館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2019若夏(わかなち)の沖縄その2・ひめゆりの道・・そして学徒碑をめぐる。

2019-04-24 05:15:43 | 旅は続く


首里の大本営・・その後方支援のために首里の南、南風原に陸軍病院ができ、隣の津嘉山に第32軍司令経理部が置かれた。そのかなり南の糸数にも病院壕(糸数分室)が設けられた(有名なアブチラガマ)。
那覇の安里に沖縄師範学校女子部・第一高女があり、その混成部隊が「ひめゆり学徒隊」である。
今、彼女たちは学校のあった場所(今は大道小学校などになっている)に立っている。

ここから、ひめゆり終焉の地まで、ひめゆりの通った道の追体験が始まるのだ。



南風原の文化センターにやってきた。20余りの壕が掘られた陸軍病院のあった場所だ。
ここに彼女たちが招集されたときは、皆勝つと信じていた、住民もなごやかで、農民は彼女たちが兵隊や医師などここに暮らす軍人たちの炊事などしている場に野菜などを売りに来たらしい・・・

壕の掘られた小高い丘の下に文化センターはあり、炊事場・・・少し離れて、なくなった兵士の埋葬場所などあったらしい。



資料館には現在公開されている病院壕20号の内部が再現されていて、負傷兵の寝る2段ベッドなどある。寝ることもできる。



資料や掲示物もかなりあって、ここをくまなく見学するには3時間はかかりそうだ。

壕の見学は事前予約が必要で、文化センターのホームページからネット予約や、所定用紙を打ち出し、ファックスで予約でき、予約完了するとメールなど届く。



壕までは結構な坂道(飯あげの道)を桶(ご飯など入った)を担いで配膳したらしい・・・



途中、日本政府の作った碑などあるが、うさんくさい。



見学できる壕の広場には東大の生協が建てたこのような碑もある。



壕は飛び込みで見学は出来ない。それは、しっかりしたガイドが案内するからだ。ガイドがつくと、入る情報量は格段だ。



いよいよ、ひめゆりたちが最後にたどり着いた壕周辺。この記念館にやってきた。



2千坪の敷地は、儀間さんという方が無償で提供し、ここの運営も行政に頼らない、ひも付きでない運営が続いている。




行政の建てた立派な塔の傍らに、生き残ったひめゆりたちが戦後早くに建てた塔がたたずむ。僕は何度も入館しているので、自由に見るようにと自由見学1時間半を与えた。



敷地内にはモニュメントや慰霊碑が並んでいるが、この碑は、学徒ともに医療に従事した方々が刻まれている。







摩文仁に司令部が移動し、病院も移る過程で爆撃や銃で撃たれる・たどり着いたガマで爆弾が破裂する・・・日を追うごとに死んでゆく学徒だが、6月18日に「解散命令」が突然出され、絶望の中、米軍の包囲する戦場をさまようことになる。組織的戦争が終わる23日までの数日が、それ以前より厳しい惨状を生むのだった。

逃げ惑った彼女たちと、数名の先生たちは、絶壁の海岸に出る。荒崎海岸である。本島最南端である。
逃げた背には火炎放射の炎・・眼前の海にはおびただしい数の軍艦からの砲撃だった。

琉球石灰岩のささくれて鋭い海岸をさまよい、手りゅう弾で自決した場所は慟哭の声が今も聞こえるような場所だ。

彼女たちも、琉球石灰岩の鋭さに驚きながら、自決の場に立った。



荒崎海岸から1.4キロほどの岬が本島南西端の喜屋武(きゃん)岬だ。



20mほどの絶壁の岬は、追い詰められ、行き場を失い、身を投げるしかなかった岬だ。
北マリアナ諸島サイパン島最北端の岬は、投降に応じなかった日本兵やら民間人が身を投げたバンザイクリフがある。
この喜屋武岬は「日本のバンザイクリフ」と呼ばれている。あの戦後沖縄を差し出すことで、自らの保身と本土占領を免れようとした天皇。「天皇陛下バンザイ」と言って、身を投げた住民・学徒が悲しい。



今も、生きることに疲れて身を投げるひとがいるのだろう・・・・こんなタイルが掲げられているのだった。
こうして、ひめゆりの道を僕らはなぞったのだった。



「崖」          石垣 りん
 
 戦争の終り、
 サイパン島の崖の上から
 次々に身を投げた女たち。
 
 美徳やら義理やら体裁やら
 何やら。
 火だの男だのに追いつめられて。
 
 とばなければならないからとびこんだ。
 ゆき場のないゆき場所。
 (崖はいつも女をまっさかさまにする)
 
 それがねえ
 まだ一人も海にとどかないのだ。
 十五年もたつというのに
 どうしたんだろう。
 あの、
 女。 
         
(詩集『表札など』・1968年刊)



3泊4日の行程で、立ち寄れる「学徒の碑」も回った。
写真・・・平和祈念公園の敷地に2017年に建てられた「全学徒隊の碑」



沖縄師範男子部・・・あの鉄血勤王隊の慰霊碑だ。摩文仁の丘の司令部壕を下った場所にある。動員された学生386名・・戦死者226名。



昭和女学校「梯梧の塔」・・・ひめゆり祈念館の隣にある。動員された生徒17名・・戦死者9名。



沖縄県立首里高等女学校「ずいせんの塔」。動員された生徒61名・・戦死者33名。




積徳高等女学校の慰霊碑。動員された生徒25名‥戦死者4名。




今は那覇市立商工学校。和魂の塔。動員された生徒不明・・・・戦死者114名。



県立第二高女「白梅隊」・・・・慰慰霊碑南部は糸満にあるが、学校のあった松山公園には、学校があったことを伝えるモニュメントが建っている。
動員された生徒46名・・・戦死者17名。

学徒・沖縄全21校に学んでいた若き知性たちだ。生きていたら戦後沖縄の沖縄の政治・文化・行政、そして米軍支配に対し、違った姿を描き、作ったに違いないと、こうした慰霊碑の前に立つ時いつも、僕は思うのだった。

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