気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悩みの脱落

2010-05-23 10:24:56 | 心の力学

●悩みはいつも人に関わるもの

人間はいつも何かに大なり小なり悩んでいるのだろう。その悩みのほとんどは「人間関係」から来ていることは知っているだろうか。この際明確にいえることは、人間の「悩み」は大方「人間」から来ているということなのだ。

青い空や雲や海や、野に咲く花や道端の石ころが原因で、・・一体誰が悩むだろうか。

いや・・、例えば地球のこと、生態系のことに悩んでいる・・という人もいるだろうが、これはやはりそのように悩んでしまうような生態系にしてしまう人間に対する悩みであるということなのだ。

人間の悩みの全ては「人間」から来ているのだ。

 

●悩みは他者への期待からくる

あるいは、「いやいや、わたしの悩みはお金なんだ。ローン返済で苦しい生活に悩んでいるのだ。」という人もいるだろうが、お金の貸し借りや生活に関する苦しい事情に関しても、その悩みは当事者が作り、当事者が感じるものであることに違いはない。

人と人の間の、信用と責任に重圧を感じているということであり、問題はそもそもお金等ではないのだ。

あるいは、「いやいや、私の悩みは国の行く末だ。何とかしなければ、大変なことになる。これが悩みだ。」という人もいるだろうが、社会の流れに不安を感じ、どうしようもない他者の無知さ加減に嫌気が差し、それに憤りや無念さを感じて悩んでいるとしても、それは他者という人間を見ているあなたの悩みであることに違いはない。

あるいは、仕事先や学校などでの、上司や仲間の中で体験する嫌味やいじめや、それらに無理に取り繕う為の重いこころに悩んでいるとしても、それは何か自分以外の宇宙の問題ではなく、人間関係の何がしかの歪からくる悩みであることに違いはない。

悩みはほとんど全て人間関係からくるといってもいいのだ。

その人間関係の歪・悩みの元は他者にある・・と無意識に捉えているからこその悩みであることも自明の理なのだ。

 

○○ が自分の思うように対処してくれない、自分の思うように付き合ってくれない、自分の希望するような評価してくれない、自分が気持ちの良くなる言葉をかけてくれない、自分の期待する態度をしてくれない・・。

○○ とは、ある時は親であり、身近な人であり、社会の人であり、政治家であり、金貸しであり、世界の仕組みと称する「他者」なのだ。

それが人生の「悩み」と称するものなのではないか。自分の悩みとは他者への勝手な「期待」から来るものであるとも言えるだろう。

また、悩みとは他者との比較によって善悪を感じる各人の「こころの癖」によると言っても良いだろう。

 

●悩みは裁きの観念から生じる

それらは全て「相対的」なことであり、人の感じるところによって千差万別に見えたとしても、他人または自分自身へのジャッジ、裁きの観念から来ているのだ。

大なり小なり、他者への「期待はずれ」は他者への裁きのこころとなる。実のところ、賞賛も憎しみも同じ裁きのこころによるものである。価値観や立場や性別や集団や国やイデオロギーの違いによって、賞賛が裁きとなり、憎しみが親愛の情へと変化する。

しかしながら、考えてもみるがいい。

あなたはあなた以外の人間の思考・感情・行動に対する責任を本当に負っているのか?

またあなた以外の他者が、あなたに何か責任を負っているのか?・・と。

我々は、ここまで理解出来る意識的な位置に「今」あるだろうか。自分自身が見える位置にあるだろうか。

我々の多くが、自分のことは帰り観ることもなく、他人へ期待し、彼らから何か良きことを得ようとしている・・そんなこころのトーン・響きはないか?

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●他人とは、鏡に映る「一即多」の原則

それは、不特定他者の集団に沈み込んでいる有様とも言えるだろう。ある意味で、他者への期待は、自らの内面にあるテーマからの逃避なのだ。自ら観るべきものを、他者に投影しているのだ。期待への期待通りの回答など永久に得られるものではないのだ。

それは、鏡に映った自分の姿を見て、あろうことか鏡の方に化粧をさせるようなものだ、鏡に化粧しようと思えば思うほどその姿は動き回り、そんなことは出来るはずもないことがわかるだろう。

 

あなた自体の意識の有り方が変わらなければ、鏡に映った姿は決して変わらない。

わたし自体の意識の有り方が変わらなければ、それを映し出すところの他者や世界も変わらない。

 

●不遇とは恩寵の別の意味

例えば、誰でも体験する、他者の集団から受けたと感じる嫌味や辛い体験も、それを気づかせるための恩寵でありまた教訓なのだ。

外の写し絵たる社会は、決してあなたの期待するものではありません。どうか染まらないで下さい。ここは結果ばかりの世界であり、何かありそうで、実は何もないのです。」・・

といってくれているのだ。

誤解はいつも注意深く避ける必要があるのだが、ある意味で「他者は全く関係がないのだ。」ともいえるだろう。他人が何を言おうと、思おうと、あなたや私たちがそれを「そうだ」と同調しない限り、一切何も問題など生じないのだ。

他者への期待、または執着、その中での様々な階級や見かけの栄華、それら一切捨て去る行為は、決して不道徳でも逃避でもないのだ。なぜなら元々もってはいないからだ。

解脱とは、「本来わたしではない」ものを、「わたしではない・・」と看破する意識であり、執着の糊が綺麗にはがれたこころを持つ人間の、素の有様のことである。

それはこどもごころに似ている。

嗚呼、心悩ますあらゆる観念・・

それらを元々もっていないことに、明らかに気づくだけのことだったのだ。

 

世界がこうも不道徳で不調和で汚れたものに見えるのは、それにどこか波長の合うような「こころの根」が、あなたや私たちにあるということを示しているだけのことである。

例えば、ピカソの絵を見て、それを混乱ととるか、芸術ととるか、ただその違いでもあるだろう。問題は、ピカソの絵・すなわち世界にあるのではなく、それを鑑賞するあなたや私たちのほうにあるのだ。

 

Pica008 (夢:ピカソ)

多くの先達の言葉、「世界に在っても、世界に属してはいけない」という意味は、己の感性と直感を主にするべきであり、不特定他者の観念に自ら支配されてはいけない、無意識の集団の流れに属してはいけない、ということをも言っているようである。

植物、動物の種は集団の意識によって動くものだが、翻って、思考と感性を持つ人間が、自らの思考を停止し、自らの感性を覆い隠した状態での集団化は反吐が出るほどの不調和を作り出すだろう。

 

自らに気づくことが出来る存在、すなわち「意識的意識」を有する存在が、集団で眠った有様は、それぞれの役割を有する自然界の調和に反するあり方でもあるのだ。それは人間の素の有り方ではないのだ。

 

それはある意味で、いわゆる無意識のうちに重いこころを持つがゆえの、いわゆる「意識次元の降下」などともいえるかもしれない。

 

●あなたはなにものか

悩みや不満も、こころの波動の歪を、そのまんま己に現すものでしかない。

憤慨も憎しみも、他者への法外な期待の裏返しでしかない。

不安も怖れも、集団の中の自己保存への焦りでしかないのだ。

 

我々は全て、この生命の海における自由な観客・旅人のようなもの。

我々は、食べられるべき、個別別個のプランクトンでもなく、

獰猛を商売として生きてゆかねばならない鮫でもない。

我々は生命の海たるこの宇宙の、全存在に対する生き証人のようなものであり、

それは・・・、

人としての我々の意識が・・・、

それ「自体に気づく意識」であるからだ。

 

すなわち、わたしは、「わたし」である・・。

 

眼前に見える膨大で無限の宇宙も、そのままが根源意識自体の現す姿であり、

あなたとは・・・、

また根源自らが、

その変わりゆく無限の物語を、楽しみ楽しむことで、

その創造の面白さ、有りがたさを実感する為に、

人間として自己配置した「観客」でもあるのだ。

 

根源のシナリオの作り出す舞台の1つが、この地球という舞台であり、

我々一人一人も、また根源自らがその演技を演じるところの役者である。

我々がそれに気づき参加することで、また更なる楽しみ楽しむ物語が出来上がる。

それをマーヤ(神の綾なす幻想世界)と言えども、

そのマーヤを創り続ける主体は、じつは「あなた」である。

根源とは全てであるからには、どこかの誰か、何か高貴な対象ではない。

神なる根源は、わたしは「わたしである」という、あなたの「意識」のうちにあるのだ。

神なる根源の隠れ場所としては、さすがに、極まって秀逸ではないか。

しかしながら、もうあなたはウスウスでも気づいただろう。

なるほど、自分は自分でしか気づけないものだから・・・ね。

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(クレマチス)

本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


警鐘と向き合う

2009-09-21 20:47:59 | 心の力学

現状を幅広く知覚、認識することではじめて、その中に潜む危険性、すなわちそれぞれの自己にとり不都合な現象生起の可能性等にも気づくことが出来る。

また、その対策を出来うる範囲で、大なり小なり行うことで、その危険性というものが、逆に薄められることになるだろう。これは機械制御でもおなじみのフィードバック機能と同様なプロセスとも言えるだろう。フィードバックした情報は、怖れて脚をすくませる為のものではなく、事前に対処しそれを回避する為のものだ。

常に危険の防止策は、意識的であることと、事前に察知することなのだ。

しかしながら、現実に対する認識が偏ったり、無視されたりする場合には、その危険性すらも感知できないことになる。嫌なものは見たくない聞きたくないという、無意識下での逃げの心理が働いている場合がそうかも知れない。

そうした場合には嫌な厭なものが追っかけで現象化してくる。まさに鬼ごっこのようなものだ。

お互いが他人任せの無意識なあり方であれば、その意識的気づきの欠損、断層、ギャップ自体がまさに「サプライズ」に変換され、個々人にとって予想だにしない驚天動地の現象に遭遇することにもなるのではないかと思える。

確かに、知らなかったからこその驚きであるし、解らないからこその恐怖になるものだ。

言葉を変えていうならば、不都合なものに対する予言なども、事前に騒ぐ事で、いつの間にか、大勢の人の意識がその潜在的な可能性に向けられ、その潜在エネルギーの現象化傾向を一部先取りすることにもなり、逆にその方面での現象化は薄まるのかもしれない。

そうは言っても、我々は平和であってもボケてはいけないのだと思う。ボケると目覚し時計が強制的にでも鳴り響くようなものかも知れない。また、目覚まし時計を憎んでも、それは筋違いというものではないのか。目覚めてしまえばうるさいベルを止めることが出来るのだから。

要は、警鐘や不都合と思われる予言や予知についても、それが、何がしかの情報であることを認識すべきだろう。そんな馬鹿な・・等と根拠無く笑ってみたり、また逆に、全てを鵜呑みにして、恐怖で凍りつくようなことなどは、まさしく現状認識努力からの安易な逃避かもしれないのだ。

要は、まず、実はそれがよく解らないのだと認識すべきであり、次に、自分の知性・感性で判断する以外には妥当な策はないだろう。

一つには何はともあれ、自己で可能な範囲で対処しておくのが当たり前の、いわゆる転ばぬ先の杖というものだ。それで安心が得られるならば、それこそが恐怖からの開放にもつながるものだ。

とはいえ、有象無象の情報の氾濫する世界の中にあっては、認識眼または直観力が必要なことも事実ではある。人々の現実の背後にあるのは、人々の潜在的なこころ、意識作用であると考えれば、例えばジョセリーノ予言等も、有名になるにつれて次第に予言が外れる?ようになることも理解しやすいだろうか。

理屈を言うならば、こういうことかも知れない。

不都合で危機的な予言を事前に知ることで、大勢人々の意識が、否応無くその潜在的な歪みや可能性にアクセスしてしまう為、本来ならば大きいはずの潜在エネルギーギャップに対して干渉することになり、その原因となる潜在エネルギー自体が、どこかで変質してしまうのかもしれない。

一挙に生起するはずの?危機感や恐怖という現象が、部分的に先取り体験され、漏洩してしまうからだとも考えられる。例え現象が起きたとしても、事前にどこか既知であれば、無知と既知の間のギャップからくる驚きや衝撃は少なくなるものだ。

 

隠されたものは現れる。現れたものは消え去ってゆく。

潜在はいつか必ず顕在となり、未知が既知になれば怖れも露と消える定めだ。

おのれの心の影にある怖れは、おのれで引きずり出して、日の光にさらすべき時なのではないのか。

 

 

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予知や予言、警告の恐怖に同調することで、それを増幅してしまうことも有りそうだが、まず、人々がその潜在的な可能性を知ること自体において、原因側の変質が起きるものだと考えられる。

それを増幅するか変質させるか、打ち消すかは、いつもいつも我々の周りの舞台を現すところの、心のパターンによるのだ。逃げずに向き合うこと、驚天動地の現象であっても、またはナチュラルな変化であっても、またはどうということでもなくても、いさぎよく、今の自分の中においてこそ、それに対峙することが、まずもって肝要なことだと思えないだろうか。

これは物質の要素である素粒子と、それを見ようとする観察者の相互作用にも比すことが出来そうである。実のところ「知る」という意識的な行為自体が、物質的な「現象化」への干渉作用をもたらすといえるのだ。

狼少年の逸話のように、村人に対する「狼が来るぞ~」という警告に耳を傾けている限り狼は現れず、それを忘れ去った時にこそ狼が来るようなものかもしれない。

逸話における村人の過ちは、危険という客観的な可能性から目がそれてしまい、「狼が来るぞ~」という少年の、当たり外れのほうに意識が行ってしまうことである。少年の挙動のみに集中していたことが村人の過ちであるとも言えるだろうか。

要は、個々人が常に意識的であることが必要なのだろう。

余談として、この世界には、さらに高次ともいえる理解を得ている人たちがいる。人類自らが、自らに不都合な潜在面のエネルギーの歪みを、無意識に創り上げてしまう行為に対して、祈りなどを通じて積極的に変質させることを引き受けている人たちもいるようだ。

それは、我々のような一般人の危なげな「制御されない、潜在エネルギーへの干渉」と違い、立派に制御された意識的干渉であり、まさに大人の所作ともいえる。人類にもいわゆる親と子供の役割付与があるようなものだろうか。

  

恐怖という、自ら創るところの「観念」自体が、自らのその恐怖の「原因」となる

意識的・無意識的に念じてしまうこと、引き寄せる作用自体は、自分のこころにあるのだという事実に、常に気づいている必要があるのではないか。

眠れる人には目覚しの合図がラッパのごとく次から次へ鳴る時代かも知れない。巨大な音で失神する前に、早めに目覚めるに越したことは無いではないだろうか。

我々の体験・経験は、他の誰かが決めるものではないという真理ともいうべきものを忘れてはならないだろう。

こころの中で本当にそうだ・・とどこかで信じている通りの体験をするのが我々という意識的存在なのだ。

今は、人間としての叡智の輝きを磨く試練の時であるともいえるかも知れない。

思いのパターンが、行動、現象化の種・原因を創っていることを理解し、恐怖や不安を、いっさいがっさい、きれいさっぱり投げ出して、希望と信念と、そして本当の豊かさをまず自分の心の中に創り出す時なのだ。

 

ゆくべき道を決めるのは、いつもいつもわたし達の、意識的な「選択」をおいて他にあろうはずもない。

 

我々は、今、物質~エネルギー、そして、ようやく、その因である「意識」に気づく時代に来ている。

  

   

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

  

 

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 話は逸れますが、玉蔵さんのサイトから警鐘が出ています。ご存知ない方は一読をお勧めします。今までにそうそう無い情報発信内容ですが、時々閲覧させていただいている彼のブログゆえ貼り付けさせて頂きます。

http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-442.html

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幸せと人間

2009-05-10 17:00:46 | 心の力学

●幸せとは何か

 我々皆誰でも、また多分、意識ある存在すべてに共通する願いは「幸せでありたい」ということでしょう。色々意見が異なるといわれる、様々な個人であっても、これだけは共通したものです。人間は須らく、意識する・しないに関わらず、いわゆる「幸福」「幸せ」を求めていると言ってもてもいいのです。

 はたして、社会、国家、世界のなかで、「幸せ」でありたいと思わない人がいるものでしょうか。地球上あるいはその他の諸世界であっても、程度の違いはあったとしても、幸せでありたくないという存在はいるはずもないでしょう。

●誰でも幸せを求めている

 不幸の代表のような極悪と呼ばれる人々、自己欺瞞そのもののような性格や生活を経験している猜疑に満ちた人々、いびつ極まりない自己中心な行為をしているエゴイスティックと云われる人間達も、「幸せ」を求めているからこその、極端なその激しい思いと行動をしているものでしょうか。悪(ワル)といわれる人々も、善良といわれる人々も、その時々の自己を演じている、あるいは演じざるを得ない有様も、いずれにしても、「幸せ」を求めているからに他なりません。人としての表現の大きさ・小ささ、深さ・浅さに関わらず、それぞれが精一杯の自己表現をしながらも、どこかで「幸せ」を求めていることには変わりがないのです。

●条件付きの幸せが欲しい?

 現代社会の趨勢にあっては、いわゆる物質的な豊かさが幸せになる秘訣であると考えているかのようです。たしかに我々は、大なり小なり、当たるも当たらぬも、意識的・無意識的にも、そのような世の中に生きてきたのは否定など出来ないものです。

 人類の創造の結晶たる学問も芸術も、今では現世の利得・ゲインを得ることに特化されてきているようです。数学も物理も工学も、文学さえも、それを使っての現世利益(りやく)に結びつけることが、いわゆる経済的な「善」とも捉えられています。生活への努力には、必ず現世の利益がピッタリと付いてくるはずであり、それが本来当たり前であるということのようです。

 人生の努力が経済の利益になり、富として還元され、それぞれの個人の「幸せ」の手段となる「富や名誉」につながると考えているからです。

 「自分のやりたい事をやり、それでお金が儲かり、また有名になれば、それも「幸せ」だ」・・という考えです。これには多くの人々の賛同があるものでしょう。我々は、大なり小なりそのような、「成功」=「幸せ」の観念の中に浸かっていることに気付くのです。

 しかしながら、多くの人々の羨望の的である?権力者、富豪、セレブ、有名人、成功者といわれる人が、本当に幸せかどうかは、もう十分にわかりそうなものです。全てではないにしろ、そのような世間での成功を獲得したと言われる人達は、幸せどころか、表面のパフォーマンスを維持する為の、ある意味艱難辛苦の連続を経験していることに気がつくでしょうか。

 一見して正当?であると感じる、幸せ=物質的成功?の観念では、「・・・・ならば・」という条件を設定している事に気がつくでしょうか。成功、金銭、名誉を得たあかつきの「幸せ」なのです。いわゆる、「・・たら、・・れば」の幸せです。条件付きの「幸せ」とも云えるでしょう。

●「幸せ」に条件が必要か

 成功や地位や富や、それから得られる快感や安堵が、幸せである・・という観念が支配的であるため、その幸せを求めて様々な社会・経済活動が行なわれます。至極当たり前であるとも誰しも感じるのですが、そこに、なぜか、「幸せ」を当てはめる誤謬に気がつかざるを得ないものです。条件を付けられた「幸せ」を獲得すべく様々な社会的労力を注いでいるのが、我々であったも言えるでしょうか。「幸せ」を、物質、環境、人間関係の良否などの条件の向こう、ベールの向こう側に敢えて置き去りにしているようなものです。本来の幸せとは、似て非なるあり方です。

 多くの人々がそういう風に思っているような感じがしている、・・という架空の想定を、これまた大勢の人間が信じているからこその事であるでしょうか。

●幸せは「そのうち得られる」・という誤謬

 個人の幸せは、全てが御膳立てされた理想社会、均一的な画一的な幸福社会等で、はじめて得られるものであるという考えもどこかで出てくるでしょう。だからこそ革命や変革、社会改革が必要だと言う考えです。それは、外の条件が変れば、自分も幸せになるだろうという観念です。過去の唯物史観にも密接な観念体系でもありました。自分の幸せは、外から「来る」ものという依存心です。

 外側の環境の変化で得られる良きものが、万一あったとしても、それは肉体的な生存の安心感や安堵感などかもしれず、しかしながら、確かに、個人個人、それが「幸せ」と考えている場合は、それはそうかも知れません。

 各自の幸せは各自の幸せであるにもかかわらず、それを他人や外の世界に求めることの異常さに気付くべきではないでしょうか。自分の内面に求めるものが、自分の外にあると漠然と信じている意識状態、幸せは獲得するものであるという「信念」でもあります。それはいわゆる「支配」に甘んずる人々の依存心を示すものです。支配者に誉めてもらいたいという幼子のような心理が、獲物をどれほど獲得したのか?という競争ルールの中での歪な生き甲斐となってしまうわけです。表面だけの小奇麗な虚飾に彩られた社会という、現代のコロッセウムの格闘士?は、もう、安楽と幸せの違いに気付くべき時なのです。

 個人個人の、その時々の「幸せ」が、個人以外のところ、社会のなか、多様な物質の中から獲得して得られる・・等ということは、実際ながら有り得ようもないのです。獲得して得られるのが「幸せ」なのでしょうか。また待ちわびて何者かに与えられるものが「幸せ」なのでしょうか。それは「幸せ」ではなく、いつも現われかけては消えて行く蜃気楼、あるいは刹那の快楽や安楽さ、安心感でしかないのでしょう。

●幸せは単に肉体の安楽ではない

 幸せは実は「こころの状態」であると言う話は良くあるものです。まさにそのとおりであるとも思われるでしょう。しかしながら、その「こころの状態」になるためには、またぞろ、外部条件が必要だということにしがみ付くこともあるでしょう。肉体維持の為には環境が必要であるということもまさに事実ですが、それは、「幸せ」とは違うことに気付く必要もあるでしょう。

幸せは、心の状態であると気付きながらも、それでも「物」が先で「こころ」が後という捉えかたです。こころ自体が意識的、無意識的であっても、その環境を作り上げていることが理解されていないために、「物」がやはり先に来てしまうものでしょうか。

●幸せは瞬間瞬間の創造に気付いていること

 どうという事もない出来事、当たり前の家族の会話、懐かしい記憶、子供達の屈託の無い姿、チョッとした他人の親切、何かをやり遂げた後の満足、夕日の残照、移り変わる木々の葉に見入る時・・・例えば、そのような状況に何かしら感動したことはあるでしょうか。どこにでもある、誰にでもあることです。

何時もそこにあった、「当たり前」にただ単にフト気付いただけのことなのですが、誰しも、このような当たり前のことに感謝し、幸せを実感することがあるのではないでしょうか。

 ひょっとして、今の瞬間瞬間の自分を取り巻く「幸せ」に気付けない我々は、あたかも盲目の先物取引業者のようでもあり、実にこころ楽しくないものではないでしょうか。常に未来に求め続けることばかりで、逆に、溢れるばかりの、今のこの世界の贈り物にさえ気付く能力がなくて、一体どんな幸せを得られる力があるのだろうかとも考えられるのです。

●有難う・・幸せに感謝するこころ

 あり得ない、あり難い、このありのままの宇宙、自然の世界を、そのまま見る事ができなくて、いきなり世界を切り刻み、加工しながら、「幸せ」なるものを追い続けてきたのが我々の文明であったと言えば、それは言い過ぎでしょうか?

 眼を見張り、こころを駆使して、今在ること、もう既に与えられていることに、ただ「感謝」出来る事が、それこそが「幸せ」とも言えるのではないでしょうか。それこそ多くの人々の、ある意味で「共通」する幸せであるかもしれません。当たり前のすぐ周りの幸せを見ず、遥か遠くを見るこころあり方には、そのとおりに、常に身の周りや世界に、不満や不足が現象化しているのは火を見るより明らかでしょう。

●幸せはいつも、「今ここに」在る

 人間は、自分のこころを如何様にもできるように生まれています。様々な感動も、感謝も実は、まさに「幸せ」の表明である事に気付けるでしょうか。今この瞬間にある状況を不足や不満と考えるか?本来有った当たり前の「幸せ」に感謝出来るかどうかが、まさに天と地を分ける「こころ」のあり方なのです。

不足を感じ続け、追いすがり求め続けることが「幸せ」である?と一体誰が言っているのでしょうか?人は不完全であると?一体誰が言っているのでしょうか?それは?・・たしかに自分自身が言っていたということが分かるときに、初めて「幸せ」を感じることになるのではないでしょうか。

 難しい理屈や複雑な観念体系、遠くにある理想、手に届かない貴重なもの等が、何か立派で、高尚なことであるという誤解に依拠した架空の信念から、自らを解き放つべき時でしょう。

 「幸せ」、それはいつも「今」を置いて、他にあるわけもないのです。また自分の中をおいて他人の中にあるわけもないのです。

●皆すべて、既に「幸せ」である

 「幸せ」とは今の当たり前の中に、それこそ宝石のごとき輝きをもって、あなたや私たちが気付く事を待っているのです。何年、年十年、何千年も待ち続けることもあるでしょう。「今」という瞬間は、「ゼロ」であり、その奇跡が「経過時間」という「軌跡」です。 今の瞬間に出てくる現象の連続、記憶が時間であれば、悠久のかなたの古代の時代も、未来の時代も、「今」から湧き出すものであることが理解出来るでしょう。「今しかない」というのは、瞬間、瞬間に全てが有ると言う意味であり、「幸せ」も今しかないのです。

 「幸せ」は「今ここにある」ことに気付くだけがまさに「幸せ」であり、もし不足があればその不足分だけ、待ってくれるのが「時間」という、辛抱強い友達なのかもしれません。

●眼を開けよ、幸せばかりの創造世界を「発見」せよ

 既に与えられている当たり前のものに感謝すべきです。感謝の念の中心にあるのが「今」という瞬間であり、それに気付いていることが「幸せ」といっても良いのです。感謝の念から生ずる現象は、感謝を映し出す時空になってわれわれの世界を形づくります。個人の世界の中心はそれぞれ皆、まさに宇宙の中心であり、個人の信ずるままに現われてきます。

「今」ここに「幸せ」を感じている人々の多い世界、これが、これから経験すべき世界であると断言しても良いと思うのです。まさに時間の有って無きがごとくの世界とも言えるのです。

●影を創っているのは、影絵師である私たち

 一見様々な苦悩に見えるこの世界は、どうしようもない現実ではなく、あなたや私たちの心のフィルターの汚れを示しているのでしょう。幻影たる結果をどうこうすることは、まさに筋違いであり、1人1人のこころのフィルターを取るだけのことなのです。そうすればそこには苦しく怖い幻影が現われようがありません。影絵の「影」を追い回すより、光の当たる自分達1人1人の「こころ」の姿を変えるべきなのです。

●原因たる「自分のこころ模様」を観るべし

 幸せは、まさに今の瞬間、既にそうである!ことを実感することです。外の形(影)でなく、影絵師である人間の「こころの鋳型」を変えるべきなのは明らかではないでしょうか。幸せだらけの悩み?も経験しても良いかもしれません。それでも、世界は汚れに汚れている!と宣言するのでしょうか。それとも、当たり前に、今「幸せ」であるという事実に眼を開け、まさにそうであった・・という宣言が、今この時に出来るでしょうか。いや出来るに相違ないのです。

●有り難いこと限りなし

 なぜなら、苦しみや悩み、幸福など、どのような実感も選択できる、それぞれの「わたし」が「今ここに在る」からです。有り難いこと限りなし。まさにこれからの世界はそうのように、映り変わらざるを得ないのでしょう。

 自己をどこかで忘れた意識の有り方、外の世界の人間関係や、物質レベルの因果関係のみを追っている意識のあり方では、決して理解出来ないことかもしれません。それが出来れば苦労などあるものか・・という考えもまた、あくまでも自分から眼を背けているこころのあり方を示してはいないでしょうか。幸せは、難しい・・・という信念。本当にそうでしょうか。

 単純に言えば、自分に感謝できれば、それが外への感謝となって広がるのが道理です。自分が、今「幸せ」であると心底気付ければ、他者もまた「幸せ」であることに気付くようになるのも道理です。 幸せは、それぞれの中に斉しく在るところの、「こころのあり方」が創造してゆくものだからです。

 

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 本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。