気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

アセンションとは?(1)

2008-12-28 14:41:09 | 宇宙的気付き

今回は、アセンションについての考察です。これはいったいぜんたい何なんでしょうか。また、今、人類のどの程度の人々が「アセンション」?という概念に気づいているでしょうか。アセンド・上昇・昇天・次元上昇・シフト・転移?などという意味が含まれているようです。もう既にそれなりに理解されておられる人々も多いと思いますが、あえて四角い部屋を丸く掃くような洗い出しをしてみようと思います。(笑)

色々な側面があるようです。1つ1つ見てゆくのもいいかもしれません。

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1、それは、単に現われては消える、スピリチュアル系の流行語でしょうか。

 スピリチュアル系のサイトや書籍などで近年アセンションという言葉が流れてくるようになっています。自分もこの「外来語」には数年前にインターネット等で接することになりました。さすがにコンピュータによる世界ネットです、あらゆる情報があっという間に広がる様子は20世紀以前では考えられなかったことです。しかし、アセンションという言葉、これが一体何を意味しているのか?ご覧の方々はどういうふうにお考えでしょうか。

2、それは、どこか不遇をかこつ人々の、便利な現実逃避のためのイメージでしょうか

 現代社会は競争社会とも言われ、自由 即 競争という本来なら理解不能のコンセンサスで動いているようです。まず人より勝る事に意味を見出すこと、人に勝って獲得する物資、名誉、権勢などを目的に生きている人々は多いでしょう。その中で、競争のラインにも立てないと阻害されている人々、また、他人を排除することがどうしても出来ない人々は、別の価値観に引き付けられることもままあるかも知れません。多くの場合、古くからのパターンのように、幸せに満ちた世界を創ってくれる「救世主」的他者に、自分達の希望の焦点を持ってゆきます。これらの人々は、決して他者に迷惑をかけないこころを持った優しい人々でしょうが、現実をしっかり観察する行為や真なる己を見出す努力に、少し欠けたものが感じられるかもしれません。

3、それは、美しさに満ちた世界に転生したい「あこがれ希望症候群」?のようなものでしょうか。

 この地上では、本意に沿った表現が出来ない、うまく行かない、こんなはずではなかったという感覚を持った存在がいたとしたら、現実のこの地上のありさまは、信じられないほど稚拙で粗いものに感じるかもしれません。人生が魂レベルの体験学習ということを、どこかで知っている存在の場合には、あまりにも自分の外に展開する世界が、本来から外れたもののように感じてしまうでしょう。もっと素晴らしい世界があるにも関わらず、こんな歪な荒くれ者の多い世界はあり得ないと感じるのでしょうか。いわゆるワンダラーの感じるビックリ仰天さと、そういう存在達の、以前の魂の体験とのギャップを表したものかも知れません。

4、それは、かつて歴史の節目にいつも現われる「大混乱」の予言でしょうか。

 有史からこの地球上で勃興してきた諸文明は、文化の醸成、円熟、爛熟を経て腐敗が進み、内部からの崩壊を招いてきました。またそれに付随するように必ずと言って良いほど、その文明の外部環境の変化、つまり他国との戦争、異民族の勃興、気象の激変、食糧難などという加速要素が同時に現われてきます。 確かに、今はこのような条件が整いつつあるようです。

5、それは、経済社会の信じられない「崩壊」を示すものでしょうか。

 1例として昨今の経済大変動はその前触れと感じる方々も居られるはずです。確かに今までにはあり得ないほどの経済社会の、一種のカタストロフィー現象が起き始めています。今回は一時的リセッション(景気後退・不況)ではなく、世界全体、同時の、本質的な崩壊と再生のフェーズであるのは間違いないところです。

 風説では数京円規模のデリバティブ商品群が経済社会をくもの巣のように覆っているらしく、経済活動が昨今のように収縮してゆく過程で、必ずそれらの信用構造が崩壊してゆかざるを得ないでしょう。お金をベースにした、信用・契約という利益抽出システムが、行き着くところまで行ったのです。少なく見積もっても、日本の国家予算の10倍以上の規模の「貨幣価値」が失われており、何も無かったではすまされないのが、その貨幣を元にした信用・契約構造の本質です。

6、それは、今まで謳歌した資本主義の「変革」の暗示なのでしょうか。

 経済資本主義、その根底にあるものは、自由な個人の契約、約束という仕組みです。しかしながら契約は一種の「縛り」でもあり、現在進行中の経済の崩落現象は、その契約というおのれ自身の縛りで身動きが取れず、ひび割れて、崩壊してゆく状態を示しているようです。契約で縛りすぎた挙句、自己破壊してゆくような感じです。契約量の多さは数京円とも言われる金融デリバティブをはじめとする商品群であり、それらは成長のみを前提とした仮想の契約であり、ハイリスク・ハイリターンと言われてきたものです。

 ハイリターンは既に何処かに露と消えており、後はハイリスクのみが残され、その処理に追われているのが現状ですが、この約束・契約は多分に「反故」になるしかないと思われます。 すなわち契約を履行することを前提とした信用構造は瓦解せざるを得ないということです。

7、 それは、物質文明が変質し、これから再び「自然」の生活に戻ることなのでしょうか。

 少なくともお金持ちが偉いとか、セレブが理想とか、ハイソの暮らしだとか、権威だとか、そのような思わせぶりだけで中身の無い虚栄は消えて行かざるをえないでしょう。真剣に生きるという事が富と権威の集積であるという観念が支配した時代は終るでしょう。生きる為には食わなければならないという身体レベルのみの活動からシフトし、こころの働きに気づく人々が多数をしめるような社会となりそうです。完全なる自由意思の中にある無限性と、究極の自己責任を感じ始める時代でしょう。物質偏重は役に立たないことがやっとわかった時代です。

今まで押さえに抑えてきた自然の自己治癒力の膨大な開放があるでしょう。 

8、それは、これから起きるであろう転変地異に順応させる為の、「洗脳宣伝」でしょうか。

 地球温暖化というメッセージは、二酸化炭素CO2 というものに元凶をもとめるものではありますが、自然環境の変化に目敏く気づいた、権威筋、支配層からの変動の予告とも感ぜられます。また科学技術を自由に利用できる支配層は、地球内のみでなく、宇宙を含む何かの変動を察知したのでしょう。宇宙開発等が前世紀のある時期から急に水面下に隠れるような状況があり、文字通り、何かの「不都合な真実」を目の当たりにしたのでしょう。

 先頭きって物質文明を進めたところ、その「「不都合な真実」に気づき、後から後から地球からの搾取のうまみを得ようとする後発の国々に対して、「おーい、お前らもうダメだ、この先は崖がある、引き返せ~!」というある種の悲鳴のような指示のことかも知れません。しかし、本当の事を言ってしまえば、世界がひっくり返る為、CO2にイメージを固定しようとしたのでしょうが、間に合う訳はなく、事ここに至ったようです。

9、 それは、人類文明の明らかな転換のしるしでしょうか。

 近来の地球上の色々な要素がそろって指数関数的に上昇しています。地球上に住む人間の数の指数関数的な増大は人口曲線でも見ることができます。また交通や通信技術の進展もあり、人間の意識する範囲が地球規模になってきています。インターネット等では地球の裏側の情報もすぐに見ることができます。情報量はまさにニューロンネットワークの生長のような指数関数的な増大を示しています。

10、それは、人類集合意識の進化の節目のことでしょうか。

 惑星生命圏のもっとも高位にあると言われる人間は、気づく気づかないに関わらず膨大な想念波動を発しています。眼に見えないからと言って、思いや感情を実態のないものだと考えている人々も、未だ相当数存在していますが、それは絶大なる潜在エネルギーのすぐそばにいて、何も気づかない、何も聞こえないようなものです。人間の人間たるところは、チョッとした頭脳の働きと蓄積でだけではなく、その身体、こころ、魂の振動による意識活動全般にあるのです。

 それらの人間の眼に見える、また眼に見えない意識活動があるレベルまで一気に駆け上がったかも知れません。多様化や分裂、分化を体現してきたこの文明が、ある一定の飽和状態に来ているような気がします。

11、 地球という惑星意識(ガイア)の進化でしょうか。

 人々は、意識があるのは人間だけだと思っているでしょう。なにせ、考えること、感じることは人間以外に出来ないと感じています。意識は動物にも多少在るかな・程度の理解かもしれません。想念・イメージは確かに人類の専売特許のようですが、それは意識の全てではありません。例えていえば、TV発信塔からの電波を受信するのはTVをもっている家庭ですが、その単に1チャンネル分の映像と音声を、全てだと勘違いするようなものでしょう。鉱物、植物、動物などもそれなりの受信機能をもっているがゆえに、この地上に存在しています。存在していると言うこと自体が、大いなる地球というガイア意識波動の賜物なのです。存在していること自体が「意識」の現れということです。

 人類の様々な思い、感情は有史以来この地球フィールドに記憶されてきました。膨大な意識活動のある一定レベルの飽和点に来たのかもしれません。例えば、水に熱エネルギーを蓄積するとある飽和点からあっという間に水蒸気に変移するようなものでしょうか。特に、人類の意識が「核」にアクセスした時代であり、連鎖反応による周辺時空の破壊の可能性がそこにあります。いわば3次元といわれる認識レベルの、崖っぷちにいるようでもあります。母なる地球も意識であれば、ここがジャンプの時であると感じているでしょう。このまま進むには、崖から落ちないように、思い切って向こう側にジャンプすることしかありません。

12、 それは地球生命学園ともいえるカテゴリー内のいわば卒業式でしょうか。

 まさに天地の移動とは、全てが遷移することかも知れません。そうであれば、人類にとっては通ってきた学校自体が変るようなものであり、そのまま居残りできる教室がなくなることを意味します。進級か転校かの判断をすることになるかも知れません。

 大いなる存在の1つの体現であるこの地球意識も、主役たる人類たちの、「泣き・笑い」を内包した、その驚くべき「愚かさと騒ぎの繰り返し」の中にある、それでも確かな生長の姿を、確認したのかも知れません。

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 螺旋(らせん)は繰り返しながらも必ず前に進んでゆくパターンを持っています。歴史も、毎日の生活も、睡眠と就寝も、生と死も、銀河系から見た太陽軌道も、地球の公転軌道も、自転の軌跡も、そうして原子核も、電子も「渦」と「らせん」という形態をもっています。繰り返しながらも、一瞬一瞬が変化してゆくこと、その一見同じように見える、その繰り返し自体が、先に進む原動力そのものであるということがわかります。

螺旋であるがゆえにこそ、周回と周回の軌跡、サイクルとサイクルの間には必ずギャップ、空(くう)があります。それが、空(くう)であるからこそ無限であり、愛と光が溢れてくるところであり、あなたやわたし達すべての生命の根源です。

究極に近い言葉でいえば、我々は愛と光である、と言うしかないのです。

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 Nature1011 

 今年ももうすぐ大晦日ですね。皆様お疲れ様です。

 本日も拙い記事をご覧頂きまして誠にありがとうございます。


悟りのプロセス(5) たった今、この瞬間

2008-12-21 11:02:07 | 偉大なる先達の言葉

 何かここしばらく同じ記事を書いているようですが、まさにそのとおりかも知れません。しかしながら、その時その時に本当に大切なことは、それ程多いわけではないようです。多様性に満ち溢れ、情報や物資が有り余った時代はもう過ぎようとしているようです。今の段階に必要なことは、本質に気づくことでしょう。我々自身が転びながら、躓きながらも、少しづつ灯りのあるほうに歩いてきたのだと思われます。

 現在の経済社会の一見すると嘘のような崩落は、多様性と分析、物質と仮想の名誉が1つの真剣なお芝居であったという事の現われでしょうか。

 我々は人生というかけがえのないお芝居のなかの、それぞれが役者であり、主人公であったということを、いま思い出すべき時ではないかと思います。役者兼シナリオライターでもあることを、思い出してよい時期なのではないでしょうか。芝居の中に繋がれた哀れな子羊役はもう終わりでしょう。

 想念や感情を自分で見ると言うことは、行為・発信している内容に責任を持つと言うことであり、またその想念や感情を味わいこそすれ、決して振り回されない絶対安心を得ることでもあります。大勢の我々が求めていた「幸せ」というものは、この「絶対安心」であったろうと思います。それは外界や他人の意図や振舞の内にあるのではなく、自分自身にあるという、最も単純な真理に、やっとの事で気づく瞬間なのです。

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エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修  より

問い 逆立ちしたって、「いま」自由になんてなれませんよ。わたしは、あいにく人生の嵐にうちのめされているところなんです。これはうそ、いつわりのない事実です。なにもかもが、めちゃくちゃなのに、万事オーケーだと?、自分に言い聞かせるなんて、自己欺瞞もいいとこです!

わたしにとって、「いま」はどん底なんです。さとりなんてひらけるわけがありません!せめともの救いはこの先いくらかは見通しが明るくなるだろうという、未来への希望だけなんです。

答え あなたは、自分が意識を「いま」に集中させている、と思いこんでいるようですが、実際は、まだ時間にとらわれています。わたしたちは、完全に「いまに在り」同時に不幸でいられることなど出来ません。

 あなたが人生と呼んでいるものは、厳密に言うと「人生の状況」なのです。それは「過去」と「未来」という、心理的時間の中に存在しています。過去にあなたの思いどおりにいかなかった出来事が、ありました。あなたはその出来事に抵抗し、「すでにそうであるもの」に、いま目を、そむけています。

希望は、たしかにあなたを前に進ませるかもしれませんが、あなたの意識を「未来」に釘付けにしてしまいます。未来に焦点を当てつづけると、「いま」への拒絶もつづき、従って不幸も永久になくなりません。

問い  わたしが苦しんでいるのは、過去の出来事がつくった「人生の状況」によるものだということは認めますが、それでも、いまの状況であることに変わりはありません!しかもそれが自分をがんじがらめにしていることが、なによりも不幸の原因なんです!

答え 「人生の状況」のことは、ちょっと忘れて、「人生そのもの」に目を向けてみては、いかがですか?

問い  いったいどこが違うんですか?!・・・

答え 「人生の状況」は、時間の中に存在します。

あなたの人生は、「いま」です。

「人生の状況」 は 「思考の産物です」

あなたの人生は「現実」です。

「人生にいたる狭き門」を見つけましょう。それは「いま」という名前です。あなたの人生を、「いまこの瞬間に」狭めるのです。

あなたの「人生の状況」は問題だらけかもしれません。(ほとんどの人の「人生の状況」がそうなのですから)。 

でも、「いま、この瞬間」に、なにか問題がありますか?

明日ではなく、十分後でもなく、たった、「いま」です。

なにか「いま」問題がありますか?

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思考が問題にまみれている時には、アイデアやひらめきがはいりこんでくる余地もありません。ですから、できるかぎり、自分の内面に、ある程度はスペースをつくるようにしましょう。そうすると、さまざまなごたごたの根底にある人生が見えてくるものです。

-------------------以上抜粋 

 Nature1013  

本日もご覧頂きまして誠にありがとうございました。 

 

 

 

        


悟りのプロセス(4) そのままなり

2008-12-13 12:41:08 | 偉大なる先達の言葉

●難しいから悟りなのか?

 「悟り」という言葉には、何か高尚で手の届かないイメージがあるようです。それは「悟り」という言葉と、歴史上の先達の神々しいといわれる程の伝説や、記憶を垣間見ることで得られる、おのれとの圧倒的な意識ギャップを感じるからでしょう。凡人には到底、あのようなありようは不可能であり、あのような艱難辛苦も解脱も出来るはずもない、それが出来るのは、彼らが特別な魂であるからこそである。・・と、思っているものです。

●苦難をすでに越えている我々

 しかし艱難辛苦は我々のほうが多いかもしれないと考えた事はあるでしょうか。いまのこの地上に生きていることが、あなたやわたしにとって、決して理想の状態であるとは思っていないはずです。物質が豊富か少ないかは別にして、幸せを請い求めている状態、すなわち多なり少なりの困難と不安を感じる世界に生きているのではないでしょうか。この世界にあるということは、多くの意識存在にとって、すでに試練の場にあるといっても間違いとは言えないでしょう。うかうか出来ない油断のならない世界、決して楽しい・嬉しいことばかりではない世界に生きていると、誰しも感じているのではないかと思います。我々皆、今ここにいると言うことは、経るべき苦楽をすでに経験した魂である証拠ではないかと思います。

●違わない本質

 悟りを開いたといわれる、覚醒したといわれる存在達の魂が、特別であり、我々とは違うのだというのは一体どうして解るのでしょうか。ブッダやキリスト、ムハンマド、荘子、日蓮、ヨハネ、マルクス・アウレリウス、道元、空也・・・歴史に残る数々の先達は、我々と違う存在なのでしょうか。実は、そんなことはないことは、潜在意識ではすでに皆知っているはずなのです。

 では彼らと我々の違いは何でしょうか。確かにここが問題でもあります。一体何が違うのでしょうか。確かに簡単な問題ではないのですが、実は、この難題の原因は、外の何者か、あるいは社会の制度、他人の有り様にあるわけは無く、まさに自分自身にある事も、すでに解っているはずなのです。違いを作り出しているのは、結局は自分自身の観念でしかないのです。

 「到底あり得ない」「とんでもないこと」と肩をすくめ、意識的にあるいは無意識的にその「違い」をわざわざ設けている自分達に気づけるでしょうか。民主的だという今の世の中にいる人々がよく言う、「人間、皆同じだよ」という言葉は、これには適用しないのでしょうか。人間に例外や区別があるものでしょうか。

 偉大と言われる魂達と、そうでないと思っている魂達との違いは、まさに、その違いを設けていないか、違いを設けているかの違いでしかないのではないでしょうか。ひょっとして、後世の難しそうな教義や体系は、その違いを、ことさらにうず高く積み上げたあげく、結局はその輝きを見えなくさせているような迷路になってしまったのかも知れません。元々そこにあるものが、単純な真理が、もっとも難しく、分けがわからないものとなっているのかも知れないと考えた事はあるでしょうか。確かに、末法の世とはそのようなものかも知れません。

●本質は、量で計るものではない

 価値あるものは、その分難しいものであるという・・思考がいつもそこにあるでしょう。気がつくかも知れないことですが、大きな物量はそれだけ重いものだという、物理世界の観念が、全てにおいて当たり前のことのように染み渡っているようでありす。我々は不完全であるがゆえに、完全を求めて流離い、獲得して行くことで充実していくものだという考え方でもあります。 不完全な人間であるからこそ、努力して完全になってゆかなければならないのだ、という常識的な見解は、どの様な人にとっても大きな違和感はないと思います。

●不完全という誤謬遊び

 不完全なものはないということを理解出来るでしょうか。あどけない子供達は不完全でしょうか、知識がないことが不完全で、未完成なのでしょうか。年寄り達は子供達より知識や経験がありますが、それは完全に近づいているという証拠なのでしょうか。身近にいる動物達は不完全なのでしょうか。人間になれない可愛そうな生命なのでしょうか。道端に咲いている黄色や赤の草花は、人間の家の庭に咲いていない哀れな自然種なのでしょうか。太陽は不完全に燃えているのでしょうか。大気は、不満だらけで雨を降らせているのでしょうか。

 我々の身の周りにあるもの、そこにあるものが、不完全で、未到達で、未完成であると一体誰がそう思うのでしょうか。世界が苦渋に満ちたもの、常に理想へと改善されるべき未完成のものであると思うのは一体どうしてでしょうか。

●観えるのは自分の投影画

 それは、我々自身が我々自身をそう観ているからに他なりません。常に改善されるべきなのは、外の世界ではなく自分自身なのであるということに気づくことが、そんなに大それた事ではないでしょう。我々の外と感じている感覚世界は、我々の鏡と考えて良いでしょう。我々の心持ち次第でどの様にも変る世界であることに気づくべきであると言うことこそ、偉大なる先輩達の繰り返し繰り返し言ってきたことだと思えないでしょうか。

 ただ、世界が自分の都合の良いように現象として変るのか?と考えるのは、これまたエゴイスティックなご都合主義でしょう。あなたやわたし達のいわゆるエゴ的な希望をホイホイ叶えてくれるような変わり方ではありません。今までとなんら変らない世界を見る、わたし達の目が変わる事であり、その結果、ビックリするほど様変わりする風景に接する事になるのです。

●世界はすでに理想として在るもの  

 世界が変ってくれて、そうして我々がそれを享受するのだ・・という他人任せの思考、自立していない依存思考は、それこそが克服すべき事でもあります。非常に微妙なところでありますが、自分が変らなければ決して自分のいる世界は変らないのが真実です。

 理想を求めるこころや行為は、それすなわち、理想がいつも求める先のその向こうに、あることを意味します。決して得られない先に・・・。理想は今ここにあるものです。ことさら悩んだり、空想したり、苦しんだりせずとも、今ここにあることが理解出来るでしょうか。我々の生きて在る世界は、そのまま「大いなる存在」の創り続ける世界であり、様々に変化しつづけるかつ完全な世界です。その一部である我々は大いなる存在自身でもあり、そうであればこそ、小我を静めて今在る世界を、そのままに、まともに見ることが出来て初めて、理想を発見することになるのです。

●内と外のパラドクス

 この大いなるパラドックスこそ、今の我々の試練とも言うべきものであり、尤もらしい苦労の為の苦労や栄耀栄華は、それ自身そのための試練ではないことを知らせるためのものであるわけです。

 今ある現実こそ、我々のもっとも相応しい鏡像であり、そこに悲しみや苦しみ、虚栄や逃避を見るのであれば、我々自身を振り返るべきであることにどうしても気づかざるを得ません。 どうしても最後に残る難題は、自分自身なのでしょう。自分の難題であれば、自分次第でこそ解す事のできる問題ということであり、そんなに難しいものではないのです。

 問題を創るのは自分であれば、問題を思い切って創らなくするのも自分であります。問題を創るのが楽しい場合は永遠といえる時間の間、それを作り続けることも出来るし、問題を創らないことも出来るわけです。我々がカルマや因縁などと言っている原因になりそうな、様々な問題・トラブルなどの経験は、大いなる生命の中でのほんの寡少な経験であることは知っておくべきでしょう。

 自分が変れば、まさにそれに丁度相応しく周りが変ることが、創造の基本パターンであり、その都度そのままその時の理想でもあると考えるのが、合理的と思えないでしょうか。

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今、不幸だと思っているのならば、今生きて在る、当たり前の幸せを感じましょうか?

   幸せは、ハッキリと心の状態以外のなにものでもありませんから。 

今、孤独と感じているならば、目の前の大勢の仲間や世界をよく見ましょうか?

   皆同じ仲間であり、無限の向こうにいるあなた自身でもありますから。

今、不本意だと感じているならば、目の前の越えるべき教訓を掴みましょうか?

   後で振り返ればいつも良かった・と思うのが教訓ですから。

今、不安だと感じているならば、世界が今日も明日もあることに安心しましょうか?

   あなたの不安は決して誰かが消し去ってくれることはありませんから。

今、地球が心配ならば、しっかり残されている美しい自然に心から感謝しましょうか?

   わたし達の「身体」は、美しい地球の「身体」からの一時期の借り物なのですから。

今、欠乏していると感じているならば、自然にある途方もない豊かさを見ましょうか?

   但し、ポケットには入らない多種多様・無限大の豊かさですが。

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「悟り」は今在ることをそのまま受け入れることであり、無軌道な思考や感情の創り出す心の状態でも、巨万の富で安心する状態でもありません。

「今在ること自体が悟り」の境地であることは、言葉では表し様がないかもかも知れません。そのままであり、どうもこうもない?当たり前の、「今」の「瞬間」ということです。無限に在ることができるのは「今」をおいて他に有るでしょうか? いえいえ、とうてい議論の余地などあり得ないでしょう。

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ソー・ビー・イット  (ラムサ)

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レット・イット・ビー  (ビートルズ)

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わたしを信じてほしい

あるがままのあなたとして在ること、それ以外何も必要ないのだ。

あなたが獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。

それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているようなものだ。

あなたの本質にとって異質なものを除去し、浄化し、放棄することで十分だ。

それ以外の全ては無駄なのだ。   (マハラジ)

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それはまさに、それであり、今、全てが在る。

    

Nature1008

     

 いつもながら、拙い記事をご覧頂きまして、誠ににありがとうございました。


悟りのプロセス(3) 「今在る」真実

2008-12-07 09:06:59 | 偉大なる先達の言葉

●色即是空

 形ある物は空(くう)に消え、また空から様々な形が現われる。これは我々をとりまく現象世界の根本的な仕組みを言ったものです。諸行無常も同じです。全ては変化変遷(色)するものであり、そのためのあらゆる可能性を育むものが空(くう)である、ということでしょう。眼に見えないからこそ、眼に見えるものに転化顕現できるわけであり、可能性は無限であるからこそ、変化し続けるということです 。

●空の無限想起

 人々はいつも目先の現象にこだわり、肉体維持のため、いつも何かを確保し、溜め込んでいくようです。そのように、目先の基盤であるおのれの肉体を維持しようと悪戦苦闘ののち、真実を知った時には、せっかくの努力が結局、露と消えるものであったと落胆するような感覚も出てくるものです。諸行無常、全てははかないものだ・・・などと感じるものでしょう。

 しかしながら、消え去るものは、あくまでも形、物、風評等でしかないのです。意識作用自体、また意識的成長自体は決して消える事はなく、形を現すための空(くう)に記憶されます。記憶と言っても量的追加ではなく、無限にあるものの中の「想起」ともいえるものです。空(くう)は常に全ての可能性を含んでいるからです。結果は無常であり変化し続けるが、原因自体は不変ということに気づけるかもしれません。

●函数と変数、不変と変化の諸相

数学的なアナロジーでこじ付け風に言えば、「変数」は変り続けるが、「函数」自体は変らないようなものです。例えば極めて簡単な例ですが、y=f(x)という函数を眺めれば、 

f(x)の、変数 x は様々に変るのに、函数自体 f( )は常に変らざるものです。

f( )の( )は空(くう)である必要があるでしょう。

f は法則、 x は変化する意識、 f(x)は、その時々に生起する意識作用を現し、y=f(x) は、生成変化する様々な諸現象をあらわします。

●諸行無常

 たとえば、あの西行法師の、ぼろぼろの法衣と、諸国行脚の姿絵を見たことがあるかもしれません。詠み残された歌をとおして、世界はなんてはかなく無常なものであると、思ったこともあるかもしれません。それからは、確かに昔も今もある、変らぬ現実の、一見確たる世界や生活が、実ははかなく消え行くものだという「無常観」を感じさせ、その時そのことが理解できる者にとっては、どうしようもない逃げられない真実として受け止められるようです。

 1つの悟りに接すると同時に、せつなさと哀れみをも感じさせるかもしれません。胸の辺りにかすかなうずきを感じながら、「悲しいけれど、これが真実であろう・・・」という感覚を持つかもしれません。

●無常観は本質の自己の目覚め

 無常観というのは、現実の世界に浸り、様々な経験と思いの変遷を繰り返した挙句、なるほどそうなのかという、ある種の「悟り」に至った人の意識状態を現しています。生まれてから、外界に精一杯伸ばし続けた意識、何かを求め続ける切なる五感感覚の先には、実のところ、決して希望や理想や幸せは見い出せないのだ・ということに、否応なく気づく瞬間が誰にも訪れるものです。その時感じるのが「無常観」だと思われます。

 そのときには、あたかもすべてが崩壊するような感慨に襲われるかもしれません。まさに砂上の楼閣が壊れるような、そんな切なさを感じるものでしょう。それは、無意識に張り巡らせ、求めに求めた、意識の放射が、外から内に回帰する、そんな質的転換をも示しています。その瞬間は、走馬灯のように一瞬で回顧するような、瞬間的な「悟り」となって立ち現れます。追い求めていた物や形や名誉、権威等ではなく、実は我々の生きることで得られる体験自体が、最も大切な財産であったのだと、真に理解出来る瞬間でもあるのでしょう。

●「いま」内なる真実を観る時

 外から内への劇的な変換の瞬間であり、内なる魂への帰還と言ってもいいかもしれません。吐く息から、吸う息に戻るような、そのような瞬間でもあるのです。 自己をとり巻く世界は、自己の鏡であるということに気づく瞬間でもあります。まさに鏡が鏡であると気付く瞬間です。見るべきは鏡ですが、本質は鏡の中にはないことは明白です。外の世界はホログラムであるということと同じ意味をもっています。

●生と死は、単に表と裏

 我々はとりあえず生きながらえる為に、出来る範囲であらゆる努力をしています。お金も株も地位も、権力も、能力も知識も、生きる為の「ツール」と認識しており、その獲得の為のあらゆる努力を惜しまぬ姿勢は、あなたもわたしも同じなのではないでしょうか。人々にとってもっとも忌み嫌うもの、それは、「死」というものでしょう。これを回避すべく努力することで、科学や技術、医療、そして政治や陰謀などが起きていると言ったとしても、あながち見当違いとは言えないのではないでしょうか。

 しかしながら、それら形あるものを、否応なく、全て手放すことになるのが、死というプロセスなのです。

 悟りの瞬間は、まさに人間の死と同じようであり、1つのハードルを乗り越える瞬間に他なりません。世間でいう死、それは顕在意識によるものではなく、潜在意識及び肉体の要求にもとづく、肉体の自己消滅を現し、まさに「色」から「空」への変化です。しかしながら、近視眼的な捉え方は本質を見逃してしまうかも知れません。死は、世間で言うような怖くていやな現象、すぐに忘れてしまいたいものではなく、無限に大きな生命システムに基づいた壮大な仕組みでもあり、たとえ無意識であったとしても、本来の自分に戻るための、いわば自動仕掛けの恩寵の仕組みでもあるのです。

●生と死の「観念」を捨てる

 本来悟りは、生きてありながら生と死のハードルを乗り越えることであり、「生と死の観念」の衣を脱ぎ捨てることと言えるでしょう。全ての執着を捨て去り身軽になったことで、結果、自然にハードルを越えることでもあり、その飛び越える自分自身を発見して驚くことであるかも知れません。肉体に有る楽しみ、苦しみ、また絶頂と地獄の感情起伏、絢爛豪華な、はたまた苦渋と忍耐の体験の数々、集団無意識という厚いベールの下で生きる重い経験、そのような波乱万丈の生体験の繰り返しの中にありながらも、その度にいつもいつも自分自身に戻ることができるのは、まさに死というプロセスのおかげです。あたかも、お役を演じていた様々な芝居の舞台から、本来の役者である自分に戻ることが出来る瞬間です。本来の記憶を取り戻す瞬間ともいえるでしょうか。

●捨てて得られる「永遠の今」 

 本来我々の持てるものは何も無いということは、すなわち全てをもっているということでもあるということに気付けるでしょうか? 我々が全ての可能性を含む「空」であればこそ、千変万化する世界で遊べるのかもしれません。捨ててしまえば何も無くなる!という恐れは全く意味がないでしょう。なぜなら、執着を捨て去るということは、恐怖をも捨て去るということなのです。「恐怖」が捨て去られたあとに、一体全体、果たして「恐怖」する事があり得るでしょうか

●今わたしは在る

 自分にあるものはまさに「今」の自分だけという、あたりまえの原則に戻るときには、過去という記憶の中にある様々な思いが立ち現れ、全てが懐かしさ、ありがたさとなってしっかりと魂に記録されるものです。全てが「わたし」のためにある、これ以上の愛を思いつくことが出来ません。

「今」しかないという事実に気づけば、過去の生誕も、未来の死も、本質ではないことがわかるかもしれません。

「今・わ・た・し・は・在・る」 ことは、・・即ち、変化しながらも、永遠に「今わたしは在り続ける」 ことを明確に示しています。これが本質であり、また「あなた」が今、存在していなければ、世界も存在などしていないのだ、ということを示しています。

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エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修

問い そんなこと言ったって、時間の概念なしに、どうやってこの世界に生活していけるんですか?未来がなければ、目標に向かって努力することがなくなります。過去がなければ、自分が誰かもわからないじゃないですか。 過去があるからこそ、今の私があるんです。人間にとって「時間」はすごく貴重なものですよ!

答え  時間は、ちっとも貴重ではありません。時間は幻だからです。あなたが貴重だと感じているものは、実は時間ではなく、時間を越えた「ある一点」、すなわち、「あるひとつの時」ですそれは、「いま」です。「いま」こそが、ほんとうにかけがえのないものです。時間に、つまり「過去と未来に」焦点を当てるほど、もっとも貴い「いま」を見失ってしまいます。なぜ?、「いま」が一番貴いのでしょう?答えは至極簡単。それが「唯一のもの」だからです。存在するのは、それだけです。永遠の「いま」こそが、わたしたちの人生の全てがくり広げられ、内包された空間であり、唯一の現実です。「いま、この瞬間」が人生なのです。人生は「いま」です。わたしたちの人生が、「いま」でなかった時など、これまでもありませんでしたし、未来永劫ありません。わたしたちを、思考の世界から超えさせてくれるのは、「いま」というときだけです。「いま」だけが、時間とかたちのない「大いなる存在」につながれる唯一の時です。

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大いなる存在というのは、あなた自身でもあり、またさらに大きな存在です。あなたも他の人も、石も、水も、山も、風も・・あらゆるものは、大いなる存在の無限の在り方を現しています。

Saigyou12  

本日も拙い記事をご覧頂きましてまことにありがとうございました。