館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2019若夏(わかなち)の沖縄その1・・2つの大本営をめぐる。

2019-04-22 05:19:16 | 旅は続く


今回のガイドツアーは女房とロストのゆっこ。
3つのテーマに沿って行程を組んだ。
1つは、「ひめゆりのたどった道」2つ目は「2つの沖縄大本営」3つ目は「琉球王朝の成立」。



4月1日に読谷村に上陸した米軍に対し、首里城に大本営(司令部)を置き、兵隊が武器を持って戦う前線を10キロほど先の牧港~嘉数~西原の高台に置いて米軍を迎え撃つ。
沖縄戦最大の激戦が行われたのだった。やがてこの前線は破られ、数キロ南の前田高地(浦添ようどれ周辺)に後退し、ここでも激戦だったが、この戦いに敗れたのちは、首里城大本営も南部の果て・・・太平洋の荒波がよせる摩文仁の崖下に自然壕を利用しつつ穴を掘り拡張した「摩文仁司令部壕」まで撤退する以外になかったのだった。

写真・・前線嘉数の高台。この嘉数は京都の部隊が大量に動員され、3000余の兵隊が亡くなる。だから、ここに京都の慰霊碑は建つ。




嘉数の高台に下には戦時下、美田やら豊かな畑があったが、戦後米軍が力ずくで普天間基地をつくってしまったのだ。普天間基地が良く見えるので、訪ねるひとは多い。



この世界遺産の「首里城」の地下には1キロとも2キロとも言われるトンネルが掘られ(あの元知事の太田氏も師範学校学徒隊「鉄血勤王隊」で穴を掘らされたのだ)1000人余の人が籠っていたのだった。本土決戦・・・松代の大本営が完成し、昭和天皇をそこに移し、戦う・・・その準備が整うまでと、捨て石の沖縄なのだった。

この日、数本前の飛行機に空席があったらしく、休日だった娘は(やつは空席があるとタダで飛行機にのれる職業なのだ・・)首里で合流、その夜の宴会まで一緒に過ごし、翌朝帰って行った)。
だから、何故かベーベーが3人なのさ。





1枚の絵の発見が正殿の姿を教え・・・・赤い柱の赤はどんな顔料から?と、再建に臨んだ人々の苦難の果てに、今の首里城は見ることもできる。
ここへ上るまでの坂道はあのシンボリックな「守礼の門」だが、ここに来たら、大本営のまぬけにもぽっかりと空いた、洞穴の入り口、大本営の入り口は」見なければいけない。



まぁ・・こんな感じで、アリの巣のように掘ったらしい・・・



現在4つほど入り口が見ることができる。写真は今年新しく解放された「東のあざ」の城壁下の公園のガマ。



首里城周辺は古の姿を忍ぶことができる場所も、戦火をのがれのこる。
写真・・金城石畳道。琉球王朝時代の城から港までの軍用道路である。



パワースポット・・・樹齢は200年を超すと言う「大アカギ」。以前は根元に立てたが、今は柵があって入れない。



首里大本営陥落の後、南部に敗走を余儀なくされたのだが、大本営は南端摩文仁の丘。
その数キロ北へ、国吉~八重瀬岳に前線を敷くが、もはやまとまった戦力ではなかったようだ。
首里に大本営の後方支援として首里から南へ数キロに、武官の経理部やら病院やらが作られる。そこがまさに「ひめゆり」たち、女学生の招集された場所となった。

摩文仁大本営への移動に伴い、病院壕も南部へ移動する(敗走する・・・歩けない負傷兵には青酸カリが渡され)この移動も、米軍の弾丸の標的とされる。
やっとの思いでたどり着いた壕が、現在の「ひめゆり祈念館」の立つ、第三外科壕だったりと、伊原周辺に最果ての壕がいくつも今も口をあけているのだった。

写真・・摩文仁の丘から望む「平和祈念資料館」。




平和の礎・・・沖縄戦で命を落とした人々が刻印されている。国籍は問わない。
2018年6月1日現在・・241525名(内沖縄県・149456人)
郡馬のエリアで、マスエのおじさんの刻印を眺める。



郡馬の塔・・・沖縄戦850の戦没者・南方諸地域戦没者29921名を合祀。「雄々しくも散っていった将兵の面影をしのんで・・・」と、どの塔も戦争の美化は変わらない。



6月23日(22日の説もある)最高司令官牛島中将が「最後まで死んでた戦え」と命令して、自身は自殺した摩文仁の大本営のガマだ。





海軍は小禄の飛行場(現在の那覇空港)を守るために、小禄周辺に壕を建設した。
瀬長島に渡る橋は飛行機の誘導灯の線上にあり、北には滑走路、上を見上げれば100mにも満たない至近距離で着陸寸前の飛行機のお腹が見れる。



海軍司令部壕は整備され、内部が見ることができ、太田中将ら司令部が自殺した場所も保存されている。



この太田中将は、「沖縄県民かく戦えり」の有名な打電を送って果てる。言葉の違う県民をスパイ視したり差別する日本国軍人にあって、県民の献身的姿を打電した、希な軍人であった。
戦前最後の知事「島田 叡(しまだあきら)」とともに、県民に恨まれていない軍人官僚」の1人ではなかろうか?



沢山の展示おあるが、これは秀逸・感深いものだ。

1977年慰霊祭り、太田中将孫が読んだ言葉である。わずか15歳か?

2つの大本営・・・陸軍と海軍・・・・

様々なメルクマールから、沖縄戦を追体験することは、今もって続く日本の米軍基地の70%を押し付けられている沖縄「いいかげんい沖縄だけにふたんさせないでほしい」という今の県民の思いに、実態を持って寄り添うすべのように思う。

ガイドしたお二人の感想やいかに?

僕は何度も行った場所でも、こうして「行ってみた」という人たちのガイドをする(ガイドできる)幸せを感じている。
コメント
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