行きはわくわくの心境。羽田でのおさしん。
今回は「まるっきりガイドツアー」なので、しかも、若いころ1度観光したベーベーと、初めてのベーベーなので、「島を好きになってほしくて」やや緊張で有った。
俺は、皆行ったことのある場所でも、島の空気が吸えればそれでOKなのだ。
8:50フライト、11:35着・・ほぼ定刻について、いつもお世話になる「砂川タクシー」でまずは昼飯!守礼そばのそばは美味かった!
この日のテーマは大きく2つ。
⓵ひめゆりのたどった道を追体験。
⓶そして、マスエの叔父さんの名が刻まれた「平和の礎」(へいわのいしじ)で、刻印を確認する。この事実を計画段階で聞かされ、1つ外し、このテーマに差し替えた。
だった。
午後からの5時間ほどで、かなりの場所を回るので、時系列的に追わず、一筆書きのように回ることで、テーマを追った。
ひめゆりたちの学び舎「沖縄師範女子部」と「沖縄第一高女」の有った場所を訪ねる。那覇の中心部、国際通りから近くの安里にある。今は大道小学校などの敷地。
彼女たちが、首里決戦の後方支援のために最初に召集された「南風原陸軍病院豪20号」を訪ねる。
事前予約を行い、ガイドさんが付いて、30ほどあった壕のうち、発掘・復元可能だった20号の中に入る。
やがて、首里は陥落し、戦線は南部に敗走・・・それに合わせて病院も分散・移動し、夜の闇の中数十キロの移動だった。
動けない患者は、青酸カリが配られる・・・
途中、分散した1つ「糸数壕(アブチラガマ)」は車中で場所だけ確認し、糸満の第一外科壕に行った。
「ひめゆり平和祈念資料館」は第二外科壕を抱くように建てられているが、ある意味有名どころなので、僕のガイドツアー以外でまた機会もあろうと、あえて、畑の中に突然ぽかんと口を開け、そして、ほとんど観光客はやってこないこの壕を選んだ。その分ここは当時の面影が感じられるのだ。
6月18日軍の解散命令以降、分散して従事していたひめゆりたちは、自力での脱出をしなければならなくなり、南部沖縄の原野を彷徨わなければならなかった。
最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。そのうちの10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決している。
その荒崎海岸は、僕の「ひめゆり」では外すことのできない場所だ。
ここでは、連れて来た誰もが、無口になり、立ち尽くす・・・
琉球石灰岩でもかなり古い石灰岩で出来ている海岸線・・・その石は、鋭利で硬く、クッション性の良い靴でも、鋭さを感じるのだが、ここを着の身着のまま、はたして靴は履いていたか?
などと考えると、逃げた彼女たちの痛みが少しでもわかる気がするのだった。
第二テーマ・・・・刻銘されている人数は24万1,525人(2018年6月1日現在)・・その中から、ますえの叔父さんを見つけるのだ。
あった!
何度も礎には来ているが、ごく身近な者の縁者を確認した今回の旅は、平和の礎を初めて、モニュメントでない「生身」の物と感じられた気がした。
小金沢辰五郎さん・・・・僕は認知症になって、何もかも忘れるまで、忘れることのない名前になった。
こうして「沖縄戦」をメインにした旅は終わった。途中琉球ガラスという、お土産として上位の物が作られている工房を見学し、購入。
少しホテルから遠い場所で砂川さんと別れ、市場など散策しながらホテルに向かう。
こちらも沖縄と言えば「やちむん」(焼き物の意)・・金城窯の皿など彼女たちは購入していた。僕はいつもの店で「ドライフルーツ」!ミネさんは奮発して「かりゆし」を購入した。
ホテルにチェックインし、しばしまったりやら、シャワーなど浴びて、夜の那覇に繰り出した。
初日は「沖縄B級グルメ」なのだ・・・翌日はちょいとしゃれた店・・・
乾杯なのだ!!
そう・・・コマネチで串揚げなんぞ食いながら、楽しい夜は始まったのだった。
タンパラヤ・・・セイボーの店は、かなり珍しく「満席」だったので、竜宮通りの「小桜」に向かった。
乾杯!
スルルーや島ラッキョウ・ミソピーなどつまみながら、ほろ酔いになってホテルに戻った。
こうして1日目は暮れていったのだった。