GWはカレンダー通りに、授業やレッスンがはいっていた。
まず、5月2日土曜日のレッスンでは、再び「ふれあいヨガ逆立ち」を試みた。
終始、目を閉じて行っていたので、どなたが触れてくれたのかはわからない。数名?3、4人の手のぬくもりが伝わってきた。逆立ちになったはじめは、からだの中がまだまだ落ち着いていない。頭の中心の真上に骨盤をのせ、足がすっきり真上に向けて伸びていく感じを探っている。
そのうちに、背中側とお腹側に触れている手のぬくもりがじんわりと伝わってくる頃から、からだのなかが落ち着いて、ゆったりとした自然呼吸に促されていったようだった。
「静かになりましたね」
Oさんの声が聞こえてきたが、声に邪魔されることもなく、静かに立ち続けることができた。
「やっぱり、おりたくない」のである。
「気持ちがよいのである」
「逆さま感は、全くといっていいほどに、ない!」
今回は男女入り乱れて、「ふれあいヨガ逆立ち」を試して終了。
3・4・5の連休は、『野口体操入門』の校正に、集中し先ほど7日午前必着で宅急便で発送し終わった。
何カ所か気にかかる表現が見つかったが、そこは編集の方と詰めることにして、締め切り日に間に合わせた。
で、校正中にきづいたことがある。自分で書いておきながら、はじめて読んだ様な発見だったのだ。
それは、女性が水瓶に水を入れて頭の上にのせて運ぶときの話だった。
《水は傾いたとき重心軸に沿うように修正される。これが石である場合、固体は軸をずらしたまま重さをかけて来る。軸圧がズレたまま首に重さがかかる》云々。
この記述を読んで、ヨガの逆立ちのからだの内側の状態に思いを巡られてみた。
からだのなかの余分な力を抜いて、液体的な状態に近くしてやらないと“ふれあいヨガ逆立ち”が気持ちよく感じられないひとつの理由だ、ということらしい。
頭の中心に(一点にちかく)のって逆立ちしていても、実際には正確に”ピタッと中心”というわけには毎回いかないのが事実なのだ。
そこは人のからだだから、極々、僅かなズレがあっても、からだの内側で余分な力が抜けていれば、触れられた手のぬくもりによって、中心を探し当てることができ、快感への道に導入してもらえる。
逆に、余分な力が入っている自覚が自分にはなくても、力を入れて立っている自覚がない場合には、おそらく心地よさの質が違うのではないかと思える。
野口体操では幇助を「包助」というのだが、逆立ち練習で一人の人に包助してもらって、かるく手を添えて立ち続けている時と、そこに数名の人が背中側やお腹側(肋骨あたり)、鳩尾あたりに軽く手を添えてくれる時では、まったく気持ちよさが違うのだ。この場合の触れ方は、「支えて上げるために手を触れる」のではない。
硬いことばで言えば、立っている軸を探る手伝いかもしれない。
《水は傾いたとき重心軸に沿うように修正する》その実感を促す力が、手のぬくもりにはあるのではないか?と想うわけだ。
実感したことのない方には、なんのことやらわからず、絵空事のように思えるかもしれない。
体操には実感が大切、味わってみないとわからない世界。そこに難しさがある。
「本当の自立」とは、いったいどういうことなのだろうか。
実に、面白いテーマをもらった。
いよいよGWもおわり。
このテーマをひっさげて、今年の上半期後半を、歩いて行こう。
まず、5月2日土曜日のレッスンでは、再び「ふれあいヨガ逆立ち」を試みた。
終始、目を閉じて行っていたので、どなたが触れてくれたのかはわからない。数名?3、4人の手のぬくもりが伝わってきた。逆立ちになったはじめは、からだの中がまだまだ落ち着いていない。頭の中心の真上に骨盤をのせ、足がすっきり真上に向けて伸びていく感じを探っている。
そのうちに、背中側とお腹側に触れている手のぬくもりがじんわりと伝わってくる頃から、からだのなかが落ち着いて、ゆったりとした自然呼吸に促されていったようだった。
「静かになりましたね」
Oさんの声が聞こえてきたが、声に邪魔されることもなく、静かに立ち続けることができた。
「やっぱり、おりたくない」のである。
「気持ちがよいのである」
「逆さま感は、全くといっていいほどに、ない!」
今回は男女入り乱れて、「ふれあいヨガ逆立ち」を試して終了。
3・4・5の連休は、『野口体操入門』の校正に、集中し先ほど7日午前必着で宅急便で発送し終わった。
何カ所か気にかかる表現が見つかったが、そこは編集の方と詰めることにして、締め切り日に間に合わせた。
で、校正中にきづいたことがある。自分で書いておきながら、はじめて読んだ様な発見だったのだ。
それは、女性が水瓶に水を入れて頭の上にのせて運ぶときの話だった。
《水は傾いたとき重心軸に沿うように修正される。これが石である場合、固体は軸をずらしたまま重さをかけて来る。軸圧がズレたまま首に重さがかかる》云々。
この記述を読んで、ヨガの逆立ちのからだの内側の状態に思いを巡られてみた。
からだのなかの余分な力を抜いて、液体的な状態に近くしてやらないと“ふれあいヨガ逆立ち”が気持ちよく感じられないひとつの理由だ、ということらしい。
頭の中心に(一点にちかく)のって逆立ちしていても、実際には正確に”ピタッと中心”というわけには毎回いかないのが事実なのだ。
そこは人のからだだから、極々、僅かなズレがあっても、からだの内側で余分な力が抜けていれば、触れられた手のぬくもりによって、中心を探し当てることができ、快感への道に導入してもらえる。
逆に、余分な力が入っている自覚が自分にはなくても、力を入れて立っている自覚がない場合には、おそらく心地よさの質が違うのではないかと思える。
野口体操では幇助を「包助」というのだが、逆立ち練習で一人の人に包助してもらって、かるく手を添えて立ち続けている時と、そこに数名の人が背中側やお腹側(肋骨あたり)、鳩尾あたりに軽く手を添えてくれる時では、まったく気持ちよさが違うのだ。この場合の触れ方は、「支えて上げるために手を触れる」のではない。
硬いことばで言えば、立っている軸を探る手伝いかもしれない。
《水は傾いたとき重心軸に沿うように修正する》その実感を促す力が、手のぬくもりにはあるのではないか?と想うわけだ。
実感したことのない方には、なんのことやらわからず、絵空事のように思えるかもしれない。
体操には実感が大切、味わってみないとわからない世界。そこに難しさがある。
「本当の自立」とは、いったいどういうことなのだろうか。
実に、面白いテーマをもらった。
いよいよGWもおわり。
このテーマをひっさげて、今年の上半期後半を、歩いて行こう。