羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

風に吹かれて

2017年02月18日 09時20分13秒 | Weblog
 昨日、関東地方には「春いちばん」が吹いた。
 その風のなか、武蔵野台地中央部に位置する杉並を出て、代々木国立オリンピック記念青少年総合センターから、文京区千駄木へ出かけた。ここは武蔵野台地東端部に位置する。
 目的のダンススタジオは、急な坂道である”団子坂”を登って、住宅地のなかにある個人のお宅である。
 長居をせずに団子坂上に出ると、「森鴎外記念館」が目に入った。因みに、最寄り駅の東京メトロ「千駄木駅」の海抜は6・7メートル。ところが団子坂上の海抜は20メートルである。いかにこの坂が急な登り坂であるかが実感としてもわかるのである。ここが森鴎外記念館が位置する大事なところなのである。
 
 実は、今年に入って「鉛直」と「垂直」を調べている時に、鴎外の文章のなかに使われていることを知った。
 この記念館は旧居跡地につくられている。
 鴎外30歳から亡くなる60歳までここで暮らした邸宅があって、大きな屋敷は当時の文人達のサロンでもあったという。
 そして、増築した二階からは、品川沖の白帆が遠く眺められたため、鴎外自身が「観潮楼」と名付けたという。

 1892年(明治25)から1920年代当時の東京を想像することは難しい。
 しかし、遠く離れた品川沖まで眺められたということに思いを馳せてみると、100年の時間があまりにもはやく過ぎていったことに不思議な実感をもってしまうのである。

 館内を見学して、受付・ショップに立ち寄った。
 手に取ったのは『森林太郎立案 東京方眼圖』である。
 1909年(明治42)東京市日本橋區通四丁目角 「春陽堂發行」の復刻版である。
 ひらりと一枚はいっていた説明書きを読むと、鴎外がドイツに留学した際に、ヨーロッパではすでに一般的だった方眼付き地図を参考にして立案したもの。この地図が刊行された当時の日本では、方眼つきは非常に珍しかった、と書かれている。
 よこ軸には「いろはにほへとち」と記述され、たて軸には「一二三四五六七八九十十一」と自分が立っている位置が検索しやすい地図である。
 さすがに理系の作家、森鴎外を彷彿とさせる地図である。
 小説のなかに「鉛直」「垂直」という記述があっても、その使い方が正確である意味がここからも伝わって来る。

 地図に山手線を探す。
 東京駅が見つからない。
 目を皿のようにしてよく見ると、東海道の終着駅は新橋停車場で、北からおりて来る鉄道路線は秋葉原仲町でストップしている。それもそのはず。この駅は1908年に本格化し、1914年(野口三千三誕生の年)に完成したわけだから。今年で103年になる。
 当然、1909年の地図に東京駅が載っているわけがない、と得心した。

 地図を観ながら思うこと多々。
 まず、千駄木という地名はどんな由来か。そこから離れた田舎であった内藤新宿ちかくに原宿村あたりに千駄ヶ谷があるのだろう。
「千駄」が共通である。キーワードは「駄」であった。駄馬、駄菓子、駄洒落の「駄」である。
 荷役に使う馬のことで、値打ちのないもの、つまらないもの、粗悪なものの意である。
 人を乗せる「乗馬の馬」は一段上であり、荷物を運ばせる馬は「駄馬」なのである。
「なんともはや馬がかわいそう」
 こん差別感はいかに。
 物流が止まれば、人間はその日から生活できなくなる。とりわけ生産をしない都市生活者にとって、生活物資、建築物資、その他、ありとあらゆものを運ぶ馬は、貴重であるはずなのに、なんたることか!
 それはそれとして、地名の由来だが、「千駄木」は、太田道灌が千駄木林と呼ばれる地に「栴檀(センダン)」木を植えた。そのセンダンがなまったか、あるいは「千駄」も植えた、「馬」一頭に負わせる荷物の量を「一駄」とし、それが千頭にも運ばせた多量の植林をいうらしい。
 では、「千駄ヶ谷」は何か。
 ここは、渋谷川上流域にはたくさんの萱がはえていて、それを一日に「千駄の萱を積むところ」集積地ということに由来する、とある。
 まとめると「駄」というのは荷物の単位を示す助数詞である。江戸時代には、荷物運び専門の本馬が1駄36貫(136キロ)を定量とした。人一人を乗せる軽尻(からじり)が1駄16貫(約60キロ)。この軽尻の重量に換算して、酒3斗5升(約63リットル)入りの樽二つを1駄といい、一つのを片馬といった。

 ようやく「千駄木」と「千駄ヶ谷」の地名の由来に納得した。

 春風に吹かれて飛ばされて、とんでもない遠方まで話が飛んでしまった。

 とにかくも森鴎外の「鉛直」「垂直」観が、一枚の地図から読み取れるわけであります。

 蛇足:この地図のなかに「東照宮」はあっても「寛永寺」という寺の名称が見つからないのである。
 さらに野口先生の墓所、第二霊園は、徳川第二◯(読めない)廟と記されているだけである。
 穿った見方をすれば、寛永寺は徳川慶喜が一時蟄居していた寺院であることも地図から名前が消えるなんらかの関わりがあるのかしら?
 わからない。
 謎は謎をよんで、面白くなりそうだ。
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