イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「やわらかな生命」読了

2018年03月23日 | 2018読書
福岡伸一 「やわらかな生命」読了

この本は一応、生物学の書架に並んでいたけれども、中身はエッセイだった。週刊文春の連載を単行本化したものらしい。かの文春砲もこんな格調高いエッセイを連載していたことがあったのだ。(まあ、今でも巻頭のえげつない記事を除けばそこそこまともな週刊誌とは思うけれども・・・。)
山中伸弥教授がノーベル賞を受賞した話が載っているので、連載の年代は2012年ころだったのであろう。

さすがに生物学者だけあって、少年時代は昆虫オタクだったそうだ。僕も昆虫は大好きだったが、獲ったら満足でそれから何かのテーマを持って観察なんかをしようと考えたことがなかった。そこが後に大成する人と世間に埋もれてしまう人の分かれ道だということがよくわかる。
筆者は通奏低音と表現しているが、小さい時の興味がどれほど長く続き、こころの中に刻みつけられるか。それはその人自身の素養にも左右されるとも思うが、生活環境にも影響されるのだと思う。僕ももう一息いい生活環境があればもっと違う生き方もあったのではないかと思ったりもする。しかし、そんな道を歩んでいたら、魚釣りという愉しみはなかったかもしれない。そう思うと、人生は何が幸いするかはわからないということかもしれない。

著者はまた多才な人で、顕微鏡の歴史に興味を持ち、歴史上はじめて顕微鏡を使って微生物を観察した人に行き着く。このひとは精子を世界ではじめて見た人だそうだが、フェルメールと同時代の人で同じ町で生活をしていた。精密なスケッチが残っていて、本人が書いたものではなく、絵の達者な人に描いてもらったという記録が残っている。著者は、その絵の達者な人というのはフェルメールのことではないかと推理し、絵画の世界に興味を持つ。特にフェルメールについての造詣は相当なものだ。音楽にも非常に詳しく、そんなありとあらゆるジャンルの話が出てくる。そしてそのほとんどが著者のいう、生物を定義する最大の特徴である「動的平衡」につながるようにまとめている。文才もすばらしい。

本来なら別の分類の書架に収まっているべきではあるのだろうが、図書館というのはきちんと分類されて整理されているので自分の興味のある書架の方にしか行かないのでこんな間違い?は大歓迎だ。

人間の体は約60兆個の細胞で構成されているそうだ。それが何の指揮のもとでもなく自発的に分化しひとつの体を作っている。僕のような世間にとってはいてもいなくてもどっちでもいいような人間にもそんな機能が備わっていて、おまけに指を切っても1週間もすればどこを切ったかわからないようになるほど精巧な修復機能まである。冬の間にできてしまったしもやけの血が凝固してしまったところもペロッとめくれてしまった。ページをめくる指先をふと眺めて、なんとも不思議に思うのである。


共産主義者が「細胞」という言葉を使うときは、その徒党のメンバーひとりひとりことを指す。それはきっと、全員が同じ思想を持って同じ方向に向かっていかなければならない、しかもひとりひとりが行動しろという状況をよく現していると共に、メンバーにそれを強く印象付けるために使った言葉であると思う。ついでに増殖もしなければならないという意味も含まれているのだろうか。まさしく言いえて妙である。
軍隊は規律と罰則で無理やり行動を強いるけれどもそこが「細胞」ではないところである。

僕は「細胞」のように集団行動をするということがなんだかそこに飲み込まれてしまうようで大嫌いだった。だから、制服というものがまったくダメだった。ずっと昔、会社で草野球のチームを作るからユニフォーム代を払えと言われたときも、なんで今さら・・と思いながら3万円ほどを出した記憶がある。
だから、今でも集団の中にいることが結構苦痛だ。じゃあ、なんで会社員をしているのかというのは、もちろん単細胞生物のように直接外気に触れるような生き方をすると即死してしまうからで、会社は僕の生命維持装置なのである。
本性を隠して(あまり隠せてはいないけれども・・)「細胞」のふりをするのもけっこう辛いものがある・・・。言ってみればガン細胞のようなものかもしれない。
人の心も細胞のネットワークが作り出しているそうだ。僕の60兆個の細胞はそんな心の構造を作り出すことを強いられていて矛盾を感じないのだろうか?
まあ、あと数十年、暴走せずにだまされ続けてくれ・・・。
コメント
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