●悩みはいつも人に関わるもの
人間はいつも何かに大なり小なり悩んでいるのだろう。その悩みのほとんどは「人間関係」から来ていることは知っているだろうか。この際明確にいえることは、人間の「悩み」は大方「人間」から来ているということなのだ。
青い空や雲や海や、野に咲く花や道端の石ころが原因で、・・一体誰が悩むだろうか。
いや・・、例えば地球のこと、生態系のことに悩んでいる・・という人もいるだろうが、これはやはりそのように悩んでしまうような生態系にしてしまう人間に対する悩みであるということなのだ。
人間の悩みの全ては「人間」から来ているのだ。
●悩みは他者への期待からくる
あるいは、「いやいや、わたしの悩みはお金なんだ。ローン返済で苦しい生活に悩んでいるのだ。」という人もいるだろうが、お金の貸し借りや生活に関する苦しい事情に関しても、その悩みは当事者が作り、当事者が感じるものであることに違いはない。
人と人の間の、信用と責任に重圧を感じているということであり、問題はそもそもお金等ではないのだ。
あるいは、「いやいや、私の悩みは国の行く末だ。何とかしなければ、大変なことになる。これが悩みだ。」という人もいるだろうが、社会の流れに不安を感じ、どうしようもない他者の無知さ加減に嫌気が差し、それに憤りや無念さを感じて悩んでいるとしても、それは他者という人間を見ているあなたの悩みであることに違いはない。
あるいは、仕事先や学校などでの、上司や仲間の中で体験する嫌味やいじめや、それらに無理に取り繕う為の重いこころに悩んでいるとしても、それは何か自分以外の宇宙の問題ではなく、人間関係の何がしかの歪からくる悩みであることに違いはない。
悩みはほとんど全て人間関係からくるといってもいいのだ。
その人間関係の歪・悩みの元は他者にある・・と無意識に捉えているからこその悩みであることも自明の理なのだ。
○○ が自分の思うように対処してくれない、自分の思うように付き合ってくれない、自分の希望するような評価してくれない、自分が気持ちの良くなる言葉をかけてくれない、自分の期待する態度をしてくれない・・。
○○ とは、ある時は親であり、身近な人であり、社会の人であり、政治家であり、金貸しであり、世界の仕組みと称する「他者」なのだ。
それが人生の「悩み」と称するものなのではないか。自分の悩みとは他者への勝手な「期待」から来るものであるとも言えるだろう。
また、悩みとは他者との比較によって善悪を感じる各人の「こころの癖」によると言っても良いだろう。
●悩みは裁きの観念から生じる
それらは全て「相対的」なことであり、人の感じるところによって千差万別に見えたとしても、他人または自分自身へのジャッジ、裁きの観念から来ているのだ。
大なり小なり、他者への「期待はずれ」は他者への裁きのこころとなる。実のところ、賞賛も憎しみも同じ裁きのこころによるものである。価値観や立場や性別や集団や国やイデオロギーの違いによって、賞賛が裁きとなり、憎しみが親愛の情へと変化する。
しかしながら、考えてもみるがいい。
あなたはあなた以外の人間の思考・感情・行動に対する責任を本当に負っているのか?
またあなた以外の他者が、あなたに何か責任を負っているのか?・・と。
我々は、ここまで理解出来る意識的な位置に「今」あるだろうか。自分自身が見える位置にあるだろうか。
我々の多くが、自分のことは帰り観ることもなく、他人へ期待し、彼らから何か良きことを得ようとしている・・そんなこころのトーン・響きはないか?
●他人とは、鏡に映る「一即多」の原則
それは、不特定他者の集団に沈み込んでいる有様とも言えるだろう。ある意味で、他者への期待は、自らの内面にあるテーマからの逃避なのだ。自ら観るべきものを、他者に投影しているのだ。期待への期待通りの回答など永久に得られるものではないのだ。
それは、鏡に映った自分の姿を見て、あろうことか鏡の方に化粧をさせるようなものだ、鏡に化粧しようと思えば思うほどその姿は動き回り、そんなことは出来るはずもないことがわかるだろう。
あなた自体の意識の有り方が変わらなければ、鏡に映った姿は決して変わらない。
わたし自体の意識の有り方が変わらなければ、それを映し出すところの他者や世界も変わらない。
●不遇とは恩寵の別の意味
例えば、誰でも体験する、他者の集団から受けたと感じる嫌味や辛い体験も、それを気づかせるための恩寵でありまた教訓なのだ。
「外の写し絵たる社会は、決してあなたの期待するものではありません。どうか染まらないで下さい。ここは結果ばかりの世界であり、何かありそうで、実は何もないのです。」・・
といってくれているのだ。
誤解はいつも注意深く避ける必要があるのだが、ある意味で「他者は全く関係がないのだ。」ともいえるだろう。他人が何を言おうと、思おうと、あなたや私たちがそれを「そうだ」と同調しない限り、一切何も問題など生じないのだ。
他者への期待、または執着、その中での様々な階級や見かけの栄華、それら一切捨て去る行為は、決して不道徳でも逃避でもないのだ。なぜなら元々もってはいないからだ。
解脱とは、「本来わたしではない」ものを、「わたしではない・・」と看破する意識であり、執着の糊が綺麗にはがれたこころを持つ人間の、素の有様のことである。
それはこどもごころに似ている。
嗚呼、心悩ますあらゆる観念・・
それらを元々もっていないことに、明らかに気づくだけのことだったのだ。
世界がこうも不道徳で不調和で汚れたものに見えるのは、それにどこか波長の合うような「こころの根」が、あなたや私たちにあるということを示しているだけのことである。
例えば、ピカソの絵を見て、それを混乱ととるか、芸術ととるか、ただその違いでもあるだろう。問題は、ピカソの絵・すなわち世界にあるのではなく、それを鑑賞するあなたや私たちのほうにあるのだ。
多くの先達の言葉、「世界に在っても、世界に属してはいけない」という意味は、己の感性と直感を主にするべきであり、不特定他者の観念に自ら支配されてはいけない、無意識の集団の流れに属してはいけない、ということをも言っているようである。
植物、動物の種は集団の意識によって動くものだが、翻って、思考と感性を持つ人間が、自らの思考を停止し、自らの感性を覆い隠した状態での集団化は反吐が出るほどの不調和を作り出すだろう。
自らに気づくことが出来る存在、すなわち「意識的意識」を有する存在が、集団で眠った有様は、それぞれの役割を有する自然界の調和に反するあり方でもあるのだ。それは人間の素の有り方ではないのだ。
それはある意味で、いわゆる無意識のうちに重いこころを持つがゆえの、いわゆる「意識次元の降下」などともいえるかもしれない。
●あなたはなにものか
悩みや不満も、こころの波動の歪を、そのまんま己に現すものでしかない。
憤慨も憎しみも、他者への法外な期待の裏返しでしかない。
不安も怖れも、集団の中の自己保存への焦りでしかないのだ。
我々は全て、この生命の海における自由な観客・旅人のようなもの。
我々は、食べられるべき、個別別個のプランクトンでもなく、
獰猛を商売として生きてゆかねばならない鮫でもない。
我々は生命の海たるこの宇宙の、全存在に対する生き証人のようなものであり、
それは・・・、
人としての我々の意識が・・・、
それ「自体に気づく意識」であるからだ。
すなわち、わたしは、「わたし」である・・。
眼前に見える膨大で無限の宇宙も、そのままが根源意識自体の現す姿であり、
あなたとは・・・、
また根源自らが、
その変わりゆく無限の物語を、楽しみ楽しむことで、
その創造の面白さ、有りがたさを実感する為に、
人間として自己配置した「観客」でもあるのだ。
根源のシナリオの作り出す舞台の1つが、この地球という舞台であり、
我々一人一人も、また根源自らがその演技を演じるところの役者である。
我々がそれに気づき参加することで、また更なる楽しみ楽しむ物語が出来上がる。
それをマーヤ(神の綾なす幻想世界)と言えども、
そのマーヤを創り続ける主体は、じつは「あなた」である。
根源とは全てであるからには、どこかの誰か、何か高貴な対象ではない。
神なる根源は、わたしは「わたしである」という、あなたの「意識」のうちにあるのだ。
神なる根源の隠れ場所としては、さすがに、極まって秀逸ではないか。
しかしながら、もうあなたはウスウスでも気づいただろう。
なるほど、自分は自分でしか気づけないものだから・・・ね。
(クレマチス)
本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。