イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「梅原猛の授業 道徳」読了

2015年10月09日 | 読書


前回読んだ「梅原毅の授業 仏教」同様、筆者による中学生に対しておこなわれた授業を書籍化したものだ。
「道徳」という授業、小学生、中学生のころにあったような記憶があるが、なにか同和問題の話がほとんどであったような気がする。

筆者は、道徳の基本は①人殺しをしない。②嘘をつかない。③盗んではいけない。であると教えている。これを突き詰めてゆくと宗教の授業になってゆくわけで、それを守りながら自分らしく生きてゆく術を考えるとなるとますます宗教や思想的なものがからんでくる。まったく宗教色のない学校ではなかなか教えるのが難しいだろう。
もうすぐ小学校や中学校で道徳の授業が科目として始まるらしいが、そんななかでどうやって教えてゆくのだろうか。教える先生の宗教観や思想でも内容ががらっと変わるだろうし、子供たちも子供なりにさまざまな価値観を持っているはずだからなおさらだ。

大体、こんなことは先生が教えなくても、親が家で教えれば十分じゃないだろうか。かしこまって教えなくても親の生き方をみていればなんとなくやってはダメなことくらいわかってくるだろう。
そして、宗教観、生きてゆくことに対する価値観・・・偏っていようがなんであろうが、親が教えるのだからだれにも文句は言われまい。それができなくなっているから、ややこしい事件がおきているのだから、じゃあ学校で教えなくてはとなるというのはこの国の先も見えているというものだ。軍国主義に逆戻りだとか教育勅語は国家に忠誠を誓わせて国民の自由を奪うものだとか、そんなことを忙しく言っている人たちは自分の子供の教育をちゃんとやっているのだろうか時代も変わっているののに。こんな反対運動に没頭するあまり子供にご飯を作ってやっていないのではないだろうか。

僕は、コンビニで飯を買うという行為がすべての悪の根源だと思っている。動物はおしなべて飯を食わせてくれる相手には絶対に刃向かわないし、言うことを聞くものだ。親が飯を作ってやらないから子供は親の言うことを聞かなくなる。人間なんもともと残酷な動物だ。それになんとか折り合いをつけるために宗教が生まれ、それでも何千年と殺し合いをしてきたのだから、飯を食わせてくれる相手が誰だかわからないとなってしまうと、本性が表れて暴走をする。これは当然の結末だ。
それに輪をかけて男女同権とかなんとかで男の役割、女の役割を決めてはいけないと叫ばれるとよけいにわからなくなってしまうのも無理はない。
男は男の役割をして女は女の役割をすればいい。その役割はなんであるかということも自分で決めればいいのだ。人に迷惑をかけなければいいではないか。それを1億人総活躍などと国が押し付けようというか、走り続けていない人は人ではないと決めつけてしまうのはおかしい。活躍したくないので生きてゆけるだけの最低限の仕事をしてゆっくり生きるのも生き方だろう。会社の寄生虫でもいいじゃないか。寄生虫も宿主が死なれては困るからそれなりに役に立っているのだ。

活躍しすぎてご飯を作る暇がなくなって、コンビニで飯を買う子供の道徳が失われるというのは本末転倒なのではないだろうか。
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