めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

死を恐れない人生

2018-04-27 12:44:06 | 日本人

どんなに豊かな暮らしをしても、素晴らしい環境に於いても
どうしようもないのが、老化です。
私達は、生まれた瞬間から、死に向かって進んでいるとも言われ
大人に成るまで、身体は成長するとは言え、殆どの人が、百歳を
待たずして一生を終えます。

とは言っても、生きているという意思がある時は、誰でも、少しでも
元気で若く有りたいと思うものです。
何不自由しない生活を送っていて、欲しいものをすべて手に入れられる
としても、唯一思い通りに成らないのは、老化と死という宿命です。
歴代の君主も、巨大国家を納める王も、あらゆる手段を尽くして
命を長らえようとしますが、その行く先は、人類共通の黄泉の国とえいます。

高度に文明が発達した日本に於いても、その事実は変えられず、
経済的に豊かな生活を望む事以上に、健康に長生きできることが
国民全ての願いであると言っても良いのです。
人類の長い歴史の中で、様々な時代で、人々は生きる為の努力をしてきました。
この事は、現代社会に於いても何だ変わるものでは有りません。

美味しいものを食べたいとするのも、お金を多く稼ぎたいとするのも
我が家を持ちたいとするのも、根本的には、いつか訪れる死への恐怖が
本能的に在るのかもしれません。
最後の最後まで、この世で生きている喜びを感じていたいとしているのです。

しかしながら、限られた人生であると知っていながら、日常的には、その事を
頭に描く事は全く無いと言って良く、多くの人達が、日々の喜びを噛みしめ
自分自身が思うがままに動ける事に、死とは真反対の心境を持っているのです。

所が、私達の人生は、順風満帆というのはまず考えられなくて、生きていると
言う事は、常に、思い通りに成らない日々や、思いもよらぬトラブルに驚き
苦しむ事が多いと言えます。
当たり前に衣食住が、ある日突然、外的内的の問題で覆り、それまで描く未来図が
大幅に書き換えられる事は珍しくないのです。

現代社会に於いては、自分の経済的基盤を支えている収入源が途絶えたり
滞ったりすると、たちまち、日常生活は滞ってしまうのです。
ただでさえ日常生活に苦しむ国民が多い日本に在って、収入減が無くなる事は
人生設計が失われる事にもなるのです。
更には、自分自身や家族の健康が損なわれれば、同じく、楽しいはずの日々が、
苦悩の日々と成ってしまう事が多いのです。

現代日本社会は、外見的には先進国の1つとして、非常に豊かであると言えますが、
現実は、多くの国民が、近代的生活に付いて行く為に苦しい生活を強いられていて
街を行き交う楽し気な人達の笑顔の下にも、他人に言えない苦しみが潜んでいて
日本人は、経済大国と言え、決して幸せでないと言えます。

便利な物に囲まれて、最新の家電製品に囲まれ、美味しいものに溢れている生活は
海外の方からすると、本当に幸せで夢の国で在る様に思えますが、現実に於いては
多くの不満や不安に溢れている人がとても多いのです。
しかし、日本人の気質として、他人に嫌な思いをさせまいとする心が働き、
表向きは、笑顔で満たされている様な振る舞いをしてしまうのです。

しかしながら、この日本人の優しさも限界であると言わざるを得ません。
何故なら、今や、日本人の多くは、この国で暮らすための支出に似合った収入が得られず
豊かな生活をする為に働くのではなく、支出を補うために働いているからです。
一人で生きても、家族で生きても、常に経済的問題が付いて回り、私的にも公的にも
がんじがらめに拘束された人生を送らざるを得ないのです。

自分の未来を築く為、現在の生活を維持するために、多くの負債を追っている人が
とても多く、大人から子供まで、何かを得る為には、その為の資金を得る事が
必要と言え、それを準備できない人が少なくないのです。
今や、簡単に借金が出来る事も有って、安易に、信販やファイナンス、銀行と言った
金融機関からお金を借り、返す事が出来なくなって、更なる苦しい生活を送っている
日本人は、実に多いと言えるのです。

結婚をするにも、子供を生むにも育てるにも、全てに支出が強いられ、その額は
上がる一方で有り、収支のバランスが取れない家庭が珍しくないのです。
かつては、物価の上昇に対して節約したり控えたりすることで出費を控える事が
出来たのですが、21世紀に入って、節約する事が出来ない公共料金や必要経費と言った
削る事が出来ない経費すら払えなくなってしまっている人も増えています。


多くの会社や店舗が破産宣告に追い込まれ、家庭に於いては、一家離散状態と成って
人生の憂き目を思い知らされている人達も多いです。
メディアは、事件性と話題性が無ければ、これらの問題を取り上げる事無く、
テレビ画面に映し出される日本人の生活は、豊かな資本主義社会の象徴の様な
笑顔となっているのです。

しかし、会社だけでなく、家庭内に蔓延する、日本社会の陰の苦しみは、
なかなか表に出る事が無く、多くの人々が、息が詰まる生活に耐えているのが現状です。
人々の繋がり家族同士の繋がりが希薄になるにつれ、自分の心を癒してくれるものは
外見的な豊かさと自分の欲望を満たす娯楽でしかなくなるのです。
日曜祭日だけでなく、行楽シーズンともなると、心の癒しを求めて、多くの人々が
観光地や遊園地に出向きます。

華やかで煌びやかな観光地は、自分の心に躍動感を与え、満たされない欲望を癒して
くれると言えるのですが、多くの場合、これは、心が満たされない事に対する
代償に過ぎません。
様々な娯楽設備を利用し、美味しいものを食べ、美味しいお酒を飲む事の意味は、
より豊かな人生を送る為であるのですが、現実生活に於いて、心が満たされず
物や仕事で補っている事も有り、ただ、新しい刺激を得ただけで、帰ってくれば
心も身体も疲れ果てるのが落ちと言えます。

確かに、高度成長期に於いても、日本人は、多くの観光地を訪れたり遊興施設を
利用して楽しんだのですが、その頃は、経済的に常に満たされる状況が続いていて
レジャーで楽しむ事が、次への仕事のエネルギーに成っていたのです。
ところが、現代社会は、日本国民の多くの生活力が衰え、何をするにしても、
資金不足で有り、たとえ、楽しい観光に行ったとしても、その事が、次への
ステップとなる事は非常に難しいのです。

つまり、現代社会に於いて、この社会を満喫するには、日本人の多くは、
余りにも資金が無さすぎるのです。高度成長期の様に、無心にレジャーを楽しむには
日々の生活に何の支障もない程の経済力がなければならないのです。
すると、多くの方が思う事は、経済的に豊かに成れば幸せに成ると考えるのです。

そして、政府も、経済が発展すれば、国民は幸せに成るとして、経済力を高める事が
日本人を幸せにすると唱えるのです。
これまで、バブル崩壊の後、数十年に渡って、経済力こそ日本人を幸せにする信じ
政治家も、日本国民も頑張って来たのですが、どうでしょう、日本人は幸せに
成ったのでしょうか。

一部の富裕層を除き、殆どの国民は、益々苦しい生活を強いられ、経済的に豊かに
成れた人は、一体どれほどいたというのでしょう。
政府も、国民の生活を豊かにするとして、様々な公共機関を充実させ、子供達が
安心して進学できる様に、授業料を只にし、経済的にも支援をしてきました。
更には、高齢者対策も積極的に行い、年々増える高齢者を守るための、様々な設備を
作り続けて来ました。
本当に、至れり尽くせりと言う国による支援が続いてきましたが、はたして、
国民は、本当に幸せに成ったのでしょうか。

確実に、日本中の公共施設は増え、あらゆる便宜を図った設備が作られてきました。
便利な公共機関や施設を利用して、多くの高齢者は、より安心な生活が出来る様に
成ったと言えます。
しかし、高齢者のみならず、若い人達が、便利で豊かと成った社会によって、
自分達の生活が満たされたと思っているのでしょうか。
便利で豊かが、日本人の幸せに繋がったのでしょうか。

残念ながら、バブル崩壊以降、日本人の心は、まるで花がしおれる様に、年々
生気を失っていると言えます。
外見的な豊かさで自分の心を慰めているとはいえ、本当に満たして欲しい所が
いつもがらんどうであると言えるのです。

それは、日本人が一番幸せと感じる心の部分なのです。
その部分は、物の豊かさでは到底満たす事は出来ず、日本人同士の心の労りや思いやり
によって満たされる所で有り、その部分を、外的な豊かさで満たそうとしたことが、
いつまで経っても、日本人が本当に幸せを得られない理由でもあるのです。

学校教育に於いても、対人的な心の在り方感じ方伝え方と言った、生きていく上での
他人との様々な関わり合いに対して、表面的な道徳教育程度しか行えない事から、
比較競争社会に多くの対人的トラブルが生じているのです。
如何なる地位にある人であろうと、著名人であろうと、人の気持ちを量る能力に疎く
簡単に人を傷つけたり、悲しませたりするのです。

如何に他人を喜ばせる事が出来るか癒す事が出来るかと言う事が、逆に、自分にとって
豊かな感情を育て、自分を人間として成長させると言う事が解らず、一方的な
欲望で他人を傷つけるハラスメントが増えるのです。

人間社会には、様々な考えを持った人がいて、物の価値観も考え方も違っていて
自分の尺度で相手を判断してはならない事を知らなければならないのです。
特に、男女の関係は、正に、水と油の様に違っているのであって、自分価値観と
相手の価値観は違っていて当たり前であり、その事を理解できない限り、
長きに渡って楽しい思いは出来ないのです。

今や、自己主張を行う事が、人としての能力の様に思われ、他人を差し置いた能力や
世代を超えた能力を見せる人がもてはやされます。
しかし、人は、様々な特性を持ち、能力差が有るからこそ、お互いを思いやり、
楽しい人生が送れるのです。
お互いに相手の事を理解できるから、一緒に生活が出来たり仕事が出来るのです。

所が、個人的な能力に優れる事が、人間の価値の様に感じさせる社会は、
争いは生まれても、幸せは生まれません。
例え、社会性が優れ、より多くの利益が得られるとしても、その事で、多くの人が
苦しむ様では、その利益は、いずれ、争いの種と成ってしまうのです。

人間は、死ぬからこそ、生きている意味が有るのです。
例え運命として、避けられない事であったとしても、何時か来る死を受け入れる事で
生きている今を大切に出来るのです。
生きる価値、それは、人間社会で生活すると言う事に有り、他人に生きる価値を認められ
人々の中で生きる価値を見出される事です。

つまり、他人にとって自分の存在が役に立っていると言う事です。
生れてから死ぬまで、単なる生き物の一生ではなく、生きる事で、周囲の人達に
多くの喜びや生き甲斐を与えられる事が出来る事です。
そして、その様に感じた時、人は、生きている事の喜びを感じるのです。

しかしながら、多くの人が、自分の欲望を満たす事を生きがいと感じ、
少しでも、他人よりも豊かな生活をする事を目的としがちです。
社会の要求も、その様な人間を求めていて、多くの人が生きる事に苦しみ
自分の存在価値を見出せなくなっているのです。

本当に心から許し合える友や家族がいれば、幸せな人生を送ることが出来
死を恐れることは無いのです。
現代日本に於いて、人々は、死どころか、日頃の健康すら心配で有り、
自分の人生にいつも不安と恐れを抱いています。

その苦しみから逃れる為に、少しでも多くの所得を得て、多くの保険にかかり
他人よりも豊かな生活を望むのですが、自分の欲望を満たす事ばかり考えると
いつまで経っても心は満たされず、社会的に地位が上がっても、多くの所得を得ても
他人からは称えられるどころか
、妬まれたり、嫌われたりするのが落ちなのです。

自分が生きている事が疎ましく思われたり、煩わしく感じられて生きる事は、
例え、経済的に豊かな生活が出来ても、自分の心は到底癒されず、端から見て
羨ましい程の生活を送っていても、心の中はいつも孤独と不安が渦巻いているのです。



 

 

 

 



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