気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(26)次元の壁

2017-08-29 07:03:35 | 真我実現シリーズ
金融でも「異次元緩和」などというように、
昨今は次元という言葉がよく出るようになった。

異次元、高次元などと言われる表現は、
何か根本的な異なった領域への移行等というイメージがある。

また、それを物理的に探す行為も行われているようだ。
噂では、EUでのCERNという高エネルギー加速装置で、
陽子などの極めて高い運動粒子エネルギー同士をぶつけることで、
局所的にエネルギーを集中して・・異次元への扉を開くとか・・。
・・・
これらの行為は単純な科学的追求だけではなく、
何か特別なエネルギー集中による時空破裂装置への足掛かりか、
あるいは、あわよくば、時間・空間を飛び越えることを目指していると考えられる。

この時空から、別の時空へ、より自由な存在へという人間の探求は、
ある意味で自然なことであるが、物理的な次元要素のみを考慮した次元の壁の突破行為は、
核兵器のようなエネルギーの局所集中による爆発装置を生み出すことにもつながるだろう。
・・・
人類の意識レベルが、肉体自我存続とその周囲の物的充足であるかぎり、
その物的集積の極み、つまりエネルギーの単なる極度の集中をもたらし、
危惧されているようなブラックホールを生み出すことにもなる。

ブラックホールは、あるところに質量が極度に集中し、
その中ではすべてが中心に引き込まれ、光さえも外に出ることはできないとされる、
いわば物理的4次元領域における、自己崩壊した時空の歪のことである。


また4次元は宇宙は、そのバランスのために、
ブラックホールの真反対であるホワイトホールと呼ばれる、
時空の極端な開放領域があるとも考えられており、
ブラックホールからホワイトホールへの移動が可能ならば、
あたかもトンネルの向こうの世界へと移行することが可能であろうという想定もある。
いわゆるSFでいうワープ。
ブラックホールはある時空のドレイン(引込口)、ホワイトホールは別の時空のソース(沸き出し口)ということだ。



これは今認識されているであろう物理的・時空間の仕組みとしてあり得ることだ。

しかしながら、残念ながら、希望通りの次元突破ができたとしても、
まったくその通りの物理レベルの果実のみが得られることになり、
同じ次元軸上のAからBへの、ちょっとした際限のないジャンプでしかないだろう。
石を投げて、水面を飛んでジャンプする飛び石のようなものだ。

1つの無人島の発見ののち、また1つの無人島を見つけるがごとく、
3(4)次元的世界認識の先には同じく3(4)次元的な世界の展開しかないだろう。
まるでスターウオーズのように、科学技術だけ進んで、意識レベルは今のままの延長で、
変わらずのエゴ中心で略奪や支配を考えているならば、
それ自体でブラックホール化してしまうという比喩は当て外れではない。

・・・
なぜならば、意識の働き、認識の働きはそれ相応の「具象化」をもたらすしかないからだ。
I AM THAt I am.

逆に、人生真に手に負えないものは現れない・・と言われるように、
マインド、思考、想像の延長線以外のものは現れず、それはまた、
気づかず知らず、いわば恩寵深き、神仏の手の上で遊んでいるようなもの。





平たく言えば、
思い込んだのその先にあるのは、いつもその思い込んだ事象の知覚確認ということだ。

問題は、内面深くあるその思い込み・・に気づかない場合が多く、
どうしてこうなるのか?わからないということなのだ!
生まれ変わり、転生、この世界での輪廻転生も、まったくしかり。

思い込み?違うだろう?・・これは科学的な事実認識作業だから、
単なる思い込みとは違う・・!、と、そう思うだろうが、・・・

自然を理解してゆく科学プロセスさえも、
人間の思考と実験によって、認識として蓄積・記憶されるものであり、
つまりは、人の意識的行為にほかならず、

何か深遠そうな高度の数式さえも、宇宙・大自然のその働きの模写の試みに過ぎず、
根本には、時空間の理解の試みという、「意識的」働きがあるからである。
従って、どのような科学や非科学、人文科学でさえも、
人間の意識の創造に過ぎないと言えるのである。

我々がそれに取り巻かれている、目の前の物質なるものを、
手に負えない独立存在と考えるような唯物的世界も、
それ・・、人間のそういう信念体系による具象化世界ということだ。

その証拠は、
いわゆるこの世界、物理的3(4)次元世界として、現に今・・ある。
この世は1つの信念体系世界である。
自他分離と唯物的想念の極めて強い色合いの世界、
それもまた信念、想念で出来ていた世界なのだ。

そしてあなたやわたしたちの中にある・・・、
気づかず知らずの信念、想念の記憶の束
それらが苦痛と快楽、欲望と挫折、善と悪、高いと低い、重いと軽い、
という2元性の世界をつくりあげていたのだ。

そして、いま誰でも気づけるようになった様々な異変は、
その時空そのものの大きな変動のサインなのだ。

われわれを優しくあやしていた地球という揺りかごは、
その揺れを大きくして、その中にいる魂たちに、
この世での生死のサイクルの、そのまどろみから出てくるように促している。

明らかなサインは、もうここに来ていると・・・・思えないだろうか?

(つづく)






意識の話(25)続・生まれるとは?

2017-08-26 06:52:46 | 真我実現シリーズ
(つづき・・より)

この世においては、世の中の出来事のすべては、出来事そのまま・・ではなく、
出来事の「認識」のこと・・なのだということだ。

認識とは、普通の表現をすれば、「こころのはたらき」である。

また、本来・・認識とは知覚すること、覚える、概念分けなどだが、
そこに様々な・・「想い」「思惑」・・が覆いかぶさって、
あるがままの真実が変形・変質し、
あたかも真実のごとく、
実際には別の形にデフォルメ(擬態化)されてしまうということだ。

この世は、真実から遠く離れた「擬態の世界」だったということだ。
ある意味で、真実から遠く離れた次元世界であった。



次元というのは、周りの時空間という形そのものではなく、
意識、認識の質によって必然的に投影される世界のことだ。
意識が変わらなければ、その投影像が変わるわけはない。

それを学ぶ、あるいは魂が気づくための世界、
ここは、確かに3次元世界とか、第3密度とかそういうカテゴリーだろうし、
わかりやすく言えば、幼稚園の年長組さん?のようなものだろうか(笑)


この世界、地球とかガイアとか、テラとか言われる世界は、
想念のその擬態、虚飾、思い込みや思惑の色濃い世界であり、
幻想の中でもさらに濃い幻想世界・・ご丁寧にも、
感情の極大化も促すことが可能な巨大な悪夢がセットの幻想世界であった。

苦痛と快感、さらに善と悪のセット料金で、都合1500円になります(笑)

「おいおい、こんな映画館に入って、目覚めることができるんかい?」
それでも、あなたやわたしはここに来た!・・大笑)
だから、気づいているか、気づいていないかは別として、
この世界で共同創造しているすべての人々、
ちょっと上の次元で休憩している存在たちも含め、
すべては勇敢この上ない魂の同胞なのだ・・、。


この世は、真実から遠く離れた擬態の世界。

権力機関である行政やメディアの、まことしやかな嘘八百も、
国家間の争いや執拗な負の絡み合いも、まったくこの世的なものなのであり、
そこには、歪んだ想念形によるシナリオが渦巻いている。
気づけば、ある段階では、まったく意味のない「想念のゴミ」の渦巻き
と言っても過言ではなかろう。

日増しに増大している、まことしやかな世界の混乱も、
結局のところ、最後の清掃、想念のゴミ出しであろう。

・・・
こういう世界に、
わたしは生まれた・・とするのは、親でも役所の戸籍でもご近所の証言でもなく、
「わたしが生まれたんだ」と「認識」する・・ことによっている。

そう、「自己認識」がなければ、”わたしは生まれていない・・”



・・これは、じっくり考えなおす視点なのである。

8時の朝ドラで、記憶を失った父親を探し出す人気番組があるが、
「認識」あるいは「記憶」がなければ・・・
「わたしは誰?・・ここはどこ?」となる。

わたしは・・在る・・が、しかし、私は誰なんだ?
つまり、
わたしは「・・・である」という自己認識、記憶がなければ
特定の私個人など存在しない、と言うことだ。

肉体があるのは・・・・わかるが・・・、
それを観察している・・わたしは・・何だ? となる。
通常は、名前、履歴、生年月日、親はだれで、学校はどこで、・・・
そういう「記憶」が・・・私個人である。

意識し、知覚し、認識し、記憶しなければ、<私>は存在することもない。
肉体がわたしだと・・断言することの愚かさがわかるだろう?
・・

世の中は、常に逆ばかり、肉体・物質があるから、
その有機物体組織の中に「意識」が・・偶然・・後で生まれる・・と考えてきた。

意識は物質が作るものだ・・と、
・・・物質こそ実在であり、その集積である富こそ・・命だ!・・(笑)

だからそれを真剣に追求してきた西洋人たちによる、
欧米流の支配、契約・物欲・収奪をもとにした文化が席巻したのだが、

そのおかげで心底幸せになったと、かつて誰も言っていない(笑)
ローンと引き換えに、お腹はいっぱいになるし、安楽な生活はできるが、
それが原因で確実に幸せになる・・という実感は誰にもない。

いやいや、メディアで流さないだけでそういう決めつけもできないかもしれない。
あなたは、どうだろうか?


話は戻って、人が生まれた時には、
親や周囲の人々は、<あなたの肉体が>生まれたと考えた。
親や周囲にとっては赤子(の肉体)が生まれたと認識しているのだ。
そうではないか?

子供は、家や親へのプレゼントのようなもの、
痛い思いをした母親ならずとも、父も兄弟もふくめ、
ふつうは大歓迎であり、実に可愛いものなのであるが、
そこには、赤子の「魂」という・・高次意識の視点はほとんどない。

これは、この世的世界では常識なので仕方がないけれども、
ここにおいて、
わたしは肉体自我だ・・という「強い想い」が、
あなたの周囲にセットされる。
そして、その延長である社会、世界へとつながってゆく。
・・・
学校、組織、会社・・・普通の肉体人生色々・・ということだ。
そこでもほとんどが、
「自分は肉体である」という通念の人々であるため、
その大切な、肉体維持や安楽のための競争、足蹴りなどをしながら、
逆に、いやいや仲良くしなければ・・等という思いとともに、
いつの間にか人生が流れてゆく・・ということだろうか。

しかしながら、
人生のその間に、この世の擬態のその異質さに気づき、
肉体保持への猛進を止め、癖になる苦痛や快楽の感覚刺激を振り切って、

この世界の違和感は何なんだろうと、
さらに、わたしとは一体全体何だろう?と、

真剣に考え、調べて行く者たちのことを、「探究者」と言っている。
洗脳された大衆から見ると、彼らは特異な人のように見えるが、
これも逆であって、
探究者こそが、この世界の本来の目的を実行している者たちなのである。

彼らは、この平和と安楽の擬態に満ちた世界を早々に卒業する者たちだ。

卒業するとはどういうことだろうか?
あくまでも物質、時空間にとらわれた人々は、
「自我」が消えてしまうものだ・・と、
死んでしまうものだと、死んだら終わりだと、・・恐れてしまうものである。
実は、これは単にこの世で仕込まれた「想念」の癖なのである。

そう、人は<自我の死>を恐れる。

その自我の死を恐れるのは、何あろう・・架空の自我・・である。
それは、今回限り、いつもその人生限りのキャラクター自我と言おうか、
生まれてから「わたしは・・肉体だ」・・をベースに蓄積してきた「自我」の記憶、
つまり「肉体自我」なのである。

それを観ているところの、真のわたし・・・真我・・・、
意識、気づきである・・・<わたし>にとっては生も死もない。

今回生まれたということは、例えば、
毎朝毎朝目覚めるように、そしてさらに生と死という大きなサイクルの中で、
赤子という形で再び目覚めたということだ。

意識は不滅。
時空間、物資形態は、出現・消滅をするのが旨だが、
それを知覚・認識、投影する・・・意識、気づき・・は・・・
時空間、物質、エネルギー諸形態を超えているからである。

1日24時間という中で、つまり”常在”の存在軸の中で、
わたし「意識」は・・眠り、夢見、目覚めの間でも存在している。
そうではないか?


意識は、潜在意識・顕在意識・・、無意識、などと呼ばれるように、
ある次元から見れば姿を変えるように見えるが、

根底に・・「意識」があるから様々な形で生きているのだ。
ある意味で、「意識」は「生命」ともいえるだろう。


これにまともに気づけるならば、意識・生命にとっては、
死も生もなく、ただ変化のみがあることがわかるだろう。

時間は存在しない、今があるのみ・・そして、
その「今」から噴出する無限の変化、物語があるのみだ。
気づくべきことは、
その変化を観察する意識、気づきがあるからこそ、
すべてがそこに投影されているということだ。

そことは・・空(くう)という無限のスクリーンであり、
その中の時間空間とは、様々な世界とその物語であり、

今我々が居る、地球という、複雑で壮大な時空物語も、
真我の観る夢なのである。

そして、
いつまでも悪夢ばかりを見る必要もないということに、
多くの魂たちが気づいてきたということなのだ。

そう、エゴだらけ、不都合だらけの古い世界は・・
終わりを告げている。

「えー、どこ何処?、それは何時(いつ)?」というのは、
今はもう、
まったくの見当違いであることが判るかもしれない。




意識の話(24)この世に生まれる・・とは?

2017-08-25 06:43:47 | 真我実現シリーズ
(ちょっと面倒な話かもしれないが、面白い真実の話と言っておこう)

時間というものは存在せず、それは架空の便宜上の概念である。
月がくるくる地球の周りをまわり、地球は太陽のまわりを周回する。
それでカレンダーができている。
そのカレンダーという「物差し」上で、月日を区分けしているだけだ。
時間というものは、そういう約束上の「概念」である。
・・・
3次元的世界での、物質とされるエネルギーの濃淡の、様々な変化を観察して、
その変化の違いを早い、遅いとして「時間」を導入しているのだ。

時間・・・そのものは観測できない。
観測できるのは、自然の変化だけである。
時間は存在しないのである。
・・・
マインドが澄んできた人は、これが明快に理解できるだろう。
他者依存心でなく、自分で生み出す探求心で、
今あることを観察、熟考し、気づけるならば、
時間がある、時間がない・・という世の中の様々な出来事は、
まったくの便宜上の概念、いわば嘘を元にしていることがわかるのだ。

時は金なり・・・、おー、なるほど!と思う時もあるが、
これは物欲資本主義のための言葉だ。(笑)

さらに、
歴史とはその架空の「時間軸」上の出来事の記憶ないしは「記録」である。

人間が記録を掘り起こし、再編纂したものであることは誰でももわかるが、
そういう作業をする者は、主に”時の”権力者の周辺にいる場合が多い。
歴史とされる記録も、それが大々的であるほど、
まじめな歴史家、研究者とその生活保護者ともいえる権力者の合成物語だ。
さらにそれさえも、きわめて断片的であるし、
支配層に都合のよい筋立てになるのは当然なのである。

あなたは、作文で自分の悪口など書かないだろう?
それが人情というものだ。
ましてや、権力者や支配者が「良い人」なわけもない。
聖者や覚者なわけもない(笑)

したがって、いわゆる公的歴史というものは、
支配者間で常に争いのもとになる。
これは日本の周辺でも、どこでも起きていることであり、
程度の違う・・ウソ同士の争いであるからして、
繰り返し蒸し返され、権力の栄養や物的簒奪の手段となっている。
どうでもよい嘘から出てくる事象に、
はっきり言って、それ以上どんな意味もない。
・・・
時間は存在しない、有るのは事象の変化である。
そしてそれを知覚観察するわたしがいなければ、
その事象の変化さえも認識しない。
「認識」しない物事は・・・それまで存在しないのである。

世界、宇宙は・・
 知覚・認識しなければ、
  存在なんかしていない・・ということだ。
 知覚・認識・観察は、意識そして「気づき」からくる。

宇宙は「意識」の中にあるという意味なのである。
「意識」は宇宙、時間空間を超えている・・という意味だ。


自分の経験からいうのだが、
普段は肝心なことも何も考えず、
お金や競争、生存に忙しく生きている人が多く、
こんな身近のことを素通りしているのだが、
ここに次元の違いというか、世界の本質というか、
そういうものがすでに在るのである。

幸せが、どこか遠くにあると、思わされてはいないか?
いつかきっと・・幸せになると思わされてはいないか?
いつか・・の「時間」は、概念であり、
実際には存在していないものを待ってるわけだ。

なるほど、それらも架空の夢であり、
架空の「時間や空間」の舞台演劇ならではの「楽しみ」ともいえよう。
悲しみや苦痛を伴った・・楽しみ・・自虐的でもある(笑)



物理世界がそこにある・・・というのは誰か?
宇宙がそこにある・・と知るのは誰か?
其々の「わたし」以外に無いだろう?

さらに言うと、、

あなたが生まれた・・と知っているのは誰か?
あなたが生まれたというのは真実か?

変な問いかけと思うだろうが、続けると、

わたしは親から生まれた、それは親だよ・・というのは違うのである。

親に聞いて、「あーそうか」という出来事を通じなければ、
あなたが「生まれた」と・・あなたが知ることはない。

親が、「あなたはかわいい赤ん坊だったよ~」と言っても、
あなたがそれを聞いて、「そうなんだ」と認識しなければ、
あなたは生まれてきた・・と「知る」ことはない。

知る・・・というのは「認識」するということだ。
・・・
わたしは生まれた・・とするのは、親でも役所の戸籍でも、
ご近所の証言でもなく、
「わたしが生まれたんだ」と認識する・・ことである。

親が、私は子を産んだ・・は、ただ親の事実認識である。
あなたが人間でなければ(変なたとえだが)そこで終わり。
親が、私は子を産んだ・・で終わりだ。
たぶん、猫や犬の子は、そうだと言っておこう。

翻って、
・・自我意識のある人間の場合、
地球や親にお膳立てされた赤子の身体と同時に、
「わたしは生まれたんだ~」という、
 <自己認識>の種が”芽生える”のである。

我々が生まれたことに関する、1つの描写表現と考えてもよいが、
これらもずーっと素通りしていたのだと気づけるだろうか。

多くの私たちは、<わたしの本質>の方向でなく、
目に見える世界や人々の方ばかりを観ていた・・と気づけるだろう。

映画に見入り、それを観ている当の<わたし>を忘れていたのだ。


(つづく)




意識の話(23)「時間」は存在しない

2017-08-23 05:34:37 | 真我実現シリーズ
<わたし>が真に気づかなければならないことは、
宇宙創成には常に「今」しかないということだ。
人間社会であろうと、宇宙創造だあろうと、今しかない。

何年前、何十年前、何千年前、何億年前というけれど、
それは今・・そういっているだけなのである。
また、今の連続が過去という名の「記憶」「記録となって、
・・今・・存在しているのである。

この時間の流れという観念も、
われわれを「時間」というフレーム枠に固定しているマトリクスである。

マトリクスとはいわば檻(おり)、逃れられない網掛けの網ということだ。
人はある時生れ、ある時に死ぬ・・、
時間の流れの中で一定「時間」生きるが、その流れで行き着く先で死ぬ。
それで終わりだ。
そういうふうに考えているだろうか?
違うのだろうか?

時間が与えられている・・等というが、
実際に時間などないから、与えられているわけもない。

それは言葉の便宜上表現でしかないが、
こういう様々な概念によって、時間が実際にあるような錯覚が生じる。
小さいころから、社会的な便宜性ということで、
それを仕込まれてしまうために、
わたし・・というものが、時間によって誰かに管理され、
与えられたり、奪われたりするという話にもなる。

時間給は1000円です・・(笑)

人は皆、
カレンダーを眺めて、ある行事の日を指折り数えて待つような、
そんな経験はあるだろう?

人間社会では良く「時間が流れている」などというが、
それはつまり、漠然とした概念でしかない。
あなたは時間が見えるか?
見えるわけはない。

「時間」は・・どこにもないからだ。
あるのは時間という便宜上の「概念」「観念」である。

我々が言う「時間」とは、物理的な変化の相対的な変化率なのである。
人が、物事の変化の速い・遅いという比較を観測した場合に、
「時間」の進行・・が早い遅いという概念を当てている。

そこには”事象の変化が大きい少ない”・・という観察があるのみで、
「時間」などどこにもないのだ。


時間などどこにもない、あるのは物事の変化率の違いだけだ。

だから、時間というものが存在している・・と前提としている話は、
まったく真実性がないということだ。
便宜上、仮に、とりあえず・・あるように仮定しているのが「時間」である。

この3次元的物質偏重世界は、
「時間」という虚妄の概念の流れのなかで、
様々な枝葉概念が栄え、そして時間の中を気づかぬまま
・・行き過ぎて、果実の収穫時期を悟らぬまま、爛熟し、腐敗してしまった。
これ以上ないほど爛熟しつつ、何事もないような現状維持でこらえているが、
ある時に至って、・・地に落ちるのもこの地上世界の定めである。
今の時期はそういう時期にあるといえようか。


・・・
時間空間という物理上存在しているとされるもの、
ひいては宇宙やら世界やらとされるものの中に、「時間」は存在していない。

その「時間」とは単なる概念、観念でしかなく、
「時間」・・それは存在してなんかいない!・・ということだ。
・・・
我々の世界、つまりあの世もこの世も含め、
時空間での重要要素である「時間」とは、実在しないもの。
言葉を換えれば、あなたも私たちも時間のない世界にいるのである。

世界にあるのは、さまざまな事象の変化、その観察による比較認識でしかない。
観察がなければ事象は存在しない。

またその観察をするのは何かといえば、
それぞれの<わたし>意識でしかない。

あなたもわたしも、便宜上の仮の時間の世界で泳がされてきたのだ(笑)
数千年という輪廻転生というその時間スパンも、実在なんかしていない。

在るのは・・今・・という永遠の瞬間だけ。

あるのは・・常に今・・なのは、心理的な思い付きでも、美し気な夢でもなく、
何時でも、何処でもある「常在の真実」なのである。

例えば、あなたが今、「ああ、歳取ったなあ・・」と鏡を見て、
ため息をつくかもしれないが、
それは肉体の変遷、あるいは老化という変化した様を見ているのだ。
つまり嘆息交じりにではあるが(笑)・・観察しているということだ。

その・・観ている<あなた>は・・常に・・今・・あっただろう?
物心ついてから、幼稚園で、小学校で・・・常に在った私・・と記憶している、
そのあなたは、いまも・・そこに在る・・のだ。

常に、今・・在った・・それを気づいている者、意識している者
それが真我の反映である・・・今のわたし・・である。

意識の話(22)熟睡と夢見

2017-08-20 06:44:26 | 真我実現シリーズ

熟睡、夢見、目覚めた後の現実のすべての背後に実在するのは、
何かといえば、「意識」である。
無意識、夢意識、覚醒意識、・・あるいは潜在意識、顕在意識などとも呼ぶが、
すべての背後、バックグランドには「わたし」意識が在る・・・、

寝ても覚めても、実在するのは・・ああ恋心?ではなく
ああ、1千万貯めるまでは・・ではなく、(笑)
「意識」と呼ばれる・・それである。
「意識」は、知覚、さらに思いや感情として現れるもとにあるものだ。

意識がなければ、私感覚も、肉体の知覚も、世界認識も何もあったものではない。
体が痛いという感覚も、それに気づくからこそだ。
あいつは嫌なやつだと思うのも、
何かの気づきが擾乱波動となって意識に生じ、
それが何かの思いや感情となるからだ。



人が目覚めている間の「現実」以外の、
夢見と熟睡とはなんだろうか。
たぶん、ほとんど意味のないものと思っているのかもしれない。

なぜならば、五感を経由した外側の世界からの刺激がないからである。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるという五感経験が消えているため、
意識内面への情報が入らないからだとも言えようか。
またその時には、肉体感覚はない。
他人はあなたの身体を見ているかもしれないが、
それは他人の意識の中にある知覚であって、
あなたの知覚ではない・・。
ある意味で、わたし意識・・から見て、
熟睡中、わたしの肉体は消えている・・ということだ。

夢見はどうだろうか。
いろいろな夢を見る人がいる、その夢を見ているのはだれかといえば、
やはり「わたし」以外にない。

その多くが、おぼろげな形ではあるが、
別の登場人物などが現れて、
いわゆる現実の世界と同じようなコミュニケーションをするだろう。

それが、まったく現実の状況と異なる場面や場所、
あるいはあやふやな人間関係としてあらわれてくるが、
夢を見ている<わたし>は、不思議なことに、
「これは夢だから適当でいいんだ・・」などとは思わない。

現実でも、夢見でも真剣に対応しているはずだ。
たまにこんな夢を見たのではないかだろうか?(笑)


 (ムンク作)

熟睡、夢見、目覚めた後の現実のすべての背後に実在するのは「意識」である。

睡眠は深い眠りと浅い眠りがあって、
浅い眠りでは夢を見るし、深い眠りでは夢など見ない、
夢も何も見ない意識状態が「熟睡」である。

熟睡中は全く意識がないように見えるのは、
どんな知覚作用、思考もないからである。
それをラマナ・マハルシは純粋意識(真我)に近い状態とも言っている。

例えば、
熟睡中は、時間の経過など何もないだろう?
場所や場面・空間の制限などないだろう?
あなたが眠っているのを他者が見て、
「あなたはずっとそこにいたし、眠っている間に7時間は経ったよ。もう朝の五時だ。」

といっても、それはあなたの外側の他者から見た観察であって、
熟睡、夢見を経験している最中の<わたし>・・には、
時間も空間もない!

多くの人が目覚めている間の共通世界では、
決められた場所があり。所定の時間が経過する(約束)・・だが、
そうでない意識状態、眠りや夢見の間には、
「時間・空間」が存在しないか、その自由度が格段に拡大している。

・・・
話はそれるが、
時間空間は絶対的なものではない!というのは、
アインシュタインの相対性理論の説明と似ている。
相対性理論では、時間も空間も相互に伸びたり縮んだりする、
”物理的”観測事実を数式であらわしたものに過ぎない。

しかしながら、当時は・・観測者、観察者要素・・が不在であった。
同時代に量子論で現れた「観察者効果」・・意識効果は、
4次元時空から5次元への新たな次元軸であったが、
物欲利害関係者によって強制無視されたようだ。(笑)
せっかくの方向が、ここでねじ曲げられたともいえよう。

もっと話がそれるが、(笑)
物質偏重文明路線を執拗に進む者たちは、その先々がある程度予見されるのだ。
例えば「エノック予言」などのまともな?予言などみれば、
そこに平均集合意識の未来に関する信ぴょう性が生じることになる。

物質繁栄にこだわるだけで、自然なる意識の進化を拒絶するならば、
その想念の種が、良くも悪くもどんなふうに開花するのか、
大枠はわかることになるのである。
気付いているだろうか?

・・・
意識から観ると、
熟睡中は、時間も空間も世界も存在していない。
また夢見は、日常現実とされる時間空間に制限されていない。
実は、そういうことなのだ。
気付いていた?

変な人物登場や、知らない場面設定や、日常とは全く異なる世界にいるような夢も、
それが日常とは時間空間設定が全く異なる世界の<認識>である事を示している。
我々は、それを、夢と名付けている。

夢がどこかおぼろげなのは、
”日常の現実”に、我々の意識が固定しているからだ。
意識の感受する周波数帯域が違うために、情報抜けになること、
さらに様々な想念形がそれに重畳されるためである。

悪夢を見て、必死に逃げたのは・・・誰だろうか?(笑)
それは、つねに真剣な<わたし>である。

そのとき、それが夢だと知っていれば、
冷や汗出して必死に逃げ回ることもないはずだ。
口角泡を飛ばして、夢の中の登場人物を攻撃する必要もないだろう。

つまり意識が知覚するものは、すべて「経験」なのである。

意識は、どれが現実なのか、夢なのか判断しない。
だからこの世界も1つの夢なのだ。

物質でなく、意識の視点から観ると、そういう事になるが、
それは、つまり、わたしが物なのか、意識なのかという、
自己認識の違いとも言えるのだ。

存在するのは・・身体でも、時間空間でもなく、想念でもない、
それを言うならば「意識」なのである。
そこから身体、時空間の知覚のすべてが生じている。

物理好きの科学者が、
宇宙空間、天体、惑星という観察対象を調べているとしても、
それも、意識の中の出来事の観察に過ぎない。
そして真のわたしたちは、その中の1つの塊ではなく、
すべてを観察するところの・・意識である。

そしてわれわれの個別の意識は、宇宙意識の中にあり、
またそれは個別でありながら、すべて<ひとつ>なのだ。

意識は常在、死も生もなく、時空間を超えて・・
わたしは・・わたしで・・在る・・!
I AM THAT・・I AM.