もうすでに終わったことなのだが、今までどういう世界であったのか、ちょっとその過去を振り返ってみることも大切なことだろうか・・・・。
●戦後の支配構造の崩壊
言葉と行動の全く異なる政治家が言ったのは残念だが、戦後レジームからの脱却とはよく言ったものだ。
確かに、
あなたやわたし達は、物資や金を売り買いして、生活をするためだけに、ここに生きているのではない。
動けば動くほど徴取される税のシステムの為に生きているわけではない。
経済生活、それは肉体生活の為の必要条件であるかもしれないが、十分条件ではないということだ。
人は皆、衣食住の充足や安楽な生活、そればかりを目的としつつ、無理な頑張りを強いる人生の大量生産品目ではないのだということを思い出すべきである。
過当競争による新たな付加価値捻出?、いつまでもそんなカエルの競争ゲームばかりやっているわけにはいかないだろう。
戦後は特にこのような金儲けの頑張りズムが国民のスローガンとされてきたわけだが、それももう終わってしまったのだ。
額に汗して頑張って、あるいは相場の売り買いでもうけを増やし、結果として預金通帳の数字が増えること、
まあ取りあえずそれを良しとしていた古い生き方があったとしたら、それはもうすぐリセットされることになる。
古い意識構造の、飽和というのか、崩壊というのか、リセットというのか、捉え方や体験のし方は人さまざまであると思われるが、まさにそういう時にある。
・・・
●拝金思想の飽和・・成る
簡単に言えば、お金さえあれば良いという・・人類全般に巣食ってしまったいわゆる拝金思想、唯物観念が、とことん飽和してしまったということだ。
いやいや、まだまだ不満であると思うかもしれないし、お金など全然飽和してはいない(笑)と言うかもしれないが、人類の共通意識としては、既に拝金主義は飽和してしまったということである。
もう銭金物の獲得だけの人生生活はもう十分だ・・・・という意識段階に至ったのだという事である。
その結果、古い経済システムは崩壊する定めにあると言うことだ。
それを理解するためには、出来るだけ世界の動きをマクロに観る必要があるだろうか。
例えば、
アメリカの QE1,2、3等という、尤もらしい紙幣増刷、インフレ政策はその証拠である。
日本政府のの1000兆円を超える、返す当てのない借金はそのサインである。
日銀の国債引き受けによる、バランスシートの負債増加はそのしるしである。
あちらこちらの国家政府のデフォルト騒動はその結果である。
富めるものと貧者の2極化は、モノポリー、バンカーゲームの終わりを示している。
富めるものはそれを無償で放出しないから、結局は経済を「止める」者となるのだ。
要は、資本の投資と回収サイクルが、もううまく回っていないという事だ。
必要なところにお金が回らず、経済マトリクスの中の局所に肥大して固まっているわけで、
それは人体を循環する血液が、どこかで凝固しているに等しいのである。
●資本主義という支配構造
ところで、経済が発展するためには、より多くの民衆がより活発に経済活動にいそしみながら、
投資した資本を利子をつけて返す行為がなければならないのである。
3権分立だとか、マスメディアの存在はそのための後押し機関、先導組織の様なものである。
その根幹にある思想は、元からある正義だとか真実だとかではない。
戦後のシステム自体は、すなわち経済をより活性化するためだけのものである。
より広く良好な投資環境と返済能力を保証するためとも言えるだろう。
戦勝国であるアメリカは、そうやって下手するとやばい日本から、長期に収益を上げる構造にしたということである。
投資と回収のための市場創設、それが戦後民主主義の裏の真顔である。
なるほど、戦後の日本人は実に良く働いてきたし、物質的生活レベルも格段に向上しつつ、
合わせて知らぬ間に欧米の投資する資本の回収に、
絶大な貢献をしてきたというのが、戦後の経済社会の事実の説明である。
泣く泣くも、しっかりと勤めを果たしたわけなので、その支配が終わりとなるのも自然の理であろう。
3流映画にあるような、「この野郎っ」 と背中に鞭打って、無理に人々を働かせるような支配ではなく、
それと分からない、実に巧妙な支配が戦後ずっと日本にあったということなのだ。
知っていただろうか・・・。 仕組まれた戦争に負けたからそういうことになったのだ。
日本にある100カ所以上の米軍基地は、何のためか、ある意味でそれは植民地の武装された総督府のようなものだし、また辺境に備える出城でもある。
日本を守っているというのは方便という嘘なのだし、守っているのではなく・・・どちらかと言えば見張っているというわけだ。
しかしながら、他国に軍隊を駐屯させながら、あからさまな不快感をもたらさないような巧妙な支配は、さすが英国の植民地であった経験を生かしたアメリカ流の支配方式である。
自由と民主という効果的なスローガンは、実は経済支配地での有効な宣伝・洗脳スローガンである。
支配とは言え、直接支配の植民地ではなく、間接的経済植民地ということなのだが、力関係のバランスを計りつつ、それでもお互いに利があるうちはそれもうまくいく。
しかしながら、それは今までのような日本の経済成長が続く間だけのことなのだ。
ところが今はそうでなくなった。
政治の騒ぎは、その転換期に来たことを示しているが、実に感覚違いな方向にある危険性に気付いているのだろうか。
とうとう、国民の命を担保にしようとしている行為自体に、彼らは気付いているのだろうか。
嗚呼、これ自体も既に終末のサインではないか。
●失われた20年とは何か
過去の20年に及ぶデフレの時代とは、円高と低金利によって日本が外からの富の簒奪に苦しんでいた時代の謂いである。
身近で言えば、銀行に集められたそれこそ、大衆の血と汗と涙の結晶である預金は、どこかの誰かに低利息で貸し出され、貸主にはほとんど配当・利子が返ってこないということになっている。
低利息で貸し出された人々のお金は、別の商品に組み立てられ、高利息の金融商品に化けて売り出されるのだ。
よく考えたものではないか。
それは国債であり、金融派生商品であり、ハイリスクハイリターン商品になるという寸法だ。
しかしながら世の中ではそれを「投資」といっている。別に悪い事じゃないと。
ところが、そうやって、新たな投資・投資が先行しつつ、グローバル?世界での貸し借りがパンパンに膨れ上がり、いつか回収が出来ない状態に、大枠で言えば追い込まれてしまったというわけである。
従って、自由に出し入れできるはずの銀行預金は、どこかの誰かの担保とされている部分もあるだろうし、大幅に出金されても困るというのが実情なのだ。
「20万円以上の出金はその使い道を聞きます・・・」って、そんな話など本来あるわけもないではないか。
「銀行預金は、純粋に預金者だけのものではないんですよ・・・」って言う意味?・・・、他にどういう意味があるだろうか。
パンパンに張った投資の元手なのでそういうことになる。
要は、実際の流動的な金融資産はほとんど投資に回ってしまっているということ。
●最後の禁じ手、裏付け無き紙幣の増刷
そうして近年、進退窮まった経済を少しでも延命させるための、やってはいけない方法に手をだしたのだ。
そう、かつては禁じ手であった単なる紙幣の増刷、経済成長論理と関係がない紙幣の増刷、中央銀行のお札増刷だけが延命策であった。
経済の血液たるお金が流動性を失いつつあるということは経済の死を意味しており、血液があっても環流しなければシステムが維持できないのは人体も同じであろう。
増刷したお札を個人、銀行を経由して、株式市場に流すことで、資本主義の表看板であるところの資本・株式の山を大きく見せることと、またその値上がり益、売却益を通じた資本家への資金の環流が目的なのだ。
何京ドルとも言われる闇資金、デリバティブ取引であろうと、借りた金は必ず返す、貸した金は利子をつけて必ず回収する。それが契約、約束ならば借財人の肉1ポンドでも回収する、
それがシェークスピアの物語中の、かのユダヤ商人であるシャイロックの金科玉条であったはずだ。
だから本当の負債を隠したままで、紙幣増刷しつつ借金を返しつつ、その延命を図っていたということなのだろうが、
ところで、その紙幣増刷の延命処置のおかげで、世界の経済システムは回復したのだろうか?
あなたはどう思われるだろうか。
●最近世界が紛争だらけの理由
もっともっとと利益を追求しようとする、破れかぶれのバレバレの紛争、戦争行為が世界に広がっているように見えるだろうか。
気付けば、欧米と腐れ縁のあるカルマな地域、あるいはそれに近い地域、エネルギー、資源の豊富な地域で騒いでいるではないか。
アラブの春だとか、民衆革命だとかいう美名をつけた、破壊、殺りく行為が石油やエネルギー関連地域周辺で行われている。
もちろんその焚き付けで、簡単に扇動される民衆の意識の底にも様々な歪がありつつ、なおさら地球、太陽、宇宙規模の様々な不可思議な精神的な波紋が押し寄せていることもあり、
それもこれもあって、まさに油をしみこませた紙に火をつけるようなものであろうか。
しかしながら、どんな原因を言おうと、どんな美名をつけようと、民衆の変革だとか何とか理屈を用意しようと、
それらの行為の背後には人為的な思念、拝金思想が渦巻いている。
そこにある主たる想いは、もっと光を・・・ではなく、もっとお金を・・・である。
そういう物欲思念が密度を増して、とうとうブラックホールとなって自壊するプロセスにあるようだ。
・・・・
●アラブは禁断の市場
実のところ、現在の世界では、思ったほどの経済成長が、これ以上出来なくなった段階が来ている。
もちろん地球規模の生態系の異変も、これ以上は不可という、はっきりとした意図を表明しているのである。
金融資本にとって、例えば、国土を疲弊させてまで金儲けに走ることが出来る中国のような国の、その後がま・・・がいない。
ラテンアメリカでは、律義さよりも気楽さが先に立ってしまい、到底利子を生み出す働き蜂になってくれそうもない。
だから刈り取りを決めたのだろうし、そもそも・・・もう後がない。
かつての日本やドイツの様な、勤勉で、潔く、頭の収支変えの早い科学技術インフラのある手っ取り早い地域や民族がいないということもある。
韓国や中国は実際には日本の影響で経済が成長してきたのだし、
ヨーロッパ周辺はやはりドイツの勤勉さと合理精神で支えられているのは常識であろう。
今現在、かろうじて息をしているのはその2つの国の周辺だけなのである。
そうして、さて、残るはイスラム教で満足した地域を、無理やり更地に戻して、その復興経済で成長率を確保するか、あるいは資源の豊富な奥地の国を調略あるいは簒奪するか、そういうことなのであろう。
●アメリカの崩落は、対戦相手のない終戦のようなもの
要は、古いアメリカ金融は悲しいかな、デリバティブを含む巨大な借金を抱えて、その重さで既に明確に没落しつつ、最期の余力を使って、あちらこちらに手を出しているというわけだが、それも甲斐なく早晩大きな決断をせざるを得ない時期に来た。
しかしながら今のアメリカには、大英帝国の象徴であるポンドが没落した原因となった、かつての2つの大戦のような、変な意味だが大義名分がない状態である。
ひとりで自壊するしかないのだ。まさに自作自演ストーリーである。
デフォルト、つまり返済が出来なくなった他の理由づけ、どさくさまぎれの芝居をしたくてしょうがないということでもあろう。
ところが、デフォルトする、返済できない・・・ということは、帝国の信用にかかわり、またそれは資本主義の根幹を揺さぶりつつ、早晩に幹をも倒してしまう行為なのだ。
しかしながら、なんでも最期に爆発して溜飲をさげるような、ハリウッド映画の様な終局、さすがに全てをリセットするような第3次大戦は起こせそうにない。
地球も、宇宙も、今回はそこまでの我がままを許すわけもない。
子供が裏庭で、わけもわからず納屋に火をつけて、家が燃えるかどうかを試そうとしていた場合、
それも自由だからという事で、にこにこ笑って黙って観ている親は、宇宙何処にも、世界何処にもいないだろう?
大火が起きそうになったら、取りあえず大量の水で流そうと思わないだろうか?
いまそういうことが起きてかけていると思えないだろうか。
金融資本主義も自然環境も、もっか目の前が断崖絶壁、爆発か収縮かの瀬戸際ということなのだ。
目ざとい国々、人々はすでにその準備を始めてもいるだろう。
しかしながら、危険極まりないレベルへと、あくまでもつっ走っろうとする舞台の演技者たちの次なる行為によっては、
地球という舞台は、国々や人々の準備どころではなく、あっという間に水で清められてしまうことになるかもしれない。
その場合は地軸は10度前後傾く可能性もある。
実際のところは、何とも言い様がないのだが、天網恢恢(てんもうかいかい)、疎にして漏らさずである。
・・・・
●銭金に結び付けるだけのプラグマティックな科学技術はもう不要
かつて1980年代頃、プラザ合意以降のアメリカに対して、その為替を使ったドル資産の回収を目の当たりに見て、日本では反米から嫌米や侮米に変わった時期があった。
反米ならまだいいのだが、日本の知識人の間には「侮米」という概念が広まった時期があったのだ。
それ以降は期待通りに、アメリカの巻き返しがあり、その得意技である新しい分野、ハイテク、インターネット関連産業、すなわち情報関連産業の開拓が行われるに及んで、さすがにその経済産業上の恩恵を受ける段階で、侮米という概念は息をひそめたのだ。
しかしながら、それも20有余年を経た現在、携帯端末の末端までの浸透に及んで、新しいうまみのある市場は既に飽和してしまった感があろう。
通勤電車の中で、乗客の5人に4人の割合でスマホに打ち興じている姿を見ると、右ならえという洗脳風潮を感じる他にも、そういうこともどこか理解されるはずなのである。
今後資本投資と回収を推進するための、どのような商品や技術が出てくるのか、次なる産業の芽は育っているのかといえば、残念ながらそれはないだろう。
例えば、3Dプリンタなども自動成型、切削機械に過ぎず、本質的な起爆剤にはなりようもない。
宇宙開発関連でも大衆の宇宙遊覧を体験させるほどのコスト低下は望めない。せいぜいが火星植民等と言って法外な金額を要求することが出来る市場に限られている。
●ようやく出てくる自然のエネルギー
あるとすれば、1つに新しいエネルギー市場、分散電源市場であろう。
太陽光発電やら燃料電池の比ではない、噂どおりのフリーエネルギー、真空エネルギー装置なのであるが、
ところがこの画期的な未来技術の基礎を作った二コラテスラや、
その他大勢の発明者達を100年近く阻害しつづけ、
きちがい扱い、詐欺師扱いして排斥してきたのが、何あろう自由と民主的な国のアメリカ資本であり、
今さら先陣切ってそのような分野には進出できる相談ではないだろう。
真空からエネルギーを湧き出させる、簡便な発電が可能になれば、原子力も風力も、送配電もなにも不要となる為に、資本主義的な煩雑な流通システムでの投資と回収が出来ないからである。
石油が要らず、水も汚さず、マキも燃やさず、電力量計も不要で、どこでも電力が得られる。
電池もいらず、周囲に熱も放出せず、汚染物も垂れ流さないで、いつでも電力が得られる。
エネルギーが人間生活の全ての根幹にあるからには、もしそれが一家庭毎に設置してあるとしたら、
今の複雑なエネルギー産業構造はバッサリと削除されることになるのだ。
また資源やエネルギーを求めて争い、戦いを起こすこともなくなるのである。
当然その為の武器や兵器、原子関連の施設、兵器なども無用の長物になるのだ。
したがって、
そういう夢のようなジェネレータは存在しないということではなく、
今までの資本投資とその回収の煩雑な仕組みで得られる利潤構造の敵であったからこそ、
出回ることを阻止されてきたというわけである。
しかしながら、古い次元舞台、地球という回り舞台が、ニガヨモギのようなその演目を立派に終了したならば、
ようやくそれも出番となるのである。
もうは未だなりから・・・、
そう、未だはもうなり・・・・そういう転換が行われたのである。
かつて物理学者のディラックは、空間は陽電子、陰電子の対で充満していると言った。
そう、空(くう)は意識、波動、そしてエネルギーの充満を意味しているのだ。
さて、人類のどれほどが、ラクダが針の穴を通るがごとく、このすぐ向こうにあるフロンティアまでたどり着くことが出来るのだろうか。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。