イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「うしろめたさの人類学」読了

2018年03月27日 | 2018読書
松村圭一郎 「うしろめたさの人類学」読了

筆者は構築人類学というものを研究している学者だそうだ。ネットで検索しても著者の名前しか出てこないのでまだまだ新しい学問のようだ。

著者の理論では、社会、国家というものは人間関係の単位の集まりが積み重なってできているという。世界の中で国家という器があり、自治体の単位があり、それを細分して町があり、集落があるというようなドリルダウン的な構造ではなく、ご近所づきあいの集合体が自治体になり、国家に拡大してきたのだというのである。

そして、そのご近所づきあいの根幹をなすのが、「贈与」というものである。要はプレゼントだ。プレゼント(贈り物)というのは相手が欲しているものとは限らない。たとえば、バレンタインのチョコレート。僕もこの歳だから、けっこうチョコレートというものはお腹に堪える、あとからお返しもしなければならないのでできることなら避けたいものだ。しかしながら、その贈り物にはほんのわずかでも贈り主の僕への感謝の気持ちが含まれているかもしれない。そしてその気持ちに答えるために僕は1ヵ月後にウメボシなんかを買ってきて配ってみる。そして、配らないでいるとうしろめたさを感じたりするわけだが、そのうしろめたさという気持ちが人と人をつなぐ接着剤の役割をしていて、社会を作る基盤になっているのではないか。
貨幣経済が発展してくると、「贈与」の習慣が薄れてくる。人は貨幣との交換によって自分の欲しいものを欲しいときに手に入れることができる。ようは効率化されるわけだ。もちろん、生活が豊かになるためには効率的な部分は必要で、そうなってゆくのは必然である。その間をうまく取り持ってよりよい生活の場を作ってゆく方法はないものかと模索する学問が構築人類学であるらしい。

また、人と人との助け合いもうしろめたさが後押しをする。例えば、電車で席を譲る行為。足腰の弱そうな老人が優先座席の前に立っているとやはり自分が座ったままではうしろめたさを感じる。自然災害で苦しんでいる人をテレビのこちら側のぬくぬくした場所で見ているとやはりうしろめたさを感じる。それは人がもっている平等感覚から来るもので、社会を構築するうえで必須のものだという。

なるほど、そんな考え方もあるのかと考えさせられる。確かに、奈良時代、律令国家みたいなものできる前までは日本人もそんな生活をしていたのだろうから、歴史の長さで言うと今のような、おカネがすべての価値観の基準になった時代の方がはるかに短いのだ。

そんな実際を、まだ貨幣経済が発達していないエチオピアでのフィールドワークを通して検証しようというのが本書であるけれども、どうもしっくりこない。
著者が言うように、「贈与」が作り出せる社会とは相当小さな規模までだ。国際援助も贈与のひとつの形態で平等意識の現われだとは書かれているが、ちょっと違うような気がする。
著者も触れているけれども、その側面は経済戦略でもあり、その面から見ると善意のかけらもない。それを国家レベルの未来の方向性と結びつけるのはいささか無理な気がする。
それは量子論とニュートン物理学が折り合わないという現象に似ているだろうか。

この本は170ページほどのボリュームだが、その3分の1は著者のカンボジアでの生活が日記形式で書かれている。だから、人類学として考察されている部分は約100ページ。
それを見てもまだまだこれからの学問ようだ。著者にはよりよい世界を築くため、より高みを目指してもらいたい。

そんな未知の学問の本をどうして僕が手に取ったか。
当然ながら、「うしろめたさ」ということばに惹かれたわけで、仕事もできないのに遊んでばかりいるわが身を思うと、この本で使われている意味合いとは別のうしろめたさを感じる。多分、それは会社や社会に対するうしろめたさではなく、自分自身、もしくは人類の範疇を超えた何かに対するうしろめたさのような気がするけれども、それをなんとか慰めてくれるか、もしくは無理やりにでも正当化してくれる、ようは、心に傷を負った釣り師が何者かに許しを請えるような、そんな内容を期待していた。
しかし、よく考えてみると、それなら、タイトルは「人類学」ではなくて、「心理学」だったりするのではないかと読んでいる途中で気がついてしまった。だから後半はよけいにチンプンカンプンになってしまったのだ。
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