再び暑さが戻ってきた。
昼前に買い物をすませ、午後からは家に閉じこもって、19日の講演の準備をしようとおもっていた。
机の上に置かれた読み止しの本に気づいて、ページをめくった。
『わが引揚港からニライカナイへ』
私、子どもの頃、朝鮮から引揚げてきた一家に、ずいぶんとかわいがれていた。
私、満州で奥さんと子どもを殺されたあげくシベリアに抑留され、昭和20年代末に帰国した宝石商の人にも大事にされた。
私、同じくシベリアから昭和30年代になって帰国し、岩手の山村で国語の教師をし、その後30年代おわりに京都清水寺の僧侶となった方には、訪ねる度にお世話になった。
皆、父の知り合いの方々だった。
皆、すでに鬼籍に入られて久しい。
子どもの頃の記憶には、終わったにもかかかわらず戦争を生きている人々が存在している。
終戦となっても、人々の暮らしはすぐには終戦にはならないのだ。何年も何十年も引きずっているのが現実なのだ、ということを憶う。
人を失い、財産や家財を失い、職を失い、残ったものは失意と苦い体験の記憶。
幼少期を過ごした新宿の町には、なまなましい終戦直後があらゆる所に残骸をとどめたままだった。
大人達は、どの人も言葉にすることは少なくても、それぞれの戦争体験をからだの隅々に宿し、子どもながらに戦争は残酷なんだ、と理解していた。
そして、終わってから、新たな戦争が始まる、ということも。
すくなくとも私が身を置いていた、現在はヨド橋カメラ本店のあたりには、猛烈な勢いの復興の裏側に、忘れられない戦時の経験がべったりとついていた。
さて、五木作品を追うようになって10数年はたっているだろうか。
昭和30年代から40年代の作品は、時代の風を具体に近い感覚でつかむための読書だった。
昭和50年代、60年代になってからの作品は、違った意味で感性にフィットする何かを潜ませていると感じる。
そして今この本を読みつつ、一気に昭和20年代のあの頃を思い出させてもらった。
博多・福岡の旅から、沖縄を訪ねる第二部「神と人と自然が共生する空間」。
竹富島で仏教では西方浄土であり、沖縄では「ニライ・カナイ」理想郷の信仰について、体験する著者の言葉に、生と死の境が曖昧になる瞬間を感じる。
《朝は朝日を拝み、夕には夕日を拝むという》
八重山の島々にある神事。とりわけ秋の「種子取祭」にはニライ・カナイの神事、伝統的な祭りに仏事が入り交わっていることを記している。
《不明にも、私は浄土真宗がそういう形でここに根づいていることを知らなかった》とおっしゃる。
祭りには音楽と踊りが欠かせない。五木さんが興味をもったパーカッションに竹製の「ササラ」があるという記述に出会って、オォーと思わず声をあげた。
この楽器の由来は古い。平安期に描かれた「阿弥陀聖衆来迎図」に描かれているのだから。
西方浄土信仰とこの楽器は切っても切れない関係にある。五木さんがこの楽器(神器)に興味を持たれていたというのも納得がいく。生と死を繋ぐリズムを刻む楽器(神器)なのだから。
さらに読み進むと、地球交響曲第四番に出演された名嘉陸稔さんとの出会いに触れている。
龍村仁さんのプログラムのチラシが、一部引用されていた。
……何となく感性の道筋が一本にしぼられてくるから胸が高鳴るのである。
そして陸稔さんの制作姿をこんな風に描いている。
《身体の動きがダイナミックで速い。まるで現代舞踏を見ているような印象さえ抱く。土方巽氏の踊り、あるいは「大駱駝艦」のパフォーマンスを見ているような切迫感が感じられるのだ》
なるほど、納得である。
話は焼き物の「窯変」にたどり着く。予期せぬ色や文様になったり、変形していることをあらわしている、と。
かつて野口三千三先生につれられて「曜(窯)変天目茶碗」を見たことがある。小さな茶碗に漆黒の宇宙に数々の星雲の動きを見た記憶が甦る。
そんな世界に遊んでいると、「沖縄アクターズスクール」の話がリアルに描かれている。
旅も終わりに近づいたところで「悠久のリズムと現実の緊迫感のなかで」と小見出しにであう。
2006年に書かれたものだが、2014年の今年、内外に緊迫感が増し、この一冊が訴えるメッセージは、更に重みを増しているのだ。
作家は、先の先が予め見える宿命を負っている存在なのだなぁ~、と思う。
青史ではなく、一人ひとりの中に眠る歴史をそのままにしてはいけない。戦争反対を声高に言わなくても“体温のある歴史”を大事にすれば、自ずと答えは出てくる筈。しかし、私たちはその“体温のある歴史”をいつの間にか失ってしまう。とても怖いことだ。
この言葉にこめた意味が、ズシーンと腹に落ちてくる。
「青春の門』で書かれていた方言、話言葉が美しかったことを思い出す。
重層的な文化が育んだ生きた言葉だった。
昼前に買い物をすませ、午後からは家に閉じこもって、19日の講演の準備をしようとおもっていた。
机の上に置かれた読み止しの本に気づいて、ページをめくった。
『わが引揚港からニライカナイへ』
私、子どもの頃、朝鮮から引揚げてきた一家に、ずいぶんとかわいがれていた。
私、満州で奥さんと子どもを殺されたあげくシベリアに抑留され、昭和20年代末に帰国した宝石商の人にも大事にされた。
私、同じくシベリアから昭和30年代になって帰国し、岩手の山村で国語の教師をし、その後30年代おわりに京都清水寺の僧侶となった方には、訪ねる度にお世話になった。
皆、父の知り合いの方々だった。
皆、すでに鬼籍に入られて久しい。
子どもの頃の記憶には、終わったにもかかかわらず戦争を生きている人々が存在している。
終戦となっても、人々の暮らしはすぐには終戦にはならないのだ。何年も何十年も引きずっているのが現実なのだ、ということを憶う。
人を失い、財産や家財を失い、職を失い、残ったものは失意と苦い体験の記憶。
幼少期を過ごした新宿の町には、なまなましい終戦直後があらゆる所に残骸をとどめたままだった。
大人達は、どの人も言葉にすることは少なくても、それぞれの戦争体験をからだの隅々に宿し、子どもながらに戦争は残酷なんだ、と理解していた。
そして、終わってから、新たな戦争が始まる、ということも。
すくなくとも私が身を置いていた、現在はヨド橋カメラ本店のあたりには、猛烈な勢いの復興の裏側に、忘れられない戦時の経験がべったりとついていた。
さて、五木作品を追うようになって10数年はたっているだろうか。
昭和30年代から40年代の作品は、時代の風を具体に近い感覚でつかむための読書だった。
昭和50年代、60年代になってからの作品は、違った意味で感性にフィットする何かを潜ませていると感じる。
そして今この本を読みつつ、一気に昭和20年代のあの頃を思い出させてもらった。
博多・福岡の旅から、沖縄を訪ねる第二部「神と人と自然が共生する空間」。
竹富島で仏教では西方浄土であり、沖縄では「ニライ・カナイ」理想郷の信仰について、体験する著者の言葉に、生と死の境が曖昧になる瞬間を感じる。
《朝は朝日を拝み、夕には夕日を拝むという》
八重山の島々にある神事。とりわけ秋の「種子取祭」にはニライ・カナイの神事、伝統的な祭りに仏事が入り交わっていることを記している。
《不明にも、私は浄土真宗がそういう形でここに根づいていることを知らなかった》とおっしゃる。
祭りには音楽と踊りが欠かせない。五木さんが興味をもったパーカッションに竹製の「ササラ」があるという記述に出会って、オォーと思わず声をあげた。
この楽器の由来は古い。平安期に描かれた「阿弥陀聖衆来迎図」に描かれているのだから。
西方浄土信仰とこの楽器は切っても切れない関係にある。五木さんがこの楽器(神器)に興味を持たれていたというのも納得がいく。生と死を繋ぐリズムを刻む楽器(神器)なのだから。
さらに読み進むと、地球交響曲第四番に出演された名嘉陸稔さんとの出会いに触れている。
龍村仁さんのプログラムのチラシが、一部引用されていた。
……何となく感性の道筋が一本にしぼられてくるから胸が高鳴るのである。
そして陸稔さんの制作姿をこんな風に描いている。
《身体の動きがダイナミックで速い。まるで現代舞踏を見ているような印象さえ抱く。土方巽氏の踊り、あるいは「大駱駝艦」のパフォーマンスを見ているような切迫感が感じられるのだ》
なるほど、納得である。
話は焼き物の「窯変」にたどり着く。予期せぬ色や文様になったり、変形していることをあらわしている、と。
かつて野口三千三先生につれられて「曜(窯)変天目茶碗」を見たことがある。小さな茶碗に漆黒の宇宙に数々の星雲の動きを見た記憶が甦る。
そんな世界に遊んでいると、「沖縄アクターズスクール」の話がリアルに描かれている。
旅も終わりに近づいたところで「悠久のリズムと現実の緊迫感のなかで」と小見出しにであう。
2006年に書かれたものだが、2014年の今年、内外に緊迫感が増し、この一冊が訴えるメッセージは、更に重みを増しているのだ。
作家は、先の先が予め見える宿命を負っている存在なのだなぁ~、と思う。
青史ではなく、一人ひとりの中に眠る歴史をそのままにしてはいけない。戦争反対を声高に言わなくても“体温のある歴史”を大事にすれば、自ずと答えは出てくる筈。しかし、私たちはその“体温のある歴史”をいつの間にか失ってしまう。とても怖いことだ。
この言葉にこめた意味が、ズシーンと腹に落ちてくる。
「青春の門』で書かれていた方言、話言葉が美しかったことを思い出す。
重層的な文化が育んだ生きた言葉だった。