自らの不祥事の言い訳をする為に、多くの大切な時間が費やされています。
事実を明確にする為の答弁とは言え、同じような場面をこれまでどれだけ多く
見せられて来たか、早急に行わなければ成らない案件が目白押しであるのに
政治家の疑惑を問う、まるでディベートの様な、国民の為には全くならない
国会討論がテレビで放映されるたびに、我が国の政治は、国民の為に無い
と言うのを実感するばかりです。
国家の党首に始まり、各大臣の失言暴言、そして、政治家と企業家の癒着と
余りにも国民を馬鹿にした醜態が無くなりません。
日本を動かし、国民を豊かにすべきリーダー達が、自らの欲望のために招いた
数々の不祥事は、毎度の事とはいえ、政治不信と言うよりも、国民の気持ちを
逆なでする、地位と権力を持った人達の暴挙と言わざるを得ません。
お互いにすねに傷がるような人達が集まって、たまたま不祥事が発覚すると
その事を待ってましたとばかりに大きく取り上げ、リーダーシップを取りたがる
正に、政治を利用した欲望絵巻と言えます。
国民の目に触れなければ、気が付かなければ、地位や権力を利用して何をしてもいい
とする、経済社会の頂点に立った人達の我儘が、いつまで経っても、国民や弱者を
幸せにすることは有りません。
また、新たなるリーダー達が決まると、彼らの働きを助け、より国民への奉仕を
期待すると言うのではなく、何とかアラを見つけ、足を引っ張ろうとする考えが
ありありと見えて、日本の政治は、国民の為に有ると言うより、政治家たちの
権力闘争の場であるとしか言えません。
より地位の高い職に就けば、その立場を利用して、国民の期待に応えようとする
のは表向きであり、心の中は、単に会社で役職が上がり、給料が増えたとする喜びと
何だ変わらない、自分の欲望が叶えられたと言う喜び過ぎません。
公人であると言う事は、自分の目的が、国民の為である事であり、国民生活を
豊かに幸せにすると言う事で、その地位と高い報酬が与えられているのです。
国会審議を行うだけで、どれだけ多くの税金が使われているか、時間もお金も
足りないと言いながら、身内の不祥事に多くの大切な時間とお金を使っている
国民の血税を使っていると言う意識が見られません。
自分の興味の対象でなければ、たとえ議員で有っても、参加する事は有っても
心はその場に無く、時折、カメラが映し出す退屈な表情やいかにも眠そうな姿は
多くの国民が必至に働いたお金を使っていると言う緊張感は全く有りません。
自分の地位を守る為の懸案には関心を持っても、自らが関わらない事と成ると
全く他山の石の様な政治家は少なくなく、深く広い知識を持ちえない為に、
自分の答弁や関係する議事に関わると、まるで、国会議員とは思えない様な
知識の浅さと見識の無さを暴露する人も少なく在りません。
その為、その様な議員には、ただ、与えられた答弁の書類を読むだけで、
本人の考えも存在価値も全く感じられません。
正に無能集団とも言える近年の政界は、その社会的地位が果たすべき責任と義務が
感じられず、ただ国民には、自分の能力の無さをパフォーマンスで誤魔化すだけで
益々信頼を失っている事が解っていません。
一番大切な国家の指針を示す事が出来ないリーダー達は、ただ恒例の、親方アメリカの
言い成りに成るだけで、どれだけ国民が不安な気持ちになり、いつまでも戦争の傷を
癒す事が出来ないのです。
日本は平和な国家とする政治家たちは、一体何を血迷っているのか、よほどの利益を得て
いるのかと思える能天気が多く、明かに、沖縄は、アメリカの基地であり植民地である事を
いまだ認めていません。
日本中に在る米軍駐留地の面積は、明かに、日本がアメリカの東アジアにおける軍事基地であり
沖縄に至れば、島の殆どがアメリカの支配下に有ります。
アメリカに守られているとする政府関係者は、自分達が守られるとするのであって、基地の近くの
多くの国民が、いざ有事と成れば真っ先に攻撃される事を無視しています。
国民生活を苦しめ続けるだけでなく、沖縄などの基地周辺の人々は、いまだ、日々命のリスクを
背負い続けているのです。
自分達の不祥事は、長々と議論を繰り返し、いつの間にかに、事なきにしてしまう政治家のやり口は
今に始まった事では有りませんが、議論を尽くすと言う、民主主義国家の逆手を取った、時間と税金を
無駄にする国民を冒涜する行為と言えます。
しかしながら、この事は、彼らが特別の人達であると言えないのが問題です。
日本人の代表であると言う事は、日本人の姿でもあると言う事なのです。
多くの人が、苦しい生活から抜け出せないのも、自分の望む物が手に入れられないのも、
経済的に豊かでないからと考える人が多いのです。
では、生活に苦しむ国民が、地位や名誉を手に入れたら、今の問題を起こす政治家とは違って
国民の為に尽くすかと言えば、そうとは言えないのです。
何故なら、一般庶民も、政治家も企業家も、日本人として育った環境はあまり変わらないからです。
確かに経済的な差はあるにせよ、日本人として成長して来た過程が、この経済大国を維持し、
その中心となるべく努力するように作られた教育課程を経てきているからです。
つまり、人間としての生き方と言うよりも、如何に経済的に豊かな生活をするかを競った教育を
殆どの国民が経て来ているのです。
誰もが、地位と名誉を得れば、今、自分達が批判しているリーダー達と同じ事をする可能性が
とても高いと言えるのです。
つまり、日本における人間の価値が、人間性ではなく経済性に成ってしまっているのが
一番の問題と言えるのです。
少しでも経済的地位の高い人が、低い人を支配できると言う暗黙の了解が、多くの人々の心を
苦しませるだけでなく、一度地位を得た途端に欲望が前面に出て、自分より下と見なす人達を
ないがしろにしてしまうのです。
様々なハラスメントが取りざたされていますが、その全ては、上に立つ人が下とみなした人への
心と身体に対するハラスメントなのです。
そして、いじめられっ子がやがていじめっ子に成って行くように、地位と名誉、財産を得た人は
それまでの謙虚な気持ちは失せ、自分の欲望を全面的に出した、社会的地位を利用した問題を
起こしてしまうのです。
今や、日本人は、人の価値を外見や社会的地位でしか量れない民族と成ってしまいました。
メディアは、国民のもとめる物や価値観を決め、人々は、幸せに成るには、メディアが示した
豊かな消費物資を手に入れ、社会的地位のある人に成る事を目的としています。
その為、自分の周囲の人達の気持ちを察する事が出来ず、自分の欲望を前面に出す事に依り
様々な環境で人々がお互いに傷つけあう社会と成ってしまったのです。
その為、お互いに、被害者にも加害者にも成りたくないとする人が増えて、日本人同士の
心のやり取りと成長が失われているのです。
幸せは、欲しい物をより多く手に入れるものとする国民が増えるにつれ、ますます、より豊かな
生活をしている人達の独断と独裁が強まってしまうのです。
人間の価値を見いだせなく成れば、より経済的に豊かであれば、何でも自分の思い通りになるとする
横暴な考えが生じ、対人的なトラブルが頻発するのです。
しかし、たとえ、どんなに豊かに成ろうとも、自分より経済的に豊かな人は幾らでもいて、心の中では
人として対等にやり取りが出来ない事のストレスは溜まり続けるのです。
経済的に不安の無い人達はともかく、日々の生活に苦労している人達は、日常的に、どんなにあがいた
としても、どうしようもない身分の差に苦しみます。
中には、そのストレスからくる苦しみを他人に暴力で向けたりする人も出て来るのです。
つまり、一部の人の豊かさは、多くの人々の不満と暴力を生み出してしまうのです。
富裕層の人達が、必要以上にセキュリティを高めた住居に住む理由は、豊かである事に満足するだけ
でなく、経済的に豊かでない人達からの報復を避ける為でも有るのです。
この経済社会のリスクが日本以上に高いのがアメリカであり、銃社会が無くならない理由でも有るのです。
かつて、夜道を女の人や子供が歩いても、何の危険性も無かった日本は、今や、暗闇を見たら避け
見知らぬ人を見たら近づかないと言う社会になってしまいました。
子供や女子を学校や仕事場に送り迎えする家庭は珍しくなく、日本中が、対人的に神経質と成っています。
家の中も外も安全安心であったかつての日本社会は、人々の間に思いやりと労りが有り、常に、他人を助け
人間として成長する事を大人への道として来ました。
今や、どれだけ、自分の望む物を勝ち得るか、時には暴力をもってしても自分の欲望を叶えようとする
危険な行動言動をとる人が、日本社会に増えて生きたのです。
例え、社会的に認められ、人々の代表と言われる人であっても、自分の欲望の為には平気で国民を裏切り
保身の為にとしか思えない言い訳三昧を繰り返すのです。
たまたま表沙汰と成った人々をつるし上げても罰を与えても、雨後の筍の様に、次々に同じような醜態を
さらすのが現代の日本社会と言えるのです。
経済的に豊かと成っても、自分以外の他人が危険人物に見えるのは、既に、自らが人々から報復を
受ける様な、欲望に任せたやましい人生を送って来たとも言えるのです。
地位と名誉を得る為に、小さい頃から周囲の人を蹴落として、自分の欲望にまい進して来た事が
どれ程、社会的地位を得られなかった人達から、羨望と言うより妬みと成っている事を、うすうす
感じているからこそ、身の回りのセキュリティを高め保身に走る傾向が出るのです。
なぜ、日本人が世界でも有数の優れた民族に成って来たのか、ただ、経済成長だけでなく
歴史的に育てられて来た豊かな人間性に有った事を忘れてはならないのです。
そして、その広い心と優しさは、美しい日本の自然の中で培われて来たのです。
戦後、高度成長に伴って、私たち日本人は、お互いの心を感じる事、そして日本の自然を感じる事を
忘れてしまい、目先の欲望に溺れ、経済的な豊かさを目的としてしまったのです。
いつまで経っても、どんなに経済的豊かに成っても、本当に心が幸せと成れないのは、
日本人にとって、大切な心の糧を失ってしまった事に因るのです。
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