めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

政界芸能界の不祥事は、日本人の問題

2018-04-26 12:54:49 | 日本人

連日、芸能人、政治家と言った著名人の不祥事がマスコミを賑わせています。
各界の、人々から崇められたり憧れられたりする部分のメッキが剥がれる様に
国民を落胆させる醜態ばかりが目につきます。
というより、我が国の隠された実態が、著名人によって、如実に暴かれている様で
日本社会の陰の問題が浮き彫りとなっているのかもしれません。

経済成長を遂げる日本社会に在って、その社会を支えるべき子供達の問題が
長きに渡って取り沙汰されてきました。
消費経済国家を支える為の未来の労働者を育てるた為に、より優秀な子供達を育てる
学校のシステムは、何より、成績が重要視され、成績によって子供達の価値が決めれ
教育の中心は、大人たちの思惑通りの成績を上げられる子供達を中心に作られました。


しかしながら、誰もが、与えられたノルマをこなせるわけではなく、様々な個人差により
多くの子供達が、教育という名の差別を受けるようになったのです。
将来社会に貢献できると思われる子供が優遇される学校は、多くの思い通りの成績を
上げられない子供達にとって苦痛の場と成りました。
次第に、イジメや暴力が吹き荒れる教育現場は、当時のメディアの中心的存在となり
荒れる子供達を愁う大人たちが連日コメンテーターとしてスタジオで議論したものです。

そんな教育現場も、メディアが注目しない程に鎮静化し、表向きは健全な教育現場と
成っている様に見えて、その遺恨は、決して無くなる事無く、大人に成って社会人と成っても
更には、日本社会を牽引して行く各界の人達の中にも蔓延しているのです。
子供の頃から植え付けられた、成績が全てであり、大人たちの要求を満たせば、我儘が許され
身勝手な行動をして見逃されると言う、日本人の根本的な心の甘さが有るのです。

この事は、例え、どんなに高い身分を得ても、社会が注目する地位や財産を得たとしても
根本的考えは変わらず、子供の頃には大人が、大人に成れば、社会が望む様な人間に
成れば誰でも、自分の我儘が通ると思ってしまうのです。
良い成績が得られなければ、経済性豊かな地位が得られなければ、望みは叶えられないものの
親や先生が望む成績を得られれば、社会的では、人々が憧れ望む地位や名誉や財産が得られれば、
自分の欲望や我儘を押し出しても許されるとする風潮が日本社会には流れているのです。

つまり、誰もが、成績さえ良ければ、地位や財産さえあれば、我儘が出来ると思っているのが
経済性だけ増して、人間としての成長を忘れてしまった日本社会の実情と言えるのです。
有名な政治家や芸能人が、驚く様な不祥事や不義、事件を起こしても、何の不思議ではなく
例え、何不自由ない生活が出来ているのに、何故!というより、その様な生活が出来るから
不祥事を起こすと言っても過言ではないのです。

今や、日本社会は、人類の進歩というより、人間の我儘を満たすために在ると言ってもよく
経済的に豊かに成るのは、自分の我儘や欲望を満たす為と言うのが根底に在るのが問題です。
例え、メディアからの情報を見て、眉を顰める人達であっても、もし同じような立場であったら
我が身を戒めると言う事は無く、多くの場合、欲望の我獣を解き放ってしまう可能性が有るのです。

成績が上がれば、社会的に地位が得られて多くの所得が得られれば、何でも思い通りになるといった
餌を吊り下げられて勉強をしたり仕事をしたりしている日本人が増えているのが問題です。
集団で、如何に富を分かち合って、幸せにトラブルなく生きて行くかという術を長年に渡って
育てて来たのに、資本主義経済社会と成り、更には消費経済国家を目指すようになって、
例え、集団で生活していても、自分の欲望を満たす事がステイタスとなってしまったことから
対人的トラブルが増えてしまったのです。

1つは経済的トラブル、もう一つは対人的、特に、一方的なハラスメントが増えたのです。
経済的トラブルは、政府の方針が国民を幸せにするものではない事から解決の糸が無いのですが、
対人的トラブルは、日常的に共同生活をしていく上で大きな問題と言えます。
基本的にパワハラもセクハラも、その問題の根は同じであり、日本人の対人センスが育っていなくて
人と人との繋がりが、勝手な自分の思い込みであったり、情報による知識であったりで、直接
目の前の人の心と身体を感じる能力が疎くなっているのが根底にあります。

いわゆる、相手の気持ちを察する能力がない日本人が非常に増えていて、まず、利益を考え
自分の欲を満たす事が前提となった対人関係が多い事がトラブルを生みやすくなります。
道徳教育の基本は、相手の立場に成って考えられると言う事ですが、それは、マニュアルが有って
それを覚えて、習った通りすれば良いと言う物ではなく、対人的に訓練されて、時と場合、
更には、お相手の人間的な条件や性質と、様々な要素が加わって生まれるのです。

簡単に察すると言いますが、その奥は深く、人間愛に溢れたものでなければなりません。
自分の都合や思い込み、知識だけで行われると、単に丁寧だけな慇懃無礼な態度と成って
相手の気持ちを苛立たせる結果と成ります。
いわゆる、ファーストフードの店員の応対と同じで、マニュアルで丁寧な言葉と行動を
行っているだけで、そこには、何の人間的な優しさも思いやりも有りません。

この事は、社会全体の人々のやり取りにも多く見られ、仕事を円滑にする為の術として
利用される分は良いのですが、プライベートで有っても、友達同士でも、家族間であっても
口先だけで本心と程遠い対応をする方も少なく有りません。
この典型が、多くの問題を起こしたり、国民から顰蹙をかう政治家と言えます。

この様々な対人的な問題は、多くの場合、その当事者同士の問題でもあるのですが、
この事が、社会的に風潮として定着して来ると、人々の生活に様々な問題が生じます。
先ず、男女間の関わりが、どの程度まで許されるか、対人的に相応しい応対はどうするのか
全てがマニュアル化された、益々、生きづらいつまらない社会と成ってしまうのです。
他人に接する事に怯え、男女の付き合いを恐れ、人付き合いに苦痛を感じる人も出て来るでしょう。

更には、様々な問題を取り締まり管理すると言う名目で、社会全体が誰もが監視されている様に思い
人々の感情的な思いのやり取りが自由に出来ず、まるで、戦前の恐ろしい社会と成ってしまう可能性が
高いのです。
ただでさえ、街中には監視カメラが置かれ、人々は、ナンバー制度で管理され、唯、国と富裕層の為に
奴隷の様に働く社会と成っているのに、国民は、自由主義国家とは名ばかりの、管理社会で、
心も身体も鎖でつながれたような息苦しい社会に生きて行かなければならなくなるのです。

今や、日本人は、目に見え無い様々な鎖で拘束され、顔で笑って心で泣いている様な状態です。
働いても働いても、殆どのお金を返済に充てなければならず、未来が全く見えない国民がとても多く
お金に不自由がない政治家や富裕層が想像もしない程の極限の生活を綱渡りの様に送っている人が
非常に多いのです。
もちろん、年々増える高齢者たちの生活も大変ですが、今、働き盛りの若者達の悲惨さは、
かつての、高度成長期の頃の若者とは比べ物に成らない程です。
大学を出ても、教育費として借りた奨学金の返済でいつまでも苦しんでいる人は多く、
社会人と成っても、自分が生きて行くだけで精一杯で、新たに家庭を持つことは考えられない
好きな人がいても、結婚には到底踏み切れないという若者も多いのです。

子供達の教育は、資本主義社会を維持するためのものであり、子供達を心豊かな人間として
育てる事を目的としていないのが現状です。
この事に関して、教育関係者や文科省は、子供達を立派な大人に育てる様にしていると言いますが、
現実は、子供達の姿や生き方を見れば一目瞭然で有り、イジメも暴力も相変わらず内在していて
その先には、社会的人間的な差別がある事は否めません。

韓国経済界での富裕層の暴言暴力問題が取りざたされていますが、彼らほど、感情的暴力的でないにせよ
日本社会も何だ変わってはいないのです。と言うより、日本の場合は、その事実が、深く潜行していて
なかなか表に出ていないのが現状なだけなのです。
戦後、日本も韓国も同じような高度成長を遂げて来ましたが、その内容はほとんど同じと言ってよく、
子供達は受験戦争で苦しみ、少しでも利益が得られる企業に就職する事を願っています。
この当たり前のことに、何だ問題が無い様に思えて、大人に成った人達の人間的成長が見られないのは
どちらの国も五十歩百歩と言えます。

著名人の不祥事やハラスメントが続きますが、この事は、決して特別な人達の出来事ではなく
日本中どこでも起こる事であり、現に起こっていてもマスコミが取り上げていないだけなのです。
残念なことは、何も知らない子供達が、大人たちの都合で、他人の気持ちが解らない人間に育つ事です。
教育は、国の将来をつくります。どんなに経済的に豊かな国と成っても、国民同士の信頼関係がなく
お互いに自分の利益だけしか考えられない様では、対人的トラブルは決してなくなる事無く、
人々の心に苦しみや悲しみ、更には怒りや憤りを生むだけなのです。





 

 



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