野口体操が社会的に注目を集めた時期は、私が知る限りで3回ほどあった。
一回目は、『原初生命体としての人間』が世に出た1970年代のことだった。
当時は、戦後一回目の「身体論」が静かなブームとなっていた。
身体を解き放つことで、人間の真実を見つめてみようという、哲学的な視点にリンクして「野口体操」が注目されたと認識している。
次は、バブルがはじけて、社会全体がスローダウンしたときに、野口体操の「力を抜く感覚」が受け入れられ、それがそのまま地球温暖化問題がクローズアップされ「京都議定書」が浮上したころから再び野口体操へ関心が向けられるようになってくるのを感じていた。
そして現在、「サステナブル」つまり「持続可能」という言葉が、人々の暮らしにおいてもキーワードとなって、三度、注目されている観がある。
そうした実感を得たのは、実は、最近のことだ。
「羽鳥さんが思っている以上に、世の中に野口体操は浸透しているし、また、求めている人がいるんですよ」
ジャーナリスティックな仕事をされている30代の男性に指摘された。
確かに『原初生命体感覚』に象徴される野口体操の考え方は、自然を受けいれつつ「サステナブルな身体」の可能性を追求する要素が含まれていると思っている。それは野口三千三先生ご自身が「そのままのからだでは、体操の教師を続けることは難しい」といわれるほどの身体的ダメージをいかにして解決していくのかという問題意識をもたれたことが、「野口体操」の出発点だったことに追うところが大きい。悪いところをもったまま、体操の教師を続ける身体の価値観とその動き方の探求によって野口体操は誕生したのだから。
どんなに社会的環境が変化しようと、教育の価値観が変わろうと、生きものとしての一貫性を保てる身体の可能性を持つことが、野口体操でいうところの「サステナブルな身体」だと今のところ私は解釈している。
あらゆるところで「持続可能・サステナブル」という言葉を目にし、耳にする機会が増えてきた。
今日もある国立大学の修士課程に在籍する学生さんにインタビューを受けた。
修士論文のお手伝いなのだが、彼の論文テーマのなかにも「サステナブル」が、通奏低音として鳴っていた。
2時間ほど、時間をともにして、大学に吹き込む風向きが変化してきたことを感じた。まだまだマイノリティーかもしれないが、社会にも吹く風があることに、気付かせてもらえた。
そこで思い出すのは、野口三千三先生が亡くなる一年前に書かれた文章である。
「からだの実感に根ざす判断は、人間がつくったおしきせの価値観・道徳律ではなく、人間をつくった大自然の原理、すなわち「自然律」を感じとる道に通じます」岩波書店刊 岩波編集部編『教育をどうする』(1997年)。
この点をおさえておかないと、「サステナブルな身体」が、迷妄の打破どころか、とんでもない道に迷い込んでしまう危うさを改めて感じたのは、今日の午後のことだった。
一回目は、『原初生命体としての人間』が世に出た1970年代のことだった。
当時は、戦後一回目の「身体論」が静かなブームとなっていた。
身体を解き放つことで、人間の真実を見つめてみようという、哲学的な視点にリンクして「野口体操」が注目されたと認識している。
次は、バブルがはじけて、社会全体がスローダウンしたときに、野口体操の「力を抜く感覚」が受け入れられ、それがそのまま地球温暖化問題がクローズアップされ「京都議定書」が浮上したころから再び野口体操へ関心が向けられるようになってくるのを感じていた。
そして現在、「サステナブル」つまり「持続可能」という言葉が、人々の暮らしにおいてもキーワードとなって、三度、注目されている観がある。
そうした実感を得たのは、実は、最近のことだ。
「羽鳥さんが思っている以上に、世の中に野口体操は浸透しているし、また、求めている人がいるんですよ」
ジャーナリスティックな仕事をされている30代の男性に指摘された。
確かに『原初生命体感覚』に象徴される野口体操の考え方は、自然を受けいれつつ「サステナブルな身体」の可能性を追求する要素が含まれていると思っている。それは野口三千三先生ご自身が「そのままのからだでは、体操の教師を続けることは難しい」といわれるほどの身体的ダメージをいかにして解決していくのかという問題意識をもたれたことが、「野口体操」の出発点だったことに追うところが大きい。悪いところをもったまま、体操の教師を続ける身体の価値観とその動き方の探求によって野口体操は誕生したのだから。
どんなに社会的環境が変化しようと、教育の価値観が変わろうと、生きものとしての一貫性を保てる身体の可能性を持つことが、野口体操でいうところの「サステナブルな身体」だと今のところ私は解釈している。
あらゆるところで「持続可能・サステナブル」という言葉を目にし、耳にする機会が増えてきた。
今日もある国立大学の修士課程に在籍する学生さんにインタビューを受けた。
修士論文のお手伝いなのだが、彼の論文テーマのなかにも「サステナブル」が、通奏低音として鳴っていた。
2時間ほど、時間をともにして、大学に吹き込む風向きが変化してきたことを感じた。まだまだマイノリティーかもしれないが、社会にも吹く風があることに、気付かせてもらえた。
そこで思い出すのは、野口三千三先生が亡くなる一年前に書かれた文章である。
「からだの実感に根ざす判断は、人間がつくったおしきせの価値観・道徳律ではなく、人間をつくった大自然の原理、すなわち「自然律」を感じとる道に通じます」岩波書店刊 岩波編集部編『教育をどうする』(1997年)。
この点をおさえておかないと、「サステナブルな身体」が、迷妄の打破どころか、とんでもない道に迷い込んでしまう危うさを改めて感じたのは、今日の午後のことだった。
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