日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「暖かな秋」。「書物とインターネット」。

2009-11-10 07:39:16 | 日本語の授業
 暖かい。今朝もフワッとした空気に包まれています。本当なのでしょうか、もう11月も中旬に入ろうとしているのですけれど。しかしながら、いくら暖冬だとはいえ、このままで済むはずがない…と辺りを見回してみます。すると、不思議なことに、こんなに暖かいのに、木々はすっかり紅葉に染められて落ち着き払っているではありませんか。桜も靄いだ町の空気の中に、ただ一つくっきりとした黒い幹を黒々と浮かび上がらせていますし。
秋の桜は、その葉のオレンジが濃くなればなるほど、幹は黒くなっていくのでしょう。もっとも、ただ感覚的にそう思えるだけなのかもしれませんが。
 さて、今年は紅葉狩りに行くことになるのでしょうか。

 学生達を見て思います。人というのは、生まれ育った環境で、習い覚えた言語をどれほどの深さで、また広さで習得しているのかが、第二・第三の言語を習得する際に、いかに深く関係してくるかということを。

 考えてみれば、本当にわかりきったこと。
 けれども、実際に学生達と接していると、それだけでは解決できないのです。そのことが、どうしても、本人に判らない。また他の人にもわからない場合が少なくないのです。「努力だけで、どうにかなる」ことのように、本人も思い、周りも思ってしまうようなのです。極端な場合、「努力していないからだ」と、一言で片付けられてしまうこともままあるのです。

 国によっては、家庭に本が、二・三冊でもあればいい方という所もあります。書籍の姿が全くないという所も少なくありません。勿論、これは「生まれ育った環境」がそうであったというだけのことで、生まれつき、理解力の勝っている人であれば、大人になってからでもどうにでもなります。この学校の就学生達というのは、ほとんどが二十歳前後なのですから。いくらでも、取り戻しはききます。
 ただ、こういう方面(言語習得)にそれほどの能力がない人であれば、子供の時からの環境の影響は、計り知れないほど大きいのです。

 とにかく、周りにたくさんの書籍があった。また、手を伸ばせば直ぐに届く範囲にあった。その他にも、家にはなかったけれども、誰かが常に書物を手にしていたという図をイメージできる。これらの影響は、本当に大きいのです。

 昨今では、「知識」は、インターネットや他のメディアからでも獲得することはできませす。しかし、開いたページをそのままに、字句の影響を受けた心が一人散策をはじめるといったようなことは、こういう抽象的な架空世界では難しいことなのではないでしょうか。簡単に消し去ることのできる存在とだけ、つきあっていても、人は人として成長できないのではないでしょうか。

 書籍を手にすると、書かれていることは抽象的な「知識」であるにも拘わらず、しっかりと足が地についているような、具象的な存在にさえ感じられることがあります。それは、書物という「モノ」が存在して、手の中にあるからなのかもしれません。それを「頼り」として読み進めていけるからなのかもしれません。

 それが、空中を飛び回るような、内容も「空」のもの、しかも、その存在も抽象的であれば、そうして、そういう存在を「頼り」とせねばならなくなれば、つまり、そういう存在とだけの語らいになってしまえば、それは、人を狂気に陥れる一つのきっかけとなるかもしれません。
 思索を深めつづけていかねばならない人は、必ずといっていいほど、手に取れる存在、確かに「在る」存在を欲します。その傍らに行き、自分の意志とは違う時間的な流れ、またそれらの意志を感じる必要があるのです。「生者」としてのバランスを、それでとろうとするのでしょう。そうでもしないことには、人は簡単に崩れてしまいます。

 「人というのは、ガラス細工のように脆く、毀れやすい存在である」とは、よく言われることですが、この「(人の)定義」は、つくづくと本当であると感じます。勿論、それと両極端にあるようですが、また人というのは、しなやかで柳の枝のようでもあるとも思えます。

 若くとも、また年老いていようとも、人には「柳」の部分があります。ただし、そのその「しなやかさ」というのは、人が無意識のうちに「自己防衛」のサインを感じ、それ故に心の深みからそれを探り当て、(自分の心の手当をすべく)得られるようなものなのかもしれません。「崩れ」そうになる自分を「支える」のも、また自分なのです。

 こう考えていくと、「他者」というのは、人にとって、それほどの重みはないようです。立ち直るのも、自分の内なる「何か」であり、おそらくまた崩れそうになるのも、自分の内なる「何か」のなせるワザなのでしょう。

 もしかしたら、「七転び八起き」ができる人というのは、それを探し当てることに長けた人であるのかもしれません。二度・三度と、人は立ち直りを繰り返すたびに、「上手に」なっていくのでしょう、それが。
 山あり、谷ありの人生はあまり歓迎されはしないでしょうが。

日々是好日
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