つい先日のこと、Facebookの投稿を通して、朝日カルチャーセンター・新宿校は「カラダ文化の聖地」とよばれていることを知った。
確かに、古今東西文化が生みだした身体観による身体技法を伝授する講座が豊富に提供されて久しい。
そのなかで野口体操は、野口三千三先生が20年間常設講座を担当された。その間、私は助手としてお供し、没後はその教室を引き継いで14年目に入っている。通算、33年ということになる。
実に、受講してくださる方があって可能な継続。本当にお蔭さまです!
さて大学の体育に目を転じてみると、そこでも多様な身体文化が展開されている。私が授業を持っている大学では、野口体操はもちろんのこと、太極拳、ヨガ、インド武術、ピラーティス、クライミング、クラシックバレー、ダンス、よさこい等々あげたらきりがない。
当然、以前からある剣道や柔道はもとより、日本馬術、日本泳法といった授業も組み込まれている。
今を生きる若者たちは学生一人一人の自覚はともかくとして、教える側からみると実に恵まれている。言ってみれば、あらゆるスポーツやフィットネス以外にも、多様な文化的背景を持つ身体との向かい合い方を学ぶ機会が増えているのだから。
つまり現代は、価値観の多様化とグローバル化によって、世界の文化をからだの動きを通して学ぶことが、広い意味での“身体の教養”になりつつあることの証明だ。
培われた文化、その文化を作り上げた民族の魂、価値観、社会観、宗教観を理解するのに、言葉の理解と同時に身体を通して実感として捉えられる非言語コミュニケーションの大事さを、尊重してゆかなければ立ち行かないことに気づいた結果ではないだろうか。
西欧列強の言語を学ぶことから始まって、政治組織、国家のありよう、軍事組織、等々、大きな枠組みでの文化や文明を輸入し、「和魂洋才」、欧化政策に邁進した近代から、全地球規模の共存を考えなければ環境・資源・食料、そして経済が成り立たない新しい時代を迎えていることのひとつの現れである。
絶対的価値観から相対的な価値観へ。そのなかでものごとに取り組むことが、これからの時代を作り上げる若者は自然なこととして受け入られる力が、そのまま「生きる力」になるからだ。
ただし、まず自分が依って立つ処をしっかり見定めてもらいたい。
野口体操の立場から言えば、そこは身体ということになる。もっと狭めれば、「自然の分身としての自分の身体」なのである。
おそらく敗戦の焼け野が原に立って、傷つきながらも、マイナスの身体から出発し、新しい体操を作り出すことが、生き残った日本人のひとりとして野口先生に課せられた戦後の使命だった違いない。
思えば、これまでにない自然の原理に即した身体の動き、体操(彩なる釣り合いを求める身体技法)の創発。そこから導きだされる人間の見方、価値観、次なる時代への橋渡し、といった諸々が、最後の二十年間で集大成されていく場の一つとしてあるのが今私が継承している教室なのだ、とうようやく思えるようになった。
野口体操は、戦後日本の社会文化から産まれた“身体からの発想”をベースにした唯一独自の体操であり身体哲学である、といってもよい。しかし、それは日本全国くまなく普及しなければならい、というものではない。文化はもともと手作りが基本だ。一人の手からもう一人の手にしっかり手渡していくこと、それが命なのだ。そこには当然のことに限界というものがある。限りあるなかで、これからどのように伝えていくのか、考える夏休みにしたい、と思っている。
そして“カラダ文化の聖地”と言わしめるその源を築いた二階のぶ子さんが、強引に開講してくれたことを思い返して、来し方を振り返る8月である。
同時に、敗戦後の野口先生にとって一年の始まりは正月ではなく8月15日である、という言葉をこの手にこの身体に受け取った重さを今更ながら深く感じ入っている昨今でもある。
確かに、古今東西文化が生みだした身体観による身体技法を伝授する講座が豊富に提供されて久しい。
そのなかで野口体操は、野口三千三先生が20年間常設講座を担当された。その間、私は助手としてお供し、没後はその教室を引き継いで14年目に入っている。通算、33年ということになる。
実に、受講してくださる方があって可能な継続。本当にお蔭さまです!
さて大学の体育に目を転じてみると、そこでも多様な身体文化が展開されている。私が授業を持っている大学では、野口体操はもちろんのこと、太極拳、ヨガ、インド武術、ピラーティス、クライミング、クラシックバレー、ダンス、よさこい等々あげたらきりがない。
当然、以前からある剣道や柔道はもとより、日本馬術、日本泳法といった授業も組み込まれている。
今を生きる若者たちは学生一人一人の自覚はともかくとして、教える側からみると実に恵まれている。言ってみれば、あらゆるスポーツやフィットネス以外にも、多様な文化的背景を持つ身体との向かい合い方を学ぶ機会が増えているのだから。
つまり現代は、価値観の多様化とグローバル化によって、世界の文化をからだの動きを通して学ぶことが、広い意味での“身体の教養”になりつつあることの証明だ。
培われた文化、その文化を作り上げた民族の魂、価値観、社会観、宗教観を理解するのに、言葉の理解と同時に身体を通して実感として捉えられる非言語コミュニケーションの大事さを、尊重してゆかなければ立ち行かないことに気づいた結果ではないだろうか。
西欧列強の言語を学ぶことから始まって、政治組織、国家のありよう、軍事組織、等々、大きな枠組みでの文化や文明を輸入し、「和魂洋才」、欧化政策に邁進した近代から、全地球規模の共存を考えなければ環境・資源・食料、そして経済が成り立たない新しい時代を迎えていることのひとつの現れである。
絶対的価値観から相対的な価値観へ。そのなかでものごとに取り組むことが、これからの時代を作り上げる若者は自然なこととして受け入られる力が、そのまま「生きる力」になるからだ。
ただし、まず自分が依って立つ処をしっかり見定めてもらいたい。
野口体操の立場から言えば、そこは身体ということになる。もっと狭めれば、「自然の分身としての自分の身体」なのである。
おそらく敗戦の焼け野が原に立って、傷つきながらも、マイナスの身体から出発し、新しい体操を作り出すことが、生き残った日本人のひとりとして野口先生に課せられた戦後の使命だった違いない。
思えば、これまでにない自然の原理に即した身体の動き、体操(彩なる釣り合いを求める身体技法)の創発。そこから導きだされる人間の見方、価値観、次なる時代への橋渡し、といった諸々が、最後の二十年間で集大成されていく場の一つとしてあるのが今私が継承している教室なのだ、とうようやく思えるようになった。
野口体操は、戦後日本の社会文化から産まれた“身体からの発想”をベースにした唯一独自の体操であり身体哲学である、といってもよい。しかし、それは日本全国くまなく普及しなければならい、というものではない。文化はもともと手作りが基本だ。一人の手からもう一人の手にしっかり手渡していくこと、それが命なのだ。そこには当然のことに限界というものがある。限りあるなかで、これからどのように伝えていくのか、考える夏休みにしたい、と思っている。
そして“カラダ文化の聖地”と言わしめるその源を築いた二階のぶ子さんが、強引に開講してくれたことを思い返して、来し方を振り返る8月である。
同時に、敗戦後の野口先生にとって一年の始まりは正月ではなく8月15日である、という言葉をこの手にこの身体に受け取った重さを今更ながら深く感じ入っている昨今でもある。