日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「地球に寄生している私たち」。「ここは日本。彼らの母国語でなんか説明できません」。

2013-05-24 11:22:14 | 日本語の授業
 晴れ。沖縄では梅雨が既に始まっているそうですから、こちらでも、そろそろ、その気配があってもいいような感じなのですが、ここ数日晴れの日が続いています。
 
 人というのはおかしなもので、2日ほども晴れが続くと、何となく晴れの日ばかりであるような気がするものですし、また2日ほど、たとえ降ったり止んだりであろうとも、雨の日が続くと、これまた、毎日が雨であるような気がしてくるのです。
 
 本当に懲りないのが人間なのでしょう。だから、人間は、こういう、「生きている地球」に暮らしていけるのかもしれません。

 「地球に寄生している」のが我が身であると思えば、我が身に寄生している、様々な虫、細菌、ウィルスまでもが、哀れになってきてしまう…ほとほと生き物として生きていくのは、難しいものであると思います。

 さて、学校です。
 頭の善し悪し、能力の多寡はともかく、こういう日本語学校で一番大切なのは、毎日学校へ来るということです。休みが続けば、まず言葉が乱れてしまいます。この言葉の乱れというのは、危ない作業や、機械に使われる作業に従事している時に、往々にして使われている言葉を、じっくりと思考しなければならない時間(学校で)に使ってしまうということなのです。

 危ない作業をしている時に、「ちょっと、そこの人。それを持ってはいけませんよ」なんて、悠長なことを言っていれば、用件まで至らぬ間に、その人は大けがをしてしまうかもしれません。のんびり、文法的に正しい使い方をしようと考えている間に、機械はその人の分担分の仕事をどこかへ運んでしまうかもしれません。だからまどろっこしい言葉は使えないのです。

 けれども、大学へ行きたいとか、外国人ばかりがいるのではなく、日本人が多く学んでいるような専門学校へ行きたいとするならば、それ相応の言葉に慣れておく必要があります。

 実は、昨日、卒業生が一人、ふらりと来てくれたのですが、その時に、「敬語がむずかしい」とため息をついていたのです。

 彼女は、大学に合格していたのですが、家庭の事情で進学できず、観光の専門学校へ行きました。そこで英語でも高得点をマークし、日本語も「N1」に合格して、卒業後は、望み通り、旅行会社に就職することができたのです。

 もっとも、外国人が働いていない職場で、唯一の中国人として働いていると、大変なことも少なからずあると思うのですが、彼女は、同僚とのことで愚痴をこぼしてはいませんでした。可愛い性格なので、日本人とは旨くやっていけているのでしょう。彼女がため息をついていたのは、お客さんとのやり取りの時の「言葉」なのです。多分、単に尊敬語や謙譲語を覚えていれば大丈夫というのではなく、使い方であったり、間の置き方であったりなのでしょう。

 私は次の授業が入っていたので、直ぐに教室に入ってしまい、それほど話せなかったのですが、彼女が帰る時に、一階のベランダの窓を開けて、ちょっと立ち話をしました。

 その(彼女と話している)様子を、来日したばかりの「Dクラス」の学生達にも見ておいてほしかったのです。この「Dクラス」にいるのは、勿論、一生懸命に勉強している学生もいるのですが、それよりも、授業中に、冗談を言って人の気を引きたいとか、スマホを見たり、隣の人とおしゃべりをしたいというような学生の方が、多いような気がするのです。

 「初級Ⅰ」の段階でそれをやられますと、授業が立ちゆかなくなってしまいます。「初級」なんてのは、とにかく、学校に来て、毎日同じことを繰り返して聞き、言うことが、何よりの勉強なのですから。わかったというのは、最初の導入の時に感じればいいことで、あとはひたすら、絵カードを見て、言い続ける。「頭は要らない、考えるな。必要なものはホワイトボードに貼ってあるか書いてある。考えるな、ひたすら耳ダコになるくらい、聞け、そして、言え。言っている自分の声を聞け、友達の声を聞け」なのです。

 勿論、チェックは必要なので、ディクテーションで確かめているのですが(「きれいな」が「きらいな」と言っていたり、聞こえていたりするのです)、それを自主的に見て確認するということはないので(二人ほどはいつも早めに来て確認していますが、それ以外の学生にはその習慣がないのです)、授業中にノートを見る時間を設けておかなければなりません…そうでなければ、間違ったままずっと書き続け、こちらも訂正し続けなければなりません。

 とはいえ、ひらがなの書き癖というのは、生半可なことでは正せません。来日後、二ヶ月ほどになり、それまで毎回書き直しても、いまだに前と同じ字を書き続けている人もいるのですから。

 もう、今は、問題は「ひらがな」「カタカナ」の字形云々ではなくなっています。斜めになっているとか、跳ねが大きすぎるとか、「メ」と「ナ」の区別がつきにくいとかいったことではなくなっているのです。もう、動詞の「て形」に入っているのですから。

 この「ひらがな」「カタカナ」などの「文字」の問題は、本人が余程意識して書いていかなければ、なかなか改められるものではありません。あとは本人の自覚が出るかどうかにかかっています。本人が、何度(教師に)訂正されていようと、大したことがないと思っているなら、「焼け石に水」でしかないのです。もう「文字が云々」ではなく、活用形が違っているとか、単語を覚えていないとかのほうに、重点は移っているのですから。

 最初の緊張が解けてきたのでしょう、スリランカの男子学生達が、少し「いい加減(集中力が切れて、スマホを見たり、友達としゃべり始めたりする)」になりかけてきたようです。こうなると、私たちの、彼らに対する見方は、「母国で勉強の習慣がついていない人達」となってしまいます。

 勉強の仕方を知らなければ教えれば済むことで、これは大したことではありません。それよりも、大切なのは、勉強をする習慣がついているかいないかなのです。勉強をする習慣がついている人と、いない人を同じように考えて教えていくことはできません。もとより、最初は、皆、同じ一つのクラスにいるので、同じ授業を受けることになるのですが、彼らに対する要求の程度が異なってくるのです。

 勉強をする習慣がついていない人達には(もちろん、個人差はあります)、その人毎に、そういう人達に適した指導の仕方というのを考えていかなければなりません。普通なら「7」要求するところを、例えば「5」で抑えておくとか、時には「3」くらいにしておくとか、どれくらいまで到達できれば、「よし」とするかを常に考えながら教えていくことになるのです。

日々是好日
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