不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

『苦海浄土』と「五木の子守唄」

2016年12月12日 12時31分50秒 | Weblog
 まだまだ夏の暑さが残っている頃、常に汗ばむような肌がすこしだけ乾きはじめた頃、雲の形が秋っぽくなりはじめた頃だったかしら。
 こんなにも記憶が曖昧になってしまうのは、年のせいだろうか。
 でも、からだの記憶として、しっかり残っている思いもある。

 昨日、12月11日、日曜日の午後のこと。
 1140頁(『神々の村 ー『苦海浄土』第二部 二〇〇六年、「解説」より)に、とうとう到達した。
 藤原書店版『苦海浄土』全三巻。“辞書か” と見まがう厚みの最後のページである。

 最近、書物を手に抱いて行う儀式は、カバーを取りはずして、むき出しになった本の重さを量ること。
 真っ白な表紙の手触りは、多少のザラツキがあるものの柔らかい。
 はじめから言ってしまおう。
 その柔らかさは、読み進むうちに、しだいしだいに、もっともっと柔らかさの度合いを増していったのだった、と。

 長いこと、避けてきた本である。
 手元に届いて、たじろいで……おそるおそるページをめくる指先に “躊躇い” という文字がしっかりと刻まれていた。
 ところが目次を開いて、驚いた。
 目に飛び込む文字がことのほかやさしい。

 次に地図を見て、水俣の場所を確認する。
……不知火海 天草諸島 特に大きな文字で記されている風光明媚であろう海と島々を想い浮かべる……

 地図の左のページには『第一章 椿の海』
 その下に、ごく小さな文字で《繋がぬ沖の捨小舟 生死の苦海果てもなし》
 目が点になる。

 これはゆっくり読むことにしよう、と決めながらも、はじめのうちはドンドンと読み進めてしまった。
 かつてテレビのニュースで目にしたことがある水俣病の悲惨な姿を、記憶の底から引っ張り上げながら。
 しかし、著者の石牟礼道子さんの記述は、その映像よりも凄まじく、情け容赦なく、ことこまかに病状・病体を描き出す。
 しかし、情け容赦ない言説の裏側に、そこはかとなくただよう馥郁とした言霊が、一言一言、臓腑にしみるのである。
 海を描き、陸を描き、山を描き、人々の暮らしを描き、闘いを描き、朝を描き、昼を描き、夜を描く。
 都会のビル街に吹く師走の風を描き、荻窪の住宅地の空気とそこに暮らす人々とのやり取りを描く。
 ノンフィクションであるのか、小説であるのか、詩であるのか、そんなことはどちらでもよい。
 時間も空間も越境して、行きつ戻りつ描き出される「水俣」に、読み手の魂は、取り込まれてしまうのである。

 ある時から読むスピードがぐんと落ちた。
 浄土はこの本のなかにも存在するのだ気づき、紡ぎ出される言葉の美しさに救われながら、ゆっくりと向き合うことになった。

 人の世は永くして はからぬ春とおもへども はかなき夢となりにけり
 あつき涙のまごころを みたまの前に捧げつつ おもかげしのぶもかなしけれ 
 しかはあれどもみ仏に 救われてゆく身にあらば 思ひわずらふこともなく
 とこしえかけて安からむ 
 南無大師遍昭尊

 白装束を身にまとって、御詠歌を唱え、大阪厚生年金会館で開催されるチッソの株主総会会場へと入場する巡礼団。
 午前十一時前に中央座席に陣取った時、異様な緊張感が立ちのぼってくる、という記述。
 それから繰り広げられる一代絵巻。現代と前近代が衝突する。東大閥と無学の徒が衝突する。
 なんとなく植え付けられていた私のなかの価値が逆転する

「文明ってなんだ」
「文化ってなんだ」
「便利さってなんだ」
「現代の暮らしの危うさと、知らぬうちに浸ってしまっている罪深さの上に成り立つ都会暮らしってなんだ」

 水俣の人々のからだのそこから、血を吐くように、肉を殺ぐようにして発せられる方言の凄さが、読者の肉を裂き、血を逆流させる。
 何を上手く言おうが言うまいが、株主総会の舞台にあがっている会社側の人間の言葉の空疎さが際立つ。

 株主総会が終わった次の日、巡礼団は高野山に登った、とある。
『「昨日は、狂うたなあ、みんな」誰の声だったか、大きくはない、微笑を含んだ声が冷気の中にした。「ーーほんに……。思う存分、狂うた……」澄んだ細い笑い声があがり、すぐに消えた。いつものおしゃべりは出ない。ゆるやかな山坂道だった。彼女たちの伏し目がちなの表情が、弥勒菩薩さながらにふかぶかとしていたのが、今なお忘れがたい。』

 私は、腰掛けていた椅子からズレ落ちるように、畳の上にひたひたと座り込んでしまった。
 溢れる涙を止めることができなかった。
 にじんだ目に、障子から差し込む日差しが揺れながら秋になったことを知らせてくれた。

 その日から、季節はあっという間に冬に近づいた。
 読書は遅々として進まなくなった。1頁読むのがやっとの日が続いた。
 そんなある日、「舟(ふなかんじん」という文字に、ふと心が止まった。
 それからもう少し時間が過ぎて、今度は「花」という文字に、心が止まった。
 その瞬間に、からだの奥底からメロディーが立ちのぼって、歌が聞こえてくる。
《おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかしゃ》
「五木の子守唄だ」
 ここで歌詞の記憶が途切れた。
 いったいいつ覚えた歌だろう。
 幼稚園に通い始める前ではなかったか。
 誰が教えてくれたのか。
 遡っても遡っても、影一つあらわれない。

 あの涙は何だったのか、と罪深さのページを思い浮かべながらも、こんな時はついついGoogleを頼ってしまう。
「かんじん」とは「」だったのだ。
 もっと辿ると、源平の合戦で敗れた平家一族が、熊本県五木村に定着し、源氏は梶原・土肥の武者を彼らの行動を監視させるために送り込んだのが始まりという。かんじんとは「勧進」で、小作人のことを指すらしい。つまり支配者層の地主に対して農奴、非差別民のこと、とあった。
《おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかしゃ よかしゃおび(帯) よかしゃきもん(着物)》
 あん人たちは地主たちで、よき帯をしめよき着物を着ている、という歌詞と知った。

 さらに昭和28年(1950)から10年間、NHKが古関裕而編曲の「五木の子守唄」を放送し、日本の代表的な民謡として定着したとあった。ハモンドオルガンの演奏だったそうだ。これを聞いたような気がするのは、錯覚か。錯覚だとしても聞いたにちがいない。

 なるほど、幼児期に無意識に覚える歌というものがあるのだ!
 その一つが「五木の子守唄」だった。
 意味もわからず「かんじん」という音としての言葉が、メロディーとともに、からだの奥底にきざまれていた。

 本に戻る。
『「あの子はなあ、餓鬼のごたる姿になっても、死ぬ前の日に桜の花の見えてなあ。手足を持たん虫の死ぬ時のように、這うて出て、この世の名残りに花を見て……うつくしかな、ち。かなわぬ口しとって、ああ、かかしゃん、シャクラの花ち、いうて」花(はなかんじん)になって。わが身の水俣病には飽き飽きしたが、この世の花のあわれで……。このような雨雪の晩には、わが煩悩の始末のできません。魂の無かもんどもよといわれよる子たちも、年月というものだけを喰いました』

 逆転が起こるのだ。
 非差別民として生かされた花(はなかんじん)が、告発するのである。
 どちらが(かんじん)なのか? 
 美しい海、豊かな海、生命の海、命の母体としての海。その海と溶け合って、自然と折り合いをつけて、ひっそりと楚々として、真の信仰心を日常に育てた日々のどこがいけなかったのか。

「平家にあらずんば、人にあらず」
 おごる平家も久しからず、うたわれた落人の末路を重ねると、この『苦海浄土』で使われている“かんじん”という言葉の逆説を思わずにはいられない。

 
「舟」も「花」もおごることはいっさいせずに鬼籍に入っていかれた。
 しかし、になることで、現代文明を告発し、国策としてのチッソを訴えることをした。
 その思いを背負った巡礼団の人々の叫び雄叫びはの声なのだ。

 ふと憶う。
「五木の子守唄」を敗戦後の日本に流行らせようと突き動かした本心は、一体なんだったのだろう。
 太平洋戦争に負けた日本は、連合国に対しての平家か。勧進()か。米国の農奴か。
 のっぴきならない、言葉を、私はここに書き付けてしまった。しまったッ!

 しかし、肉体に受けた傷の疼きとともに、「五木の子守唄」を日本民謡として復活させたところに、昭和20年代、新しい憲法を受け入れた大人の屈折した良心を見るというのは、穿ち過ぎの見方だろうか。

 日本が辿ってきた近代、現代。
 自らが望んだわけでもなしに、そこに生まれてしまった「舟」「花」と呼ばれた“存在”そのもが、人間の尊厳を復権させるために、告発を許された選ばれた人々にちがいない。
 これほどの書物が、生まれたその理由もそこにある。

 価値を逆転させて世界を見た時、まったく違った風景に出会う。
 なんとやさしく、なんとうつくしく、なんと厳しい一冊の本だろう。
 
 できることなら、泉下の客となってまだ日も浅い平幹二朗をこの世に甦られて、この一冊を朗読んでもらいたい、とあらぬことを憶う。
 だって、原発事故も、沖縄も、オリンピック前のみっともなさも、あやふやになりそうな豊洲問題も、根っこはいっしょのような気がしてならないから。
 とんでもない一冊である。
 頭がクラクラしている。
 そんな状態でも、文責は我にあり、言いたいところだが……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする