてあった。



わしゃ、したすら、反省した・・・・・



寄り道の後、ひめゆりの道再開・・・南風原に配属されたときは、戦争が負けるなんて思っていなかったという。
やがて、首里が陥落し、大本営も撤退。南部の果て「摩文仁の丘」に移動、それに伴って、歩けない負傷兵を置き去りにしながら、ひめゆりたちの病院も、南部のあちらこちらに転戦することになる。

伊原第三外科壕に今は「ひめゆり平和祈念資料館」が建ち、慰霊の人たちでにぎわっていた。そこから歩いて数分のところに「伊原第二外科壕」がある。僕らはそこに行った。
第一外科壕は有名な、糸数豪(アブチラガマ)だ。





やがて、6月18日にはひめゆりたちに「解散命令」が出され、裸同然で戦場へ放り出されるのである。
米軍に追い立てられ、南へ南へ逃げるしかなかった・・・
僕らは、その道を歩くことにした・・・こんな雨でないなら、車で海岸まで行けるのだが・・・ひどいぬかるみの道が続く。





雨でぬかるんだ畑の中の道を、無言で進む・・・
雨が海目指して、道を川のように流れる・・・
この、1キロ弱の歩き、歩くことでしか感じえないひめゆりへの感情、景色、空気・・・今までと違った、凄みを僕は感じたのだった。
当時の実感に、わずかでも近づけたような・・・
歩いてみることでわかることもある。ここは、これから案内するときは「歩く」にするかもしれない。





やがて、絶壁の海岸に出る。亜熱帯の海沿いのジャングルを抜けると、開けた海・・・そこには、なん十隻もの米軍の艦隊が並び、艦砲射撃しているのだった。



琉球石灰岩の尖った岩の海岸・・・裸足なら、1mさえ進めない鋭さだ。
せいごうさんは、歩いてみたいと言う・・無理なので、靴下を履いたまま歩いてみた。50センチさえ進めないのだった。
ここを逃げ惑った彼女たち・・・・傷だらけの痛々しい姿が沸き上がる。




絶望の中、彼女たちは、手りゅう弾で自決するのだった。深い悲しみが襲ってくるのだ。



那覇へ帰る道すがら、ひめゆりゆかりの「糸洲陸軍病院第二外科壕」に立ち寄るつもりだった。

やがて、ここらだなと言う場所に車は近づく。あそこを左に曲がれば・・・と、思ったが車は右に曲がった・・・
運転手大城さんに案内された場所は、僕の思っていた場所ではなかった。

が????????????????

いわゆる「糸洲外科壕・・ウッツカーガマ」フジ学徒隊(積徳女学院)の終焉の地であった。まったく、僕にとっては新発見であった。




大城さんに「さっき曲がった場所・左に行くと壕がありません?」と聞き、行ってもらった。

まぎれもなくそこには、砲弾で埋まった、ひめゆりゆかりの壕「糸洲陸軍病院第二外科壕」があったのだった。




そして、やはり道すがら、戦前最後の知事、少なくとも沖縄の住民のため仕事をし、今でも沖縄で嫌われていない「島田 叡」ゆかりの「轟の壕」を巡ったのだった。

こうして3日目の沖縄は暮れて行ったのだった。
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