日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「天気予報が『外れた』」。「日本へ来て、『驚いたこと』」。

2009-11-20 07:45:27 | 日本語の授業
 今日は、明るい朝です。お日様が朝から顔を覗かせています。いいお天気になりそうです。

 昨日は朝から雨が降り出し、一日中、シトシト雨は止みませんでした。帰る時も雨でしたから、自転車は、学校にお泊まりしてもらいました。でも、天気予報のお姉さんは、昨日は「一日中曇り」と言ったのです。午前の学生達も、それを信じ、傘を持ってきていませんでした。何人かの学生が、学校の傘を借りて帰りました。
 その上、昨日の雨は、彼らからすると、「氷雨」と言えるような冷たさでしたから、不平タラタラで、「先生、天気予報、嘘ばっかり」。


 まあ、「お天気様」のことですから、人間がとやかく言える相手でもなし、その御心のままに従って生きていくしかないでしょう。だいたい人間が勝手にいじくり回していい相手ではないのです。必ず、どこかで「しっぺ返し」がきます。どだい、人というものは、自然の意のままに、右往左往する存在でしかないのです。

 とは言いましても、人には口がありますから、明治の昔から、フグを食べては「天気予報、天気予報」と言い放ってきました(「ココロ」は、「当たらない」)。せめてもの意趣返しです。こんなことぐらいしか、人には出来ないのですから、まあ、情けないと言えば、情けない。

 ところで、今朝、セッセコ、セッセコと歩いていると、急に自転車が目の前で、止まりました。(私は)歩いている時は、だいたい、二㍍くらい先しか見ていませんから、驚きました。見上げると、卒業生です。とは言っても、早朝でしたし、南から来た学生でしたので、肌が黒く、始めは誰かはっきりと判らなかったのです。

 彼の話では「今日、これから埼玉の方のIT専門学校へ行ってみる」とのこと。彼は専門学校を卒業後、直ぐに日本のホテルへ就職が決まったのですが、現場でいじめに遭い、やめざるを得なかったのです。それからも、ずっと就職活動をしていたようでしたが、なかなか見つからず、それなら、この間、ITでも勉強しておくかという気持ちにもなったのでしょう。どのような形であれ、彼のようなまじめな学生が、日本に対する嫌な感情を持たずに過ごしていければいいのですが。

シャコサボテン

 さて、学校です。
 昨日は卒業した学生が送ってくれた花の名を間違えて書いてしまいました。なぜか昨夜、寝た途端、「ジャコバサボテン」という名が浮かんできたのです。全く「しまった」です。せっかくもらったのに、これでは、学生に叱られてしまいます。

 当時、職員室では、誰もこの花の名を知りませんでした。けれども、よく気をつけてみていると、花屋でも、一番目立つところに置かれてありましたし、テレビの園芸教室でもよく名前が出て来る花であったのです。ああ、それなのに、一年経つと全くの無に帰していました。全く「ごめんなさい」です。

 で、学校です。
 階段を上りながら、ふと見上げると、玄関の奥の方に、背高くなった真っ白い「キク(菊)」の花が、またいくつかの花をつけていました。この花も在校生が、以前持って来てくれたもので、確か、初めて見た時には、全体が丸っこい感じでしたっけ。茎も短く、その割に花の数が多かったので、真っ白なブーケのようにも見えたのです。もっとも「キク」といいましても、寂しげなものではなく、「ゴージャス」という表現そのままに、華やかな花でありました。それが、一年経つと変わるものです。いつの間にかヒョロヒョロと背高く
なっています。

 これは、昨日学生と「面接」の練習をしていた時のことです。
 定番通り「来日後一番驚いたのは何か」と聞きましたら、
「先生、こんなことでもいいですか」
と学生が話し始めたのは、前にベトナムから来た学生が語ったこととよく似ていました。

「びっくりしたのは、お店の外に、食品や製品が並べられていたことです。お店の人は心配しないのですか。放っておいても、大丈夫だと思っているのですか。誰も盗らないのですか。普通は店の中に置くでしょう。外に置いたら持って行かれてしまうでしょう。どうして、日本では誰も盗らないのですか。外に置いているのに、(お店の人は)見張っていないのですか」

ベトナム人の学生は、玄関や店先に置かれていた「鉢植えの花」のことを言っていました。
「どうして、家の外に花を飾っていられるのですか。きれいな花です。どうして誰も持っていかないのですか。あんなにきれいな花なのに」

二人とも、結局は、同じ意味で言っていたのです。

 勿論、こうグローバル化が進み、いろいろな考え方や習慣を持った人が日本にも入って来るようになりますと、かつての日本人のやり方が通用しないということにもなりかねません。けれども、それと同時に、彼ら(学生)のように、日本のやり方に驚き、それを是とし、自らもそれに倣おうという人も出て来るでしょうから、(まあ、こういうことに関しては)まだまだ日本人はそれほど心配していないのです。

 これらも、考えて見ますれば、歌舞伎の「ならい」や、昔の旅籠の「しきたり」と同じなのです。「ふすま」や「障子」でいくら仕切られていても、中の出来事はすべて判ります。謂わば「紙のドア」であり、「紙の壁」であるに過ぎないのですから。けれども、だからといって、中に入っている人に声も掛けずに障子やふすまを開け放つような人はいませんでした。それは、してはいけないことであって、それをするような人は、まずいなかったのです。「掟」は守られなければならないものです。皆がそう思い、守ってきたものなのです。

 ですから、それを破るようなことをすれば、「ニュース」になります。つまり「ニュース」として存在するようなことだったのです。といって、泥棒さんが日本にいないわけではありません。どこの国にもいるように、たくさんいます。

 こういう具合に、何百年か、平和な時代が続いたわけですから、それを、外国の人に「どうして」と聞かれても(適当に理屈を捏ね、つじつまを合わせることはできても、)本当は、言葉に詰まるようなことなのです。

日々是好日
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