羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

隠れた能舞台にて

2015年04月18日 11時28分39秒 | Weblog
 おそらく能の世界の方には、よく知られたところなのだと思う。
 昨日、ソニービルの先、銀座六丁目にある「銀座能楽堂」で、幸田弘子の語りを聴いてきた。
 まず、驚いたのは、能楽堂の響きの良さである。
 幸田さんの朗読会に通いはじめて、かれこれ40年近い年月が流れた。
 上野・本牧亭からはじまって、渋谷の東邦生命ホール、三宅坂の国立劇場、紀尾井ホール、最近では座・高円寺等々、さまざまな舞台で彼女の朗読を聴き続けてきた。
 どのホールもよさがあって、その都度工夫を凝らした舞台に、朗々と声が響き、作品の世界に酔わせていただいてきた。

 ところが、これまでの舞台にはない、能舞台特有の異空間、超時間が流れるところで語りを聴く贅沢を知ってしまった。
 これは、いままで体験したことのない能楽堂の楽しみだ。

 小鼓は今井尋也さん。マルチパフォーマンスアーティストの方だった。
 小鼓は空間を剥がし、時間を刹那で切る。かと思うと無形・無音の「間」が「にごりえ」の悲劇は、ほんとうは昇華劇であることを暗示する。
 聴く者にとっては、幸田一葉の言葉と小鼓の音と声は劇的な意味を失い、ただ彼岸へと誘われ、カタルシスによって許しの境地へと導かれるのだ。
 そうだ、一葉のこの作品は、ギリシャ悲劇にも通じる。ただしギリシャ悲劇と異なる点は、そこに神々はいないこと。いるのは人、ただ人のみ。
 死をもって、生と性を制する。
 その一部始終をみていた大きく赤い月が全てを呑み込んで、何事もなかったように日常を町にもたらすのだ。

「“にごりえ”はこんなに恐ろしい物語だったのか」
 終わったとき、私は、つぶやいた。
 一葉、奇蹟の十四ヶ月に紡ぎだされた作品は、描かれる個々の人、一人ひとりのやるせなく救いがたい“強・情”の深さを筆にのせたものだったのだ。
 あの若さで、目にしたもの、耳にしたことは、ただ事ではない日常の恐ろしさだった、と気付く。
 二十四歳で亡くなった一葉が生きた時間は、何倍も、何十倍も濃密な長さを秘めた時間で、その時間と空間のなかで、生きる地獄を見たに違いない。一葉の生そのものが底なしの沼だった、と知った。
 
 この能舞台で演じられてきた幽玄能の積み重ねが、一葉作品に新しい地平を開いてくれたように思えた。
 心地よい緊張感のなかで、声の言葉に浸り、鼓の音に時空を超える贅沢をもらった。
 
 芝居がはねて、ビルをでる。
 一陣の風が銀座の街を吹き抜けていく。
 するとそこは下町・新開の銘酒屋「菊の井」のお力さんが佇む悪所と化した。
 危ない、危ない。
 これが芝居の怖さなのだ、と思わず肩を縮めて息を殺す。
 通りの向こうに視線を投げてから、ふーっと、息を吐く。
 そして静かに余韻を呑みほす春の昼下がり。
コメント
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