イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「梅原猛の『歎異抄』入門」読了

2015年11月29日 | 読書
「梅原猛の『歎異抄』入門」読了

「歎異抄」というと、“善人でも極楽へ往生できる。悪人ならなおさら往生できるのだ。”というなかなか普通では理解しにくいロジックが展開される。
そのココロは善人というのは善い行いをいっぱいしてその結果で成仏しようとしているので阿弥陀様のお力にすがろうという心が欠如しているというのだ。悪人はそんな努力をしないから心から阿弥陀様におすがりできる・・・。
言われてみればそうなんだと言い含められてしまいそうな感じだ。
その上に、悪事をはたらくのはその人が悪いのではなく、前世からの因縁だというのだ。罪というのは自らの意志で犯すのではなくて何か別の力が働いてやってしまうというのだ。
う~ん、言い含められたくないけど・・・。そう思うとクレーマーでも許してしまいそうになる・・・。

いままでいくつか読んだ、真言密教、釈迦の教え、禅宗。そして浄土思想。すべてに共通するのは、煩悩や欲望を人が持つのは当たり前である。それを知ったうえでどう生きるのか・・・。煩悩や欲望を持って生きてもいいのだよ。とという前提で教えをくれる。それは生きて行くうえでなにか許しを得ることができたという安らぎにも似たものを感じさせてくれる。

しかし、人口が増え、様々な考えを持つ人々と交流しなければなったとき、道徳的な考えを取り入れなければ世の中がうまくまわらなくなってきた。
歎異抄は親鸞の弟子の唯円という人が最近は親鸞の教えを理解せず守らない輩が増えてきたことを嘆いて書いたと言われているが、この本の著者の梅原猛は、そうではなくて道徳的に生きなければならなくなった世の中で親鸞の思想はその理解のしようであまりにも危険な思想にいなりつつあることを嘆いているのだと論じている。
その証拠に歎異抄でも、最後の奥書で、「前世から善根のない者には、むやみに見せていけない。」と締めくくっている。


上っ面だけを読んでいると、“何をしでかしてもいいのだ。”とも読めてしまう親鸞の教えは結局、そこそこいろいろ学んだ人でないと本当の意味を理解できないと言ってしまっているようにも思えるので、やはり人は学び続けなければならないということだ。
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