檀一雄 「檀流クッキング」読了
一度読んでみたい本だった。何回か古本屋で見たことがあったけれどもなぜだか買わずにいてたまたま図書館で違う本を探していたらこの本があった。
この本を知ったきっかけは「イカのスペイン風」というレシピをどこかの本で見た時であった。そのレシピが掲載されている本が「檀流クッキング」だということだった。
オリジナルのレシピではイカのワタ以外に墨も混ぜ込むらしい。次にコウイカを手にできるのは今年の最後の方になるけれどもオリジナルのレシピに挑戦してみよう。
作家が料理を始めたきっかけというのが、母親が蒸発したことだったそうだ。父親は学校の先生で、自ら食材を買い出しをして料理をするなどということは教師という矜持が許さなく、妹たちのために止む負えず自分で料理を始めたらしい。
作家が片手間で作る料理なら僕でも作れるのではないかと思ったが、これはかなりの本格的料理で、なかなか真似のできるものではない。東大出身だそうだが、東大生は本格料理もいとも簡単にやってのけるようだ・・・。
そして、一流作家の書く文章はレシピを想像するよりその文章に魅せられてしまって、結局僕が真似できるものはほぼ無かったという結果であった。
僕もへたくそながら料理を作るのが大好きだ。そのきっかけというのはメジロだった。ハマチの大きいのではなくて鳥のほうだ。もう時効だということで書いてみるのだが、数年にわたってメジロを飼っていたことがあった。エサというのは専用の練り餌があるのだが、健康を保つためには青菜を練り餌に混ぜて与える必要がある。いつも野菜をもらう叔父さんの家から大根の葉っぱをもらってきてそれを細かく刻んでミキサーにかけて準備をするのだが、それを刻んでいるうちになんだか野菜のみじん切りが妙に上手くなってきた。大体刃物というのは上手く使えるようになってくるほどもっと使いたくなってくる。同じころ、ニュースステーションが始まる前に、「味の招待席」という桂米朝が司会をしている5分間番組があって、それにも触発され、じゃあ、いっちょ料理でもやってみるか!というのがきっかけだ。かなり不順であるが・・。
この本は、昭和44年から産経新聞に連載されたものらしく、当時はパエリアや麻婆豆腐という今ではありきたりの料理がかなり珍しい料理であったようだ。それを読みながらこのまえの法事の席を思い出していた。
亡くなったおばさんの旦那さんというひとは面白くて子供好きな人であった。よくかわいがってもらった。魚釣りが好きな人で、夏になると小アジやボラ釣りにやってくる。父親が、「すだのおいやん、釣りにくるで~。」というとうれしくてたまらなかった。おいやんと釣りに行くのももちろん楽しいのだが、おみやげに必ずケンタッキーフライドチキンというものを買ってきてくれるのだ。今でも店舗があるのかどうか知らないが、和歌山市の長崎屋の前に店舗があってそこで買ってきてくれるのだ。僕の両親にはそんな気の利いたことは望むべくもなく、生まれて初めて食べたフライドチキンには、世の中にはこんな美味いものがあるのあと感動した。それからは、すだのおいやんは次はいつ来てくれるのだろうか・・・とそればかり考えるようになったのだ。そして、その息子(いとこ)のやっちゃんと言う人は僕に人生初の喫茶店を体験させてくれた人である。歳の離れたいとこなのでかなり大人びた人であった。
これも今でもあるのだろうか、日赤病院の前の喫茶店であった。コーラとミルクを割ったコーラカウという飲み物と、スパゲティというものを始めて味わった。当時、我が家でスパゲティと呼ばれていたものは、うどんにケチャップを混ぜて炒めたものであった。うすうす、これはちょっと外国の食べ物ではないのではないかはと感じてはいた。だから、ナポリタンだったか、イタリアンだったかは覚えていないのだが、本物のスパゲティというものの味に感激したことを覚えている。まあ、このスパゲティも今から思うとどうも本場のものとはかけ離れたものではあったはずだが、そんなことはどうでもよい。まだ、パスタという言葉が日本には無かったころのことではなかったのだろうか。ちなみに、日本にパスタと言う言葉を広めたのは西川治というひとだそうだ。
僕にとってはすだのおいやんもやっちゃんも東のほうからやってくる、最先端の食べ物を味わせてくれる稀人であったのだ。
そんな強烈な思い出をよみがえらせてくれる本であった。
一度読んでみたい本だった。何回か古本屋で見たことがあったけれどもなぜだか買わずにいてたまたま図書館で違う本を探していたらこの本があった。
この本を知ったきっかけは「イカのスペイン風」というレシピをどこかの本で見た時であった。そのレシピが掲載されている本が「檀流クッキング」だということだった。
オリジナルのレシピではイカのワタ以外に墨も混ぜ込むらしい。次にコウイカを手にできるのは今年の最後の方になるけれどもオリジナルのレシピに挑戦してみよう。
作家が料理を始めたきっかけというのが、母親が蒸発したことだったそうだ。父親は学校の先生で、自ら食材を買い出しをして料理をするなどということは教師という矜持が許さなく、妹たちのために止む負えず自分で料理を始めたらしい。
作家が片手間で作る料理なら僕でも作れるのではないかと思ったが、これはかなりの本格的料理で、なかなか真似のできるものではない。東大出身だそうだが、東大生は本格料理もいとも簡単にやってのけるようだ・・・。
そして、一流作家の書く文章はレシピを想像するよりその文章に魅せられてしまって、結局僕が真似できるものはほぼ無かったという結果であった。
僕もへたくそながら料理を作るのが大好きだ。そのきっかけというのはメジロだった。ハマチの大きいのではなくて鳥のほうだ。もう時効だということで書いてみるのだが、数年にわたってメジロを飼っていたことがあった。エサというのは専用の練り餌があるのだが、健康を保つためには青菜を練り餌に混ぜて与える必要がある。いつも野菜をもらう叔父さんの家から大根の葉っぱをもらってきてそれを細かく刻んでミキサーにかけて準備をするのだが、それを刻んでいるうちになんだか野菜のみじん切りが妙に上手くなってきた。大体刃物というのは上手く使えるようになってくるほどもっと使いたくなってくる。同じころ、ニュースステーションが始まる前に、「味の招待席」という桂米朝が司会をしている5分間番組があって、それにも触発され、じゃあ、いっちょ料理でもやってみるか!というのがきっかけだ。かなり不順であるが・・。
この本は、昭和44年から産経新聞に連載されたものらしく、当時はパエリアや麻婆豆腐という今ではありきたりの料理がかなり珍しい料理であったようだ。それを読みながらこのまえの法事の席を思い出していた。
亡くなったおばさんの旦那さんというひとは面白くて子供好きな人であった。よくかわいがってもらった。魚釣りが好きな人で、夏になると小アジやボラ釣りにやってくる。父親が、「すだのおいやん、釣りにくるで~。」というとうれしくてたまらなかった。おいやんと釣りに行くのももちろん楽しいのだが、おみやげに必ずケンタッキーフライドチキンというものを買ってきてくれるのだ。今でも店舗があるのかどうか知らないが、和歌山市の長崎屋の前に店舗があってそこで買ってきてくれるのだ。僕の両親にはそんな気の利いたことは望むべくもなく、生まれて初めて食べたフライドチキンには、世の中にはこんな美味いものがあるのあと感動した。それからは、すだのおいやんは次はいつ来てくれるのだろうか・・・とそればかり考えるようになったのだ。そして、その息子(いとこ)のやっちゃんと言う人は僕に人生初の喫茶店を体験させてくれた人である。歳の離れたいとこなのでかなり大人びた人であった。
これも今でもあるのだろうか、日赤病院の前の喫茶店であった。コーラとミルクを割ったコーラカウという飲み物と、スパゲティというものを始めて味わった。当時、我が家でスパゲティと呼ばれていたものは、うどんにケチャップを混ぜて炒めたものであった。うすうす、これはちょっと外国の食べ物ではないのではないかはと感じてはいた。だから、ナポリタンだったか、イタリアンだったかは覚えていないのだが、本物のスパゲティというものの味に感激したことを覚えている。まあ、このスパゲティも今から思うとどうも本場のものとはかけ離れたものではあったはずだが、そんなことはどうでもよい。まだ、パスタという言葉が日本には無かったころのことではなかったのだろうか。ちなみに、日本にパスタと言う言葉を広めたのは西川治というひとだそうだ。
僕にとってはすだのおいやんもやっちゃんも東のほうからやってくる、最先端の食べ物を味わせてくれる稀人であったのだ。
そんな強烈な思い出をよみがえらせてくれる本であった。