羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

換気扇のアップグレードを終えて・・・・

2018年11月04日 10時11分56秒 | Weblog

ある日、家の中のいく先々に、本と書類と衣類が、自由気ままに置かれている情景を目にした。

いつ、こんな状況を許していたのだろう。

母が、施設に入ってから1年と半年が過ぎようとしている。

結局その間に、じわりじわりと物の置き場が拡張したのにすぎなかった、と他人事のように言い放った。

が、その瞬間に、自己嫌悪に陥った。

ふと立ち止まって、本と書類を大きく二つに分けた。

それらの置き場を二箇所に限定した。

自己嫌悪感は半減してくれた。

家を建て替えて13年と半年がすぎた。

当初ほど掃除をしなっくなっている。

歳だから、と自己弁護した。

そこでまた立ち止まった。

いちばん面倒でやっていない掃除はどこか?

いの一番に浮かんだのは、ガズレンジの上の換気扇である。

お恥ずかしいことに、13年の間、プロの人に頼んだたった一回しか、丁寧な掃除はできなかった。

ただ、一年に一回、表面の汚れをとるだけだった。

これからますますどこよりも換気扇の掃除はできなくなってしまう可能性は大だ。

そこで年寄りの暮らしのQOLを考えて、思い切って換気扇を取り替えた。

なんと半自動運転で、お湯を使って行う掃除機能がついている。

それだけではない。

回天速度の3段階の設定や、運転を切ってからもしばらく通常に戻す機能までついている。

近くの電気屋さんに工事を頼んだのだが、最終的に行うのは、コンピューターの初期設定であった。

そのコンピューターは、お湯を使った掃除時期をちゃんと知らせてくれるという。

便利になったものよ!

「見たところ、そろそろ、掃除しなくちゃ」

ではなく

「今すぐ、掃除をせよ!」

というわけだ。

言ってみれば、換気扇に組み込まれたコンピューターのアルゴリズムに支配される生活スタイルになったのか?

つまり、それは、換気扇のアップグレードを行った結果の便利さと快適さを得た、ということなのか?!

これまで13年間に一回しかしなかった換気扇の掃除のなのに、これからは掃除の段取り・準備だけだが自分で頻繁にさせられる結果を招くことになるのだろう。

でも、まぁ、受け皿に40度くらいにお湯をはって、終わったら汚れた湯を捨てればよいだけのことらしい。

実は、この工事を行なっている間に、私は『ホモ・デウス』上下を読み終わったところだった。

面白いと言っても「ある種の納得感」と「いささかの不愉快さ」を持ちながらの“面白い読書”であったが・・・・・

家電のアップグレードに、微妙な “トホホホ状態” に陥って真っ青になった。

「私の感覚は、意識は、意味の世界は、どこに漂流するのか?」

そもそも私って、何だ?

「換気扇のアップグレード」から、日常の暮らしの中で、「人間とは何か」「自然とは何か」「自分とは何か」「幸せとは何か」を考えるチャンスをもらったとでも言えるのか?

そういえば自動運転の自動車ブレーキの安全性の問題として、今のところ誤解を招かないために「自動運転」という表現をやめて「自動運転ブレーキ補助システム」みたいな表現を求めるニュースが、今朝、流れていた。

翻って、1990年代半ば、晩年の野口三千三は、堂々と『文明さん、お先にどうぞ!』と言い放っていた。

その人の処女作『原初生命体としての人間』には、自然と人間と動きのアプローチに、1960年代から1970年代にかけての「情報(工学)」と「生命(工学)」の知見が生かされ、考察されているではないか。

そのことは、何を意味し、そのことをどう考えていくのがよいのか・・・・

 

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