羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

煩悩は火の中に……

2008年07月17日 14時16分58秒 | Weblog
 昨晩、送り火を焚いた。
 東京のお盆さんは終わった。
 なんとなく‘お盆’という感じがしない。日本全国のほとんどが旧盆で行われる行事を、東京だけは7月なのだから、しかたがないかもしれない。
 それでも盆は盆だ。

 今朝は‘お棚’を片付けた。
 位牌のほこりを払い仏壇に戻す。なぜか落着く。
 そのほか暑さでぐったりした花々をもっと短くして、残った2輪を小さく活けなおす。
 香炉だの、線香だの、お鈴だの、すべてを元に戻す。

 最後はお盆用の一対の行灯をしまう。
 図を見ながら、桐の箱におさめていく。
 書かれている通りに行うとピタッとおさまる。上蓋がしまった時には、安堵感と達成感と落着き感が味わえる。
 むしろ12のパーツに分かれているものを、組み立てる時の方が楽だ。
 それを元通りに箱にいれる作業は、置き方の角度や順番を間違えると箱におさまりきらなくなる。
 
 毎年のことでも一年に一回だと、いつも新鮮なドキドキ感がある。
 しかし、それぞれの大きさの比率バランスで、箱のなかのおき場所が、よく考えられている。箱の幅と長さが1センチでも違ったら、おさまりが悪いはずだ。余分に大きい必要はない。かといって5ミリだって違えばおさまらない。少しだけ縦方向が長い箱になっている。

 話は前後するが、組み立てられた一対の行灯は、半間の中におさまってくれる。
 我が家では、‘お棚’といっても段々に組み立てるものを使っているが、その棚の両サイドに振り分けて置く行灯は、左右の幅を足して半間で収まってくれる。
 従って、一間の床の間に、すべてがきちっとはまるので助かっている。
 日本の家の間取りにぴったりというわけだ。

 そんなわけでほとんどのものが、小一時間で片付いた。
 後は、‘迎え火’と‘送り火’を焚いた素焼の焙烙が乾いたらしまえば終わる。
 
 こうして、何となくせわしさを伴った盂蘭盆会は、今年も無事に終わった。
 たとえばお盆中の夜に、行灯を灯して、線香を焚き、手を合わせるときばかりは、日常をきれいに忘れられる。
 灯明は、命の象徴でもあり、死者の魂でもある。
 一年に一回、夏というこの時期に、灯明と対峙することによって、見えないものを観、聞こえない音(声)を聴くことによって、身体の奥にたたまれた思い出が甦る。
 盂蘭盆は佛事を超えて、人にやすらぎを与えてくれると思うようになった。
 齢六十、還暦を前にして。
 焙烙の中で燃える送り火を見つつ、人はいったいどこに行くのか、そう思わずにいられない。
 
 そして、煩悩は火の中にくべるべし、か?
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« マチネ派 | トップ | 挨拶の効用 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事