母が亡くなった日

2007年01月12日 00時19分40秒 | 母の死
1月7日の僕、実は山梨に帰ろうとしていたのです。
もう2週間以上も山梨をあけていて心配なのと、海外旅行でぼけた上に、新年でぼけ、怠惰になってる自分を感じだしてました。ホームシックも強くなってきたんですね。11日に新宿で新年会が設定されたこと、母も悪いなりに落ち着いていたので、ここで3日ほど山の様子を見てきたいと朝考えたのです。ただ1つ問題がありました。数日前からの大雪です。友人からのNET情報では積雪20cm、ノーマルタイヤでは無理と言ってきてました。
それでも10時頃家をでました。神奈川は快晴で暖かく、これなら山の融雪も進んで、車入れるだろうと考えながら・・・。

妻から第1報があったのは11時半頃です。まだ中央高速に入る前でした。
「カルピスをあげたら、誤嚥して、苦しそうなの」でした。「先生に診てもらって。だいじょうぶだよ。先生に診てもらったらまた電話して」と返事して、山梨に向かいました。
2報があったのは勝沼のインターを出ようとしてた時でした。「何か変。今までと違う。すぐ帰ってきて」でした。妻の声に普通でない状況を感じ、料金所を出る、ユーターンして、東京方面に入りなおしました。
実は笹子トンネルを抜けてから雪模様に変化し、めざす白州もまた雪が降り出したというニュースは聞いてました。不安を感じながらも、ここまで来たんだから行こうと運転してました。高速を勝沼で降りようか昭和まで行こうかも悩んでました。安く行こうの判断だけで勝沼で降りたのです。まさに料金所にさしかからんとした時の電話でした。
帰りの道でいろんな状況を考えました。「妻の早とちり」から「母の死」まで。相模湖で高速を降りるころには「だめかもしれない」が結論になってました。
でも不思議なことに運転を急ぐことはなかったです。急ぐあまり事故やったらいけない と考えてました。

1時50分ころ病院に着き、母を見た瞬間に状況が理解できました。うろたえることはなかったです。
今振り返れば、医師は家人が「長男が来ますから」と訴えたので、最終宣告をしなかっただけで、母の本当の死は12時過ぎだったと思われます。冷たい母でした。医師と形式的な瞳孔確認をし、心臓が停止してることを説明されて、お決まりの文言を聞かされました。
俺がうろたえてはいけない、まず何をしなければいけないんだ と考える僕がいました。

母が死をもって僕をつれもどしたのかもしれません。あのまま白州に向かっていたら、立ち往生を余儀なくされたかも知れないくらいの大雪でしたからね。
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