めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

戻れない元の生活

2018-07-06 16:07:56 | 日本人

梅雨が明けて、今年は空梅雨で水不足が心配と思っていたのに、
ここ数日の日本列島は、記録的な豪雨で、各地に大きな被害が出ています。
観測史上まれに見る大雨が降っている地域も有り、東京の天気が嘘の様です。
雨雲の様子を見ると、静岡と神奈川の境の箱根峠あたりから関東にかけて
急激に雨量が減っていて、ニュースに見られる各地の豪雨が信じられない程です。
普段は、観光客が歩く姿が多く見られる京都鴨川周辺は、木の枝や瓦礫を撒き込んだ
濁流が音を成して流れ、いつも穏やかな観光地の代表的な場所が想像できません。


昨年酷い被害に見舞われた北九州の被災地は、復興もままならないのに、更なる被害が
心配され、正に日本は災害列島と言えます。
地震を始めとする大災害に国民は苦しめられるのですが、毎年の被害に対し、国は様々な
復興対策を講じているのですが、現実としては、被害に遭われた方々が、衣食住の復興は
何とかなっても、長く心の傷を引きずっているのが問題です。
人々の生活は、同じような生活形態を持っているとはいえ、そこに住む人々は、
誰もが個性を持った様々な生き方をしているのです。

唯一無二の心を満足させる為に、様々な生き方を選択し、社会生活を営んでいるのであって、
生き方に関しては、誰一人、同じ思いは無いと言っても良いのです。
特に、自分が生きて来たプライベートな部分に於いては、誰もが、繊細で傷つき易く、
例え、ハードな部分で復興したと言え、心の傷が癒される事はとても難しいのです。
何十年も生きていた土地の空気、風土、そして人々との触れ合いが創り出した自らの感性は
災害で破壊されてしまうと、簡単には埋められるものではなく、立ち直るには、本人自身が
新たなる生きる喜びを得る事と、苦しい過去を自分の人生の一部として認められる事です。

壊れた物は新たに作り直し、災害に強い街を作れば、それで復興したと考える政府や自治体は
被災地に住む人達の心を癒す事も元の心安らぐ気持ちにさせる事も出来ません。
問題が生じた時、予算を掛けて、経済的に解決すればそれでいいとする、日本社会の在り方は
被害に見舞われない時は良いのですが、一度被災すれば、誰もが言いようのない苦しみに
長く苛まれる事となるのです。
現代の日本社会は、豊かな人にはより豊かに成る様に、苦しい生活をしている人には、より
苦しむ方向に成るのが大きな問題と言えます。
外見的に豊かな先進国も、一度崩れると、人々の暮らしだけでなく心まで破壊してしまうのです。

日本人の多くが、日々の生活に追われ、自分の生活を維持して行く事で精一杯の状態です。
それは、貧乏だからというのではなく、現代社会の経済体制に付いて行くには、必要以上の
出費を強いられ、社会生活を営むだけで、経済的にも精神的にも苦しめられているのです。
プライベートを知られる事を恐れる現代日本人は、出来るだけ、周囲の人達から特異な目で
見られたり、自分だけ除け者にされる事を嫌います。
外見的には、常に良い人で有る様に取り繕い、周囲から浮いてしまわない様気を使います。
その為、誰もが同じような生活をしている様に見えて、実際は、極貧の生活をしていたり
常にトラブルの絶えない生活をしていたり、家人との諍いが絶えない場合も少なくないのです。

その為、事件が起こるたびに、周囲の方の感想は決まっていて、意外性のある言葉が並びます。
地域生活に於いては、出来るだけ本当の姿を見せないと言うのが日本人で有り、よほどの事が
発生しない限り、たとえ隣近所で有っても、一体何をしているのか解らないのが実情です。
現代社会は、都会に於いても、地方に於いても、多くの人達が密集して生活しているとは言え
現実は、誰もが孤独で有り、常に、心が癒されない事に不満を持っていると言えるのです。

しかし、豊かな生活している人も多く、何不自由ない生活をしていれば、毎日が楽しくて
そんな思いは無いと思われますが、残念ながら、生活レベルに関係なく、今の日本人は、
多くが心の奥底を隠し、理解されず苦しんでいるのが実態と言えるのです。
何故なら、その心を癒し満足させてくれるのは、豊かな経済性ではないのですから。
どんなに華やかで豊かな生活をして、周囲の人達から羨ましがられても、その生活以上に
心が豊かでなければ、自分の生活が豊かであるがゆえ、孤独も大きくなるのです。

例え家族であっても、心の内を打ち明けれれない人は多く、ただ、同じ屋根の下で
共同生活をしているに過ぎない家庭は珍しくありません。
そんな癒されない心を満足させるには、社会も本人も、より豊かな経済性と考えるのが
現代日本人の不幸を生み出していると言えるのです。
経済的豊かさを幸せの尺度と考える日本人が増えるにつれ、心の闇が広がる人が増え
経済性の差に対する不満が社会への報復と成り、数々の事件が増えているのです。

自虐的になる人、自閉的に成って社会に背を向ける人もいるのですが、経済性の差を
豊かな人達からのイジメ、差別と考える人もいて、毎年、凶悪な犯罪や惨たらしい
人々が目をそむけたくなる事件も増えているのです。
その様な社会を敵に回す様な人間を圧力をもって封じ込めようとする対策の多くが
全く功を成していないのは、現代社会が、その様な危険な人達を生み出している温床と
なっているからと言えるのです。

問題は、多くの人が、生活に余裕がなく、心癒される生き方をしていない為、
何かのアクシデントや事件によって生活が破たんすると、簡単に、心の闇に囚われ
自暴自棄に成ったり、社会を敵に回す犯罪に手を染めてしまうのです。
今の日本社会は、誰もが凶悪犯に成る可能性があり、誰もが生活破綻する可能性が
あるのです。

自分の幸せを基準に出来ない社会生活は、外見的には豊かに見えて、心の中は
ますます寂しく苛まれて行くのです。
マスコミやメディアは、様々な情報を通じて、日本人の幸せを提供します。
より豊かな消費を行い、経済的に豊かな生活をすれば幸せに成ると、
成功者や芸能人を前面に出してアピールします。

多くの人々は、彼らの華やかな生活を理想とし、自分もそうありたいと、
提供される多くの商品を手に入れ、少しでも幸せに近づくと心に強く信じます。
しかし、メディアが示す、華やかな生活を手に入れられる人は、ほとんど居ません。
多くの人が、時間と費用を使いながらも、心の満足は得られません。

しかし、自分の心を基準にしない生活は、常に流行や社会の流れに左右され、
ひと時も、満足する事無く、常に、欲求不満の状態と成ってしまうのです。
この悪循環が、日本人の多くに、慢性的な心の不安を作り上げる原因となって
常に、新たなる魅力的な商品を求め続ける事にしか興味を示さない、完全に
提供者達に奉仕する生活を強いられる事となるのです。

日常生活の全てを社会の流れに従わせるには、常に経済的な出費を多く求められ
その止まる事を知らない消費形態は、日本人の家庭に溢れる消耗品の数々を見れば
如何に、情報に踊らされ消費し続けて来たかが解ります。
しかも、その多くは、一生を通じて使われるという物は殆ど無く、常に買い足しながら
ゴミとして捨てながら、新製品を買い求めると言う、無限の消費形態を作り出し、
決して満足することない生活を生んでいるのです。

とは言え、新たなる品物を手に入れる事は決して悪い事ではなく、生活を、豊かに便利に
すると言う事では、生きて行く上で大切な事でも有るのです。
問題は、その求めた物が、便利さや経済性としては役に立っても、自分の本心を満足
させる物には程遠い物が多い事です。

シッカリと熟考して、自分にとって本当に必要な物か、自分の将来にプラスとなるのかと
考える間もなく、映像に移される芸能人の笑顔や効用を謡うタレントの言い成りに成って
何の考えも無く言われるがままに手にしている場合が多い事です。
と言うより、疑う知識も考えも持たない様に育って来た事が問題なのかもしれません。

多くの日本人は、大人に成る為の知識や考えを持つ為に、小さい頃から勉強して来たと
思うのですが、そのからくりは、日本の社会に合う人材育成のシステムに則て育てられ
大人たちの都合の良い子供であることを目標とされて来ました。
つまり、日本経済社会を担って行けるような人材育成が日本の教育で有り、個人的な
心や、人間としての社会性を育てる教育は二の次と成っている環境で育った結果
経済社会をリードする人達の言葉を簡単に受け入れてしまう様に成ったのです。

確かに、経済社会国家に生きている限り、経済的に豊かに成る事が、自分の欲望を
果たす事が出来ると言えるのですが、その事で、自分自身の人間としての価値を
作り上げるのでは無いと言う事実を忘れている方が多いのです。
社会的に地位が有るから立派な人であると思うのは、残念ながら、経済社会に飼いならされた
忠犬とも言え、大人にとって都合の良い子供と同じく、富裕層にとっては便利な消費人と
言えるのです。

もちろん、経済的な差は、どんな社会で有るのですが、其々の生活に於いて、自分自身に
自信を持ち、自分の生き甲斐と心の幸せを持っている事が大切と言えます。
どんなに経済的に苦しくとも、人生を謳歌して、心豊かに生活している人もいます。
社会というのは、其々の生き方に応じて、心豊かな幸せな生活が出来る事が大切なのです。

経済的に豊かな人を見て、比較を持って自分の生き方を考える様では、どんなに経済的に
豊かな生活をしても、更なる比較する人が現れれば、自分の生き方は不満となるのです。
如何なる地位、生活レベルに在っても、本人の心が癒され幸せでなければ、身に付けた
社会的な力も、無駄であると言えるのです。

毎年起こる大災害に見舞われた人達も、外見的な復興だけでは、本当に心も身体も癒されず
一番大切な事は、そこに生きる人達の心を満たしていたものを復興させる事です。
外見的に美しい街を再建したとしても、人々の気持ちは、いつまで経っても癒されないのです。
近年、日本は、地震を始め多くの大災害に見舞われていますが、国で在り豊かな人達の支援は
常に、自分達の生活を基準としたものと言えます。

被災した人々の生活は、その土地で長きに渡って育てられて来たものです。
どんなに古くみすぼらしくとも、豊かな生活を行う都心の人達の思う価値観とは違うのです。
より立派な街を作ったから、前よりも便利な街にしたから、さぞ満足だろうと思うのは
勝手な思い込みで被災地を再建した政府や業者の思い込みに過ぎません。

数万人の死者を出した東日本大震災の後、作られた新たなる街に、心から満足している
被災者たちは一人もいないと言えるのです。
国が多くの支援者が作ってくれたのだから、文句は言えないとして、喜びの表情を作っている
地元の高齢者達の笑顔がもどかしいです。

困っている人を助けると言うのは、人間として当然であり、その行為は美しいと言えます。
しかし、助ける側の勝手な思い込みからの施しや手助けは、かえって、弱者を苦しめます。
世界に名だたる高度経済社会となったとは言え、日本社会における、日本人としての心の在り方は
その発展とは裏腹に、萎え委縮していると言えます。
日本人の豊かな感性が、人として魅力的な生活を行える為には、国家規模で、日本人としての
生き方を考え直す事が重要と考えられます。

 

 

 

 

 

 



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