日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「雨」。「夏休み」。「大学院をめざす」。「『高校卒業』程度の学力の大切さ」。

2009-08-10 08:47:24 | 日本語の授業
 今朝は雨です。昨晩は、まだ「早朝は自転車でも大丈夫だろう」と思っていたのに、朝の4時には、既に道は濡れていました。家を出た時には、やや優しげな雨であったのが、小学校の辺りから、ザアザア降りへと豹変し、学校が見える頃には、集中豪雨のようなありさま。傘をさしていたのに、ずぶ濡れです。

 今は、雨も少々収まっていますけれども、雨音はやはり重いですね。音を聞き分けながら、窓を開けたり閉めたりしています。私の後ろの窓はちょうど風の具合で雨が降り込んでくるのです。小降りだと窓を開けても大丈夫。本格的な雨だと、とんでもないことになってしまいます。

 この雨も、きっと9号(台風)の影響でしょう。いつの間にか、もう9号ですものね。毎日、梅雨みたいと言っているうちに、既に「台風シーズン」に突入しています。本当に「今年の夏は変!」。ただ、毎年、「今年の夏は変!」と言っているような気がするのは私だけでしょうか。

 さて、学校です。

 自習室を利用しているのは、自転車通学の学生が大半ですから、今日は静かかもしれません。こんな雨ではね。学校の裏にある寮から来る学生は、別ですけれど。なんて言ったって、歩いて二三分でしょうから。

 今週から、「Bクラス」も「Dクラス」も夏休みになりましたので、学校は完全な夏休みということになります。それで、自習室が換わります。下の、一番涼しい教室が、自習室になって、学生達を迎えるということになります。そこに降りていって、時々、睨みをきかせていれば、学生にしても、勉強以外出来ないわけですから、「困った。困った」でしょうね。

 そういえば、今年卒業して大学院の研究生になった学生から、「あとは、9月の口頭試問を待つだけ」という連絡が入りました。まずは、一安心。何事も一歩一歩ですね。

 中国人の大卒者の大きな問題点は、「自分は何でも知っている。ただ『修士』や『博士』の称号を得たいから、日本の大学院へ行くのであって、知識を得たり、研究したいためではない」という態度にあります。

 勿論「世界数学オリンピック」などでは、一位を中国人の若者達が独占しています。けれども、この成績と、日本に来る若者達の知識・技能レベルを見比べると、本当に同じ国で、同じような教育を受けてきたのか知らんと思ってしまうのです。誤解を招かないために、一言付け加えますと、彼らは決して愚かではありません。それどころか、まじめで、中には、それこそ、高校では一生懸命勉強していたのだろうなと感じさせるような愚直さを持った者さえいるのです。

 多分、中国などの学校では、一人を、いわゆる「秀才」にするために(目立たせるために)、千人の子供達(あるいは、一万人かもしれませんが)を顧みていない(犠牲にしている)のではないでしょうか。その999人(或いは9999人)は、一体どこへ行ってしまったのでしょう。

 日本では、「高卒者」が社会を下支えしてきました。「高校卒業」程度の学力さえあれば、後は一人でもなんとかやっていけます。仕事においても、必要だったら、自腹を切って本を買い、勉強すれば、その道の「専門家」にもなれます。日本の高度経済成長の頃、そういう人がどれほどたくさんいたことでしょう。必要なことを(一人ででも)勉強できるだけの力を、社会がつけてやらねば、その人は自滅していくしかないでしょう。それは、どの分野ででもいいのです。仕事で必要な分野でも、好きな分野でも、構わないのです。

 一人ではちょっと…という人には、通信大学もあります。夜間大学もあります。独学できるほどの頭さえあれば、休みの時に、自由に図書館へ行って、好きなだけ勉強すればいいのです。その図書館にない本は「リクエスト」すれば、図書館が責任を持って揃えてくれます。

 つまり、社会で生きていくためには、最低、「高卒」程度の学力がいるのです。ところが、勿論、中国人だけではありません、スリランカやタイ、ガーナなどから来た学生もそうです。特に「世界史」や「政治」「経済」「地理」など、つまり、「社会科学」系のものにおいて、顕著なのです。それから、「哲学」や「芸術」関係の「人文科学」系の一部分ですね。これらは、下手をすると、普通の日本中学生のレベルにも遠く及ばないかもしれません。

 勿論、日本の教育界でも、問題は山積しています。特に、こういう教育環境を整えても、勉強したがらない子供達が少なくないということは大きな問題となっています。けれども、それは、日本人に、「国民全員が、高卒程度の学力は持っていなければならない」という共通認識があるからなのです。その「高卒程度の学力」さえ、備えていない若者が増えてしまっているから、(日本)社会がパニックになっているのです。端っからそんなことを考えていない「国」だったら、普通の事ですから、問題にも何にもなりはしますまい。それどころか、愚民政策を施すことが出来ますから、大喜びかもしれません。

 話を元に戻します。大学院へ行きたいという「外国人学生」のことです。

 彼らは、まして、その道の専門家になるために、大学院に行こうというわけですから、言語的な問題の他にも、特に「社会科学」系や「人文科学」系の知識が必要になります。しかしながら、多くの場合、絶対的に、その知識の量が不足しているのです(しかも、怖ろしいことに、その自覚がないのです)。そういう学生に、どうやって、それを埋めさせていったらいいのか…。いえいえ、その前に、何よりも、彼ら自身に、自分は何にも知っていないということを自覚させなければなりません。

 何も知らないのに、「知っている」と言ったり、出来ないのに、「できる」と言ったら、それは、大学院の先生を「騙す」ことになります。私たちにとって、彼らの、その「とてつもなく、へんてこりんな」自信ほど、面倒なものはありません。その上、大学院を目指しているわけですから、それほど若いというわけではないのです(つまり、もう変われない人が多いのです)。

 とは言いましても、日本社会では少子化が進んでいますから、大学や大学院では、人が来てくれることに、文句はありません。それどころか、大歓迎でしょう(学費が、人数分入るわけですから)。ただ、忘れてもらっては困るのは、「いい」大学や、「いい」大学院では、人を選ぶということです。「誰でもいいから来て」という大学や大学院だったら、ある程度の学力があれば入れるでしょうが(それから、学費は高いです)、そうではない大学や大学院も少なくはないのです、特に「国立」では。

 いい大学院に入りたいというのであったら、それなりの能力も学力も努力も必要です。おそらくその人が思っている以上のものが必要になってくるでしょうす。なぜなら、偶然から入ってしまったとしても、入ってから「劣等感」に苛まれることになるのは、その人なのですから。

日々是好日
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