イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「学校では教えてくれない宗教の授業」読了

2014年07月18日 | 読書
ひろ さちや  「学校では教えてくれない宗教の授業」読了

この入門書は、宗教を神(または仏)と人間、そして神を中心にした人間同士の関係について重点を置いて書かれている。
ユダヤ教を含め、キリスト教、イスラム教は個人と神が契約を結ぶことで幸福を得ようとする。かたや、仏教は人間どうしの関係に重点が置かれている。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は神との契約のもとに戒律を決め、それを守っていれば神のご加護と祝福があると考える。だから周りの人がどうであれ神様との関係が良好に保たれればいい。
人の顔色を窺うようなことは考えにないのだ。
仏教というか、東洋(きっとアジアの人々だと思うが)の人々は横の関係をものすごく気にするそうだ。隣は何をする人ぞ・・・。というところだろうか。
釈迦が説いたのは、そうやっていると他人と自分を比べ続けていると幸せになれない。だから人のことが気にならないようになるために修行をしなければならないという解脱の心だそうだ。“出家”というのは世間から離れてしまうことを意味する。

この二つの違いから、“愛”についても考え方の違いが出てくる。
ユダヤ教系の宗教は、「自分にして欲しいことを相手にもしてあげなさい。」となる。寄付やボランティアなどというのはこういう精神が根底にあるからやれることなのだろうなと思う。
仏教では、「自分がして欲しくないことを人にしてはいけない。」となる。みんな自分自身を愛しているのだ。それを邪魔するな。という心が垣間見える考えのような気がする。
そこには、こんなことをしてあげたらきっと喜んでくれるだろうという期待があって、そういう喜びの表現を相手がしてくれなかったら落胆や憎しみが生まれる。そんな心を無くすために人には関わるな、強い心を持つために修行をしなさい。という考えがある。
蓮子さんが帝大生と駆け落ちをしても、その原動力の“愛”という力はいずれは嫉妬に変わるのだと思ってしまう僕はまったく解脱のこころが備わっていないのだろう。でも、有働さんもあさイチの受けで同じようなことをポロっと言っていたので、僕だけじゃなくて、解脱が必要な人はいっぱいいるのだと思うと少しうれしくなった。

どっちがどうかというのはないのだろうが、こんな考え方の人々たちが国際政治をやっているんだから、世界に平和がやって来ないのも無理もないと思わせられる。



戒律を守っていても不運なことも起こるし、不幸な目にあうこともある。
そんなときは、神様がそうなんだと言っているんだからあきらめなければならないんだと考える。これが西洋の宗教を信じている人々の考え方である。
約束の時間に遅れるのも、魚が釣れないのも、神様の思し召しということだ。
僕も魚が釣れないことの究極の言い訳としてこれを使わせていただこう。僕はお寺の檀家だが・・・。
東洋の宗教は修行をする宗教だから、そんなことになると、もっと修行をしてもっと自分が理想とする姿に近づかなければならない。
研究して、勉強してそれを克服して釣具屋さんに無数の商品が並べられる・・・。考えてみると日本人は仏教の考え方の典型ではないのかなどと思えてくる。
おそらく釣具の品質では完全に世界を凌駕してしまっているのはそんな努力の賜物なのだろう。僕はその恩恵にあずかれればそれでいいということにしておこう。

月末近くになって、今月の売上はいくらになるんだ?などと予想を一所懸命に考えるのも仏教的だ。多分、西洋の宗教だと、「神様がこれだけ売れると決めてくれ分だけ売れますよ。」となるのだろう。
僕はこの予想をするのは大嫌いだ。そこだけ西洋的だ。

まあ、修行や戒律などということに関しては、ぼくはずっと無宗教でいたいなと考えさせられる1冊であった。
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