気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今起きていること  (1)経済社会の死と再生

2014-06-29 15:58:19 | 見えないものから見えるものへ

もうすでに終わったことなのだが、今までどういう世界であったのか、ちょっとその過去を振り返ってみることも大切なことだろうか・・・・。

 

●戦後の支配構造の崩壊

 

言葉と行動の全く異なる政治家が言ったのは残念だが、戦後レジームからの脱却とはよく言ったものだ。 

 

確かに、

 

あなたやわたし達は、物資や金を売り買いして、生活をするためだけに、ここに生きているのではない。

  

動けば動くほど徴取される税のシステムの為に生きているわけではない。

  

経済生活、それは肉体生活の為の必要条件であるかもしれないが、十分条件ではないということだ。 

 

人は皆、衣食住の充足や安楽な生活、そればかりを目的としつつ、無理な頑張りを強いる人生の大量生産品目ではないのだということを思い出すべきである。

  

過当競争による新たな付加価値捻出?、いつまでもそんなカエルの競争ゲームばかりやっているわけにはいかないだろう。

 

戦後は特にこのような金儲けの頑張りズムが国民のスローガンとされてきたわけだが、それももう終わってしまったのだ。

 

額に汗して頑張って、あるいは相場の売り買いでもうけを増やし、結果として預金通帳の数字が増えること、

  

まあ取りあえずそれを良しとしていた古い生き方があったとしたら、それはもうすぐリセットされることになる。

  

古い意識構造の、飽和というのか、崩壊というのか、リセットというのか、捉え方や体験のし方は人さまざまであると思われるが、まさにそういう時にある。

  

・・・ 

●拝金思想の飽和・・成る

  

簡単に言えば、お金さえあれば良いという・・人類全般に巣食ってしまったいわゆる拝金思想、唯物観念が、とことん飽和してしまったということだ。

  

いやいや、まだまだ不満であると思うかもしれないし、お金など全然飽和してはいない(笑)と言うかもしれないが、人類の共通意識としては、既に拝金主義は飽和してしまったということである。

  

もう銭金物の獲得だけの人生生活はもう十分だ・・・・という意識段階に至ったのだという事である。 

  

その結果、古い経済システムは崩壊する定めにあると言うことだ。

  

それを理解するためには、出来るだけ世界の動きをマクロに観る必要があるだろうか。 

  

例えば、

  

アメリカの QE1,2、3等という、尤もらしい紙幣増刷、インフレ政策はその証拠である。

  

日本政府のの1000兆円を超える、返す当てのない借金はそのサインである。

  

日銀の国債引き受けによる、バランスシートの負債増加はそのしるしである。

  

あちらこちらの国家政府のデフォルト騒動はその結果である。

   

富めるものと貧者の2極化は、モノポリー、バンカーゲームの終わりを示している。

  

富めるものはそれを無償で放出しないから、結局は経済を「止める」者となるのだ。

  

要は、資本の投資と回収サイクルが、もううまく回っていないという事だ。

  

 

必要なところにお金が回らず、経済マトリクスの中の局所に肥大して固まっているわけで、

  

それは人体を循環する血液が、どこかで凝固しているに等しいのである。

  

●資本主義という支配構造

  

ところで、経済が発展するためには、より多くの民衆がより活発に経済活動にいそしみながら、

  

投資した資本を利子をつけて返す行為がなければならないのである。

  

3権分立だとか、マスメディアの存在はそのための後押し機関、先導組織の様なものである。

  

その根幹にある思想は、元からある正義だとか真実だとかではない。

  

戦後のシステム自体は、すなわち経済をより活性化するためだけのものである。

  

より広く良好な投資環境と返済能力を保証するためとも言えるだろう。

  

戦勝国であるアメリカは、そうやって下手するとやばい日本から、長期に収益を上げる構造にしたということである。

  

投資と回収のための市場創設、それが戦後民主主義の裏の真顔である。 

  

なるほど、戦後の日本人は実に良く働いてきたし、物質的生活レベルも格段に向上しつつ、

  

合わせて知らぬ間に欧米の投資する資本の回収に、

  

絶大な貢献をしてきたというのが、戦後の経済社会の事実の説明である。

  

泣く泣くも、しっかりと勤めを果たしたわけなので、その支配が終わりとなるのも自然の理であろう。

  

3流映画にあるような、「この野郎っ」 と背中に鞭打って、無理に人々を働かせるような支配ではなく、

  

それと分からない、実に巧妙な支配が戦後ずっと日本にあったということなのだ。

  

知っていただろうか・・・。 仕組まれた戦争に負けたからそういうことになったのだ。

 

 

日本にある100カ所以上の米軍基地は、何のためか、ある意味でそれは植民地の武装された総督府のようなものだし、また辺境に備える出城でもある。

  

日本を守っているというのは方便という嘘なのだし、守っているのではなく・・・どちらかと言えば見張っているというわけだ。

  

しかしながら、他国に軍隊を駐屯させながら、あからさまな不快感をもたらさないような巧妙な支配は、さすが英国の植民地であった経験を生かしたアメリカ流の支配方式である。

  

自由と民主という効果的なスローガンは、実は経済支配地での有効な宣伝・洗脳スローガンである。

  

支配とは言え、直接支配の植民地ではなく、間接的経済植民地ということなのだが、力関係のバランスを計りつつ、それでもお互いに利があるうちはそれもうまくいく。 

  

しかしながら、それは今までのような日本の経済成長が続く間だけのことなのだ。

  

ところが今はそうでなくなった。 

   

政治の騒ぎは、その転換期に来たことを示しているが、実に感覚違いな方向にある危険性に気付いているのだろうか。

   

とうとう、国民の命を担保にしようとしている行為自体に、彼らは気付いているのだろうか。  

 

嗚呼、これ自体も既に終末のサインではないか。

 

 

●失われた20年とは何か

  

過去の20年に及ぶデフレの時代とは、円高と低金利によって日本が外からの富の簒奪に苦しんでいた時代の謂いである。

  

身近で言えば、銀行に集められたそれこそ、大衆の血と汗と涙の結晶である預金は、どこかの誰かに低利息で貸し出され、貸主にはほとんど配当・利子が返ってこないということになっている。

  

低利息で貸し出された人々のお金は、別の商品に組み立てられ、高利息の金融商品に化けて売り出されるのだ。

  

よく考えたものではないか。

  

それは国債であり、金融派生商品であり、ハイリスクハイリターン商品になるという寸法だ。

  

しかしながら世の中ではそれを「投資」といっている。別に悪い事じゃないと。

  

ところが、そうやって、新たな投資・投資が先行しつつ、グローバル?世界での貸し借りがパンパンに膨れ上がり、いつか回収が出来ない状態に、大枠で言えば追い込まれてしまったというわけである。

  

従って、自由に出し入れできるはずの銀行預金は、どこかの誰かの担保とされている部分もあるだろうし、大幅に出金されても困るというのが実情なのだ。

  

「20万円以上の出金はその使い道を聞きます・・・」って、そんな話など本来あるわけもないではないか。

 

 

「銀行預金は、純粋に預金者だけのものではないんですよ・・・」って言う意味?・・・、他にどういう意味があるだろうか。

 

 

パンパンに張った投資の元手なのでそういうことになる。

  

要は、実際の流動的な金融資産はほとんど投資に回ってしまっているということ。 

  

 

●最後の禁じ手、裏付け無き紙幣の増刷

  

そうして近年、進退窮まった経済を少しでも延命させるための、やってはいけない方法に手をだしたのだ。

  

そう、かつては禁じ手であった単なる紙幣の増刷、経済成長論理と関係がない紙幣の増刷、中央銀行のお札増刷だけが延命策であった。

  

経済の血液たるお金が流動性を失いつつあるということは経済の死を意味しており、血液があっても環流しなければシステムが維持できないのは人体も同じであろう。

  

増刷したお札を個人、銀行を経由して、株式市場に流すことで、資本主義の表看板であるところの資本・株式の山を大きく見せることと、またその値上がり益、売却益を通じた資本家への資金の環流が目的なのだ。

  

何京ドルとも言われる闇資金、デリバティブ取引であろうと、借りた金は必ず返す、貸した金は利子をつけて必ず回収する。それが契約、約束ならば借財人の肉1ポンドでも回収する、

  

それがシェークスピアの物語中の、かのユダヤ商人であるシャイロックの金科玉条であったはずだ。

  

だから本当の負債を隠したままで、紙幣増刷しつつ借金を返しつつ、その延命を図っていたということなのだろうが、

  

ところで、その紙幣増刷の延命処置のおかげで、世界の経済システムは回復したのだろうか?

  

あなたはどう思われるだろうか。

  

●最近世界が紛争だらけの理由

  

もっともっとと利益を追求しようとする、破れかぶれのバレバレの紛争、戦争行為が世界に広がっているように見えるだろうか。

  

気付けば、欧米と腐れ縁のあるカルマな地域、あるいはそれに近い地域、エネルギー、資源の豊富な地域で騒いでいるではないか。

  

アラブの春だとか、民衆革命だとかいう美名をつけた、破壊、殺りく行為が石油やエネルギー関連地域周辺で行われている。

  

もちろんその焚き付けで、簡単に扇動される民衆の意識の底にも様々な歪がありつつ、なおさら地球、太陽、宇宙規模の様々な不可思議な精神的な波紋が押し寄せていることもあり、

  

それもこれもあって、まさに油をしみこませた紙に火をつけるようなものであろうか。 

  

しかしながら、どんな原因を言おうと、どんな美名をつけようと、民衆の変革だとか何とか理屈を用意しようと、

  

それらの行為の背後には人為的な思念、拝金思想が渦巻いている。 

  

そこにある主たる想いは、もっと光を・・・ではなく、もっとお金を・・・である。 

  

そういう物欲思念が密度を増して、とうとうブラックホールとなって自壊するプロセスにあるようだ。

  

・・・・ 

●アラブは禁断の市場

  

実のところ、現在の世界では、思ったほどの経済成長が、これ以上出来なくなった段階が来ている。

  

もちろん地球規模の生態系の異変も、これ以上は不可という、はっきりとした意図を表明しているのである。

  

金融資本にとって、例えば、国土を疲弊させてまで金儲けに走ることが出来る中国のような国の、その後がま・・・がいない。

  

ラテンアメリカでは、律義さよりも気楽さが先に立ってしまい、到底利子を生み出す働き蜂になってくれそうもない。

 

だから刈り取りを決めたのだろうし、そもそも・・・もう後がない。

  

かつての日本やドイツの様な、勤勉で、潔く、頭の収支変えの早い科学技術インフラのある手っ取り早い地域や民族がいないということもある。

  

韓国や中国は実際には日本の影響で経済が成長してきたのだし、

  

ヨーロッパ周辺はやはりドイツの勤勉さと合理精神で支えられているのは常識であろう。

 

今現在、かろうじて息をしているのはその2つの国の周辺だけなのである。

  

そうして、さて、残るはイスラム教で満足した地域を、無理やり更地に戻して、その復興経済で成長率を確保するか、あるいは資源の豊富な奥地の国を調略あるいは簒奪するか、そういうことなのであろう。 

 

 

●アメリカの崩落は、対戦相手のない終戦のようなもの

  

要は、古いアメリカ金融は悲しいかな、デリバティブを含む巨大な借金を抱えて、その重さで既に明確に没落しつつ、最期の余力を使って、あちらこちらに手を出しているというわけだが、それも甲斐なく早晩大きな決断をせざるを得ない時期に来た。

  

しかしながら今のアメリカには、大英帝国の象徴であるポンドが没落した原因となった、かつての2つの大戦のような、変な意味だが大義名分がない状態である。

  

ひとりで自壊するしかないのだ。まさに自作自演ストーリーである。

  

デフォルト、つまり返済が出来なくなった他の理由づけ、どさくさまぎれの芝居をしたくてしょうがないということでもあろう。

  

ところが、デフォルトする、返済できない・・・ということは、帝国の信用にかかわり、またそれは資本主義の根幹を揺さぶりつつ、早晩に幹をも倒してしまう行為なのだ。

  

しかしながら、なんでも最期に爆発して溜飲をさげるような、ハリウッド映画の様な終局、さすがに全てをリセットするような第3次大戦は起こせそうにない。

  

地球も、宇宙も、今回はそこまでの我がままを許すわけもない。

  

子供が裏庭で、わけもわからず納屋に火をつけて、家が燃えるかどうかを試そうとしていた場合、

  

それも自由だからという事で、にこにこ笑って黙って観ている親は、宇宙何処にも、世界何処にもいないだろう? 

  

大火が起きそうになったら、取りあえず大量の水で流そうと思わないだろうか?

  

いまそういうことが起きてかけていると思えないだろうか。

  

金融資本主義も自然環境も、もっか目の前が断崖絶壁、爆発か収縮かの瀬戸際ということなのだ。

   

目ざとい国々、人々はすでにその準備を始めてもいるだろう。

  

しかしながら、危険極まりないレベルへと、あくまでもつっ走っろうとする舞台の演技者たちの次なる行為によっては、 

  

地球という舞台は、国々や人々の準備どころではなく、あっという間に水で清められてしまうことになるかもしれない。 

  

その場合は地軸は10度前後傾く可能性もある。 

  

実際のところは、何とも言い様がないのだが、天網恢恢(てんもうかいかい)、疎にして漏らさずである。 

 

 

・・・・

  

●銭金に結び付けるだけのプラグマティックな科学技術はもう不要

   

かつて1980年代頃、プラザ合意以降のアメリカに対して、その為替を使ったドル資産の回収を目の当たりに見て、日本では反米から嫌米や侮米に変わった時期があった。 

  

反米ならまだいいのだが、日本の知識人の間には「侮米」という概念が広まった時期があったのだ。

  

それ以降は期待通りに、アメリカの巻き返しがあり、その得意技である新しい分野、ハイテク、インターネット関連産業、すなわち情報関連産業の開拓が行われるに及んで、さすがにその経済産業上の恩恵を受ける段階で、侮米という概念は息をひそめたのだ。

 

しかしながら、それも20有余年を経た現在、携帯端末の末端までの浸透に及んで、新しいうまみのある市場は既に飽和してしまった感があろう。

  

通勤電車の中で、乗客の5人に4人の割合でスマホに打ち興じている姿を見ると、右ならえという洗脳風潮を感じる他にも、そういうこともどこか理解されるはずなのである。

  

今後資本投資と回収を推進するための、どのような商品や技術が出てくるのか、次なる産業の芽は育っているのかといえば、残念ながらそれはないだろう。

  

例えば、3Dプリンタなども自動成型、切削機械に過ぎず、本質的な起爆剤にはなりようもない。

  

宇宙開発関連でも大衆の宇宙遊覧を体験させるほどのコスト低下は望めない。せいぜいが火星植民等と言って法外な金額を要求することが出来る市場に限られている。 

  

 

●ようやく出てくる自然のエネルギー

  

あるとすれば、1つに新しいエネルギー市場、分散電源市場であろう。

  

太陽光発電やら燃料電池の比ではない、噂どおりのフリーエネルギー、真空エネルギー装置なのであるが、

  

ところがこの画期的な未来技術の基礎を作った二コラテスラや、

  

その他大勢の発明者達を100年近く阻害しつづけ、

  

きちがい扱い、詐欺師扱いして排斥してきたのが、何あろう自由と民主的な国のアメリカ資本であり、

  

今さら先陣切ってそのような分野には進出できる相談ではないだろう。 

 

 

真空からエネルギーを湧き出させる、簡便な発電が可能になれば、原子力も風力も、送配電もなにも不要となる為に、資本主義的な煩雑な流通システムでの投資と回収が出来ないからである。

  

石油が要らず、水も汚さず、マキも燃やさず、電力量計も不要で、どこでも電力が得られる。

  

電池もいらず、周囲に熱も放出せず、汚染物も垂れ流さないで、いつでも電力が得られる。

  

エネルギーが人間生活の全ての根幹にあるからには、もしそれが一家庭毎に設置してあるとしたら、

  

今の複雑なエネルギー産業構造はバッサリと削除されることになるのだ。

  

また資源やエネルギーを求めて争い、戦いを起こすこともなくなるのである。

  

当然その為の武器や兵器、原子関連の施設、兵器なども無用の長物になるのだ。

  

したがって、

  

そういう夢のようなジェネレータは存在しないということではなく、

  

今までの資本投資とその回収の煩雑な仕組みで得られる利潤構造の敵であったからこそ、

  

出回ることを阻止されてきたというわけである。

  

しかしながら、古い次元舞台、地球という回り舞台が、ニガヨモギのようなその演目を立派に終了したならば、

  

ようやくそれも出番となるのである。 

 

もうは未だなりから・・・、

  

そう、未だはもうなり・・・・そういう転換が行われたのである。 

  

かつて物理学者のディラックは、空間は陽電子、陰電子の対で充満していると言った。 

  

そう、空(くう)は意識、波動、そしてエネルギーの充満を意味しているのだ。  

 

さて、人類のどれほどが、ラクダが針の穴を通るがごとく、このすぐ向こうにあるフロンティアまでたどり着くことが出来るのだろうか。

  

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


空(くう)は充満する意識 (18) 地球という3D体験場

2014-06-22 10:41:01 | 見えないものから見えるものへ

あなたは映画が好きに違いない。 

 

面白そうな映画が来れば時々観に行くだろう。 

 

この世界にいるということは、ある意味でそういうことである。

 

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空(くう)は無限のスペースであり、無限の時間であり、無限の波動で満ち、またそれらを生じるところの<意識>そのものである。 

 

空(くう)に生じる無限の波動からは、無数の周波数帯域、存在諸世界が生じている。 

 

あなたが見上げるこの宇宙もその1つである。 

 

この宇宙の中の、パケット化された更に狭い周波数帯域が、様々な星々の世界であり、この地球もその1つの世界なのだ。 

 

イエスの語ったとされる言葉、「天には多くの住まいがある」・・・ということは、そういう意味だ。

 

それはまた、同次元、異なる次元の世界が無数にあるという意味でもある。

 

・・・・ 

 

ところでそれは電磁波に同調する仕組みの、スマホの画面を観ているのとそれほど変わらない。 

 

また超リアルな3D映画を観ているのとそれほど変わらないし、 

 

また夢を観るのとそれほど変わらないのである。 

 

・・・あなたは気付いただろうか。

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・・・・ 

 

例えれば、人生、 

 

すなわち我々が生れて死んでゆくプロセスは、 

 

映画館に入り、そして鑑賞後にそこから出てゆくようなものである。 

 

まるで3Dの地球映画館・・・である。 

 

・・・ 

通常の映画は、目の前の数十m先の限られた四角い領域のスクリーンを観て、 

 

映画が終ればその映画館を出てゆくことであるが、 

 

人生のほうも似たようなもので、しかも周囲ぐるり、そして自分の肉体も登場するところの、3次元的立体映像のようなものである。 

 

見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの五感による感覚自己が肉体であるかのような感覚を受ける、そんな「自己投入」型の3D鑑賞方法である。

 

・・・・  

人のことを「人間」という、・・・実に秀逸な表現ではないか。 

 

人は皆、男女という<人の間>から生れて来て、人の狭間で生きる経験をする者、 

 

人々の間に生じる人生、様々な3Dの肉体体験、及び思考や感情を経験して、 

 

そして時満ちて、去ってゆくということである。 

 

それに例外はない。 

 

そうだろう?

 

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世界は壮大精緻なホログラム、多次元マトリクス、あるいは幻想とも言われるが、  

 

そう、この世界に生きているということは、例えれば、 

  

全方位が3次元的スクリーンで、立体的に、触感的に、五感を通じて「観ている」ということである。 

 

観る・・・・こと、それは・・・観察ともいうが、そのこと自体に気付くことを、意識的な気づきという。 

 

誰でも経験があるはずだが、 

 

「あー、私は今映画を観ている・・・」 という・・・・それを観ている方の<自己>に・・・気付いている<意識>であり、 

 

それは、映画に自己没入して、完全にハマっている無意識的<自己>とは異なるものである。 

 

観察されている意識か、観察している意識の方か、 

 

没我の存在か、自己に目覚めている存在か、 

 

あなたはどちらだろうか。 

 

・・・・ 

 

根源的な自問自答・・・「わたしは何者か?」 と問う時に、 

 

一般的には、私の肉体、経歴、生年月日、男女の別等のことを言うはずだが、それは、 

 

人生映画に、完全にはまっている<わたし>の方のことを言っているわけで、 

 

生れてから今までの、「人生という・・・映画」の中の、私個人という・・・登場人物のことを言っているのだ。 

 

ところが実際は、あなたは。。。映画を・・・・観ているほう・・・の存在である。 

 

そうだろう?

 

 

後ろの正面にいる者、 

 

観ている方のあなたは、肉体存在ではないために、なかなか気づけないのである。  

 

肉体存在ではない私だって?・・・一体どんな形なの?・・証拠は何だ? 

 

という感覚がついつい出てくるのは致し方ない。 

 

それはもろに、3D世界にハマっている、習慣づけられている反応である。 

 

真実は、あなたもわたしも、この世界の<物>、<者>ではないのだが、 

 

赤子の時から、世間的な無知、無明の中で没入しつつそれに適応するように刷り込まれるため、 

 

それが真実の認識だ・・・と信じ込むようになっている。  

 

「人間は肉体存在だ」 という、誰でも信じて疑わない事にこそ、重大な誤解があるのだが、

 

逆にそういう誤解、無知のおかげで今のような混濁した3D世界、も味わえるという事でもある。

 

ところが真実とは、「人は肉体存在ではない」・・・ということだ。

  

我々は皆、映画の中の設定人物ではなく、それを観ているほうの存在であるということだ。

  

その視座の存在は、当然ながら3次元的な存在ではない。 

 

またそう、それは例えば、 

 

本の作者は・・・本の中にいない・・・ようなものだ。  

 

本の読者は、本の中にいないようなものだ。 

 

・・・・

  

人は皆、この世界に生まれてすぐに、世間という無知の海のなかを泳ぐ魚のようなものであり、

  

そして生まれた後は、親や周囲の人々創り上げている世界に同化し適応すべく教育を受けるわけで、

  

その過程で魂のほとんど全ての記憶が失われる、いや正確に言えば、忘れるのである。

  

 

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それを例えれば、夢の中の出来事を、目が覚めてしまえばどうしてか忘れることに似ている。 

 

世界間の意識次元の違いというのか、意識の周波数帯域が異なるからである。 

 

ある周波数帯域には、それと同一周波数帯域の「情報」しか乗らないのだ。 

 

低い・荒いレベルの周波数では、高い精緻な情報を乗せることが出来ない。 

 

これは電磁波動を扱う、情報通信工学と同じような仕組みである。

 

 

 

ところで、 

 

忘れてしまう形をとるのは、なぜかと言えば、再び思い出すためである。

 

魂とも言われている普遍的な自己を思い出すためである。 

 

悟りや解脱とは、実際それなのだ。 

 

どこかの天界に気絶して消え去ることではない。 

 

自己探求は必要だが、決して小難しい話ではない。 

・・・ 

 

我々は皆、五感を通じた、人生という3次元的立体映像のなかに、そのまんま・・・「自己」を投入しているということだ。 

 

それがいわゆる3次元世界の体験というわけである。 

  

普通の映画で言えば、見えているスクリーンが外の世界であり、 

 

それを・・・観客席の内なる自己が・・・観ているという図式だが、 

 

いつの間にかその物語の中に入ってハラハラドキドキしているだろう。 

 

「 こ、この野郎、うあーっ、 アワワワーっ、 ギャー!  」ってなものである。  

 

 

見えるのは映画のスクリーンのほうで、観客席の自分ほうは薄暗くて見えにくいものである。 

 

この世界スクリーンも、多くの人(集合意識) が同じ映画(共同創造) を夢中で観ているのだが、 

 

皆ともに映画の方に集中している間は、観客席の本来の観客の自己の方に気付かないものである。


空(くう)は充満する意識 (17)人は多次元意識体

2014-06-13 08:36:46 | 見えないものから見えるものへ

 

我々が今<自分>だと思っているもの、たとえば肉体とは、 

 

<わたし>という普遍的、不滅の意識の表現体の1つに過ぎないものである。 

 

肉体とは、我々が言う物理的認識世界での自己表現体に過ぎないものである。 

 

転生すなわち表現体を変えること、それは色々の車に乗って道をドライブするようなものであり、 

 

また海の中をもぐって海中を遊泳するようなものである。 

 

それは、様々な階層、世界、次元を経験するにはその世界に沿ったインターフェースを用意するのと同じ。 

 

ところで、あなたは車の車体でも、潜水服でもない。 

 

 

 

車を運転する、車とは違う次元の存在であり、潜水服を着て潜る、潜水服とは違う次元のものである。  

 

 

 

肉眼で見える次元のものではない。  

 

 

あなたの「意識」・・・それ・・・・が示している。 

 

 

 

人の表面意識、それは突端の1小部分ではあっても、全ての代表のようなものだ。 

 

 

 

嗚呼・・・・・簡単すぎてわからないことを「悟っていない」ともいう。 

 

例えば、あなたの意識・・・そう、今でも時空間のなかで、この文章を眺めている・その意識そのもの、 

 

それは物質でもなければ、肉眼で見える形でもない。 

 

でもわたしは在る・・・・存在する・・・ことを意識している。 識(し)っている。 

 

肉体という形態場、五感という知覚のまどから「観ている」それ、 

 

気が付くだろう? 

 

それとも何かまだ不足なのだろうか。 

 

誰かが同伴して、そうだそうだと言えば気付くのだろうか、 

 

 

1億円もあれば気付くのだろうか、

 

何か知っているようで実は小さな専門分野以外何も知らないところの、 

 

どこかの大学の権威がそうだ、そうだと言えば納得するのだろうか。

 

・・・・

 

政治屋、学者屋、企業屋、公務員屋、教師屋、宗教屋・・・・

 

それらの尤もらしい肩書き、結局は商売人に堕してしまった者からの真実の話を待っていても、 

 

これは永久にやってこないのだ。

 

真実、リアリティーは「情報」ではない。 

 

なぜなら、 

 

真実とは、あなた自身、わたし自身、それぞれのわたし達自身のことだからだ。 

 

 

 

今、在る事、そのものだ。

 

 

今ある事は、永遠に在ることにも気づけるだろうか。

 

 

過去は記憶の中にあり、未来は可能性の中にある。

 

 

過去、現在、未来・・・それらに共通するのは・・・・・・の瞬間である。

 

何か隠された情報があって、それがないがゆえに我々は悟れない・・・・そんな方向違いの観念、

  

そんなことより生きるために頑張る、そのため何かを集めなければという焦り、

 

外の世界の住人の、多くの人がそうだ・そうだというのが正しいという、嘘八百の刷り込み、

 

常に外の世界にこそ何かあるという商業的刷り込みの観念、

 

・・・・

 

外の世界は自己の投影という言葉のエゴ的解釈でもあろう。 

 

外の世界は、肉体自我の投影ではなく、それを含む「多次元的自己」の投影であり、 

 

多次元的自己の無限の最奥というのか、窮極の波動域というか、根源というか、神というか、 

 

その究極のひとつなる<わたし>・・・・の自己投影が、世界、森羅万象、多次元宇宙、多次元存在であり、多次元的星々であり、植物、動物、鉱物である。

 

そして、今のあなたやわたし達の周囲、環境、生きる世界、体験する世界は、そこから降りてきているところの、この次元域での1つの投影像である。 

 

世界は自己の投影であるというのは、 

 

あなたの肉体の手や足で、こね回してつくるものという意味ではない。 

 

こみかめを卍にして、汗をたらしつつ、必死に何事か思念することでもない、 

 

外の世界は、肉体自我の投影ではなく、それを含む「多次元的自己」の投影であり、 

 

多次元的自己の無限の最奥というのか、窮極の波動域というか、根源というか、神というか、 

 

その究極の<わたし>・・・・の自己投影が、世界、森羅万象、多次元宇宙である。 

 

翻って、わたし達やあなたの周囲、環境、生きる世界、体験する世界は、そこから降りてきているところの、この次元域での投影像である。

 

・・・・

 

だから、その身、そのままで既に、 

 

全てであり、窮極であり、無限であり、そこ・ここであるところの、 

 

いわゆる神の顕現そのものなのだ。 

 

何かを加工したり、必死で何かを獲得しなければ悟れないとか、 

 

知識を膨大に蓄積しなければ、神に近づけないとか、 

 

それらは真っ赤な誤解、そのものなのだ。

 

 

結果何が得られるだとか、利益があるのかとか、そんなものを付帯すべきでない。 

 

物があるとか無いとか、生活が苦だとか楽だとか、 

 

そんな観念を、在るがままの神聖さの周囲に引き寄せてしまい、

 

付帯させているからこそ、すでに・・・悟っていること・・・・に気付かない。 

 

癖のような繰り返し  「・・・で、何が得られるの?・・・・・」 

 

その観念こそが、全てを遠くに追いやっているのだ。

 

 

得られるも得られないも、既に人として・・・・そこに在るではないか。

 

だから、その身、そのままで既に、 

 

 

 

全てであり、窮極であり、無限であり、そこ・ここであるところの、 

 

 

 

いわゆる神の顕現そのものなのだ。 

 

 

もっともシンプルで、身近この上もないことこそが、実はなかなか気づけない。

 

放蕩息子の例えのように、他に何かもっと別のもの、外の世界の別の何かを探していることこそ、 

 

自己を忘却していることを示すのである。

 

 

だから、その身、そのままで既に、 

 

全てであり、窮極であり、無限であり、そこ・ここであるところの、 

 

いわゆる神の顕現そのものなのだ。 

 

 

 

 

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空(くう)は充満する意識 (16) 愛は神なる想い

2014-06-10 08:34:41 | 見えないものから見えるものへ

 

「愛」という言葉に何を感じるだろうか? 

 

「愛しています」等というと、どこか恥ずかしい感覚が特に男性諸氏にはあるかも知れない。 

 

西洋映画でよくある恋愛とか性愛とか、そういう風な「手垢」というか、男女が接吻して「愛しています」などという感じの繰り返しの洗脳パターン映画のような、 

 

愛=性を宣伝するかのような安直な感情がこびりついているようで、ことさら愛などという言葉に、こっぱずかしい感覚があるかも知れない。 

 

あるいは「神の愛」というものを錦の御旗として振りかざし、キリストの真意でない組織宗教を世界に広めつつ、 

 

実際には裏方でそれら何も理解しない西洋人たちが続々と世界に進出しつつ、

方々で富の簒奪を繰り返しながら、あちらこちらの植民地支配してきた経緯を見ると、そういう感情もどこかにあるのかもしれない。 

 

もうどうでもよいが、まるでそれは光と闇のコングロマリットのようではないか。 

 

そう、 

 

よくよく観るならば、人類上もっとも崇高な言葉の1つである「愛」という波動音にも、今まで相当な歪があったことに気付けるだろう。  

 

愛の意味、何かどこか気付いてはいるものの、本質的理解が浅薄このうえないものであったのだろう。 

 

愛と食欲、生存欲が意味不明で混濁され、愛と性欲、繁殖行為が一緒くたの鍋で煮込まれる、 

 

愛というもので人々がしばりつけられ、組み敷かれ、収奪される、  

 

金とふつうの石が同一視され、 

 

こころが、1g何千円で売り買いされる、 

 

馬の耳に念仏のような、そんな文化・文明でもあったのだろうか。 

 

我々がそのような馬であるならば、 

 

その馬は地上で生きることに必死で、 

 

・・・地上を含む無限大の天の住まいで、生かされていることに気付いていなかったともいえるのではないか。

 

・・・

 

「愛」を、それ仏教的に言うならば「慈悲」や「慈愛」というもので置き換えられるだろうか。 

 

いずれにしても、

 

他者、自己以外の全てのものを自分と等しく感じ、意識している事、・・・それが愛、 

 

本当に・・・身につまされる形でそういことを感じてもわかるはずだが、 

 

それは、そうあるべきだという「頭」での思考ではなく、いわゆる「ハート」の無条件の知覚とでもいうべきものであろう。 

 

なるほど「愛」とはハート、こころの中心からの「神々しい想いの鼓動」・・・ともいうべきであろう。 

 

確かに「ハート」のマークである理由が分ろうというものだ。 

 

・・・・・ 

もっともシンプルな愛、それは親が子に抱く感情というか感覚かもしれない、 

 

美しい自然を見て、感動とともに、時々うっとりすることかもしれない。 

 

また、機会は少ないかもしれないが、他人の喜びを、自分のことのように喜ぶ体験かも知れない。 

・・・・

 

そう、それは本質的に「無条件」なのである。 

 

人が勝手に頭のなかで創り上げて、損得とともに判断するような人工的な感情ではない。 

 

ましてや、見返りを計算して、嘘の笑顔や小さな親切を装うことではない。 

 

またよく誤解されるように、愛とは女性特有の感情でもなく、軟弱なウルウルした恋愛の感情でもない。 

 

そういう観念もまた作られた嘘であり、人の理解が未だ浅薄であることを示している。

 

・・・・・ 

よくよく身の回り、自分の生きている在り様、生まれてきたこと、人とのつながり、親子の間の絆、他者との関係性をよくよく観じてみることだ。 

 

利益がある関係とか、良い人、悪い人等という快感、不快感で見るべきではなかろう。 

 

本質的な関係性自体は「愛」であることが分るはずである。 

 

大自然がそこに在って我々を取り巻いている。 

 

実はこれが、もっとも大きな関係性だ、 

 

身の回りは、水・大気・土地、火、光・・・・・、それらに満ちているではないか。 

 

その中で生きている・・・・ではないか。 

 

都会であろうと、インテリジェントビルであろうと、大自然の外にあるわけではない。 

 

地球という次元惑星生命圏も、そういう生命を活かすためのもので溢れているのだ。 

 

あらゆる生命を「無条件」で生かしているのだ。 

 

しかし地球が、「わたしはあなたたちの為に頑張っている」・・・・等とは言わない。 

 

逆に、言わないからわからないではないか、というのは幼い証拠であろう。

 

・・・・ 

 

そこに在る・・・・のである。 

 

どこにでも在るのである。

 

いつでも、どこでも在るのだ。

 

・・・・ 

そう、在ること、それは無条件の愛のためとしか言いようがないではないか。

 

愛・・・ 

 

それは他者を自分と等しく感じている、思いやる・・・その在り様を言うのであれば、  

 

在ること・・・・それは確かに「愛」である。

 

・・・・

 

今までは、そういう本質的な「愛」から相当に遠くあり、自然から遠ざかり、 

 

都会の中で、競って富を生み出すためだけの、何かギスギスした競争意識、自我の主張、バトルによる生存競争感、 

 

必死にがんばらなければ置いていかれる、脱落してしまう、競争に負けてしまう、 

 

せめて自分だけは、あるいは家族だけは、子供達だけは何とか勝ってほしいという想い、 

 

そういうバトル・闘争のなかで「頑張ってきた」といわけである。 

 

そこでは本質的な愛は・・・・極めてマイナーであったとも言えようか。 

 

立身出世、末は博士か大臣か、・・・・全ては比較という檻の中での媚びた演技のようなもの、 

 

大勢の中でみんな、生きるために他を押しのけてでも頑張るんだ・・・という社会的観念プログラムが、 

 

人々の頭の中にベールのように掛かっていたのだろうか。 

 

言わば宇宙・大自然という愛の顕現の中にあって、

 

分けもわからず死を恐れ、自我の生き残りだけを必死に・・・求めてきたのであろう。

 

そうやって急き立てられる物事の中で、 

 

不本意にも、感情に歪を溜め込み、こころを傷だらけにし、 

 

それを押し殺したり、めくら滅法に爆発させ、 

 

あるいは逆にそれを癒してもらおうと、外の世界を探し回る、 

 

そういう人々の活動が、社会人の常識的な生活であるという観念が支配していたのだろう。

 

 

しかしながらようやくそれは終わりを告げた。 

 

水、空気、土、火、それらがなければ生きてはいけない事実、 

 

人間も、とどのつまりは、生かされていることを、すっからかんと忘れ果て、 

 

ただただ、自我の存続とそのための物資、環境を蓄積することを主命題としてきた。 

 

活かされている・・・事実に気付かず知らず、 

 

大勢の群れ、社会通念の流される方向に、その中で少しでも有利に浮かんでいようと、様々な画策や謀(はかりごと)をしてきた者たちもいる。 

 

いやいや、今はその最期の仇花まっ盛りでもあるようだ。 

 

・・・・ 

全面的に大自然に生かされていることを、すっからかんと忘れてしまった人類が、 

 

今その大自然の脅威におびえる事態が頻出してきたことは、 

 

宇宙・大自然に活かされている、それを思い出す時期にあることを示すものである。 

 

あー怖い、怖い、人の命だけは大切に、みんな気をつけよう、そうして対策を考えようとする思いも出てくるのは当たり前であるのだが、 

 

その前に、相変わらず自我の存続だけを主命題にして何とかしようとする前に、 

 

既にある事実、誰にとっても当たり前で、その多くを忘れ去っていたところの、 

 

大自然の大いなる意図、生命があまねく生かされている事実に気付かなければならないはずである。 

 

人間の間の愛だけでなく、大自然・宇宙という、さらに大いなる「愛」に気付くことである。 

 

「愛」があればこそ、様々な「存在」があるのだ。 

  

「愛」があればこそ、様々な「関係性」があるのだ。

 

「愛」があればこそ、様々な「命」があるのだ。 

 

これは単なる感傷でなく、当たり前の事実を言っている。

 

・・・・

 

当たり前であるがゆえに気付かないのか? 

 

当然であるがゆえに、忘れているのを当たり前として、せせら笑っているのか? 

 

そんなこと今更言うのはおかしいと言うのか? 

 

感傷的になっても何の益もないと言うのか? 

 

そういう場合は、無条件の愛・・・という、森羅万象・宇宙・大自然の根幹に、 

 

未だ気付いていないことを示すかもしれない。 

 

愛・・・

 

それは他者を自分と等しく感じ、意識している、思いやること・・・その在り様を言うのであれば、 

 

・・・それは確かに「愛」である。 

 

そして、それは無限の昔から、ずっと・・「神」といわれてきた。 

 

神とは、・・・全てを<わたし>と感じている、創造している、存在している、・・・それ。 

 

そしてまたこうも言えるだろう。 

 

次元降下とは・・・魂が、愛を少しずつ忘れる体験のことであり、 

 

次元上昇とは・・・・魂が、愛をハートで思い出してゆく体験のこと。 

 

今は、もう、これからどちらかを選ぶ稀有な分岐点、魂の選択の時節になっているようだ。 

 

人々はこういう話を、非現実的だと感じるだろうか。  

 

愛すべき、水、土、大気、火、そして光は、すでにその鼓動を高めているその時に・・・・。

 

 

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空(くう)は充満する意識 (15)今後あり得る地軸の移動 

2014-06-05 08:08:43 | 見えないものから見えるものへ

●地球物語における起承転結

 

自転、公転などの「地球固有」の運動、そのもっとも大きいサイクルは歳差運動だ。

 

それは12星座の一回り、25800年とされている。

 

コマの自転軸もゆっくりと移動するが、回転地球も25800年で、全天に対して1回りする。

 

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このサイクルは地球の生命圏の進化のサイクルに関係しているとも言われている。

 

1サイクルは約26000年、その中の4つのフェーズは6500年、

 

・・・・ストーリーの起・承・転・結のような特徴あるステージとなっているようで、

 

その約6500年の切り替わりの度に、地球に大きな変化があるとも言われている。

 

大きな変化・・・それは時空間的、存在周波数帯域の「模様替え」のようなものであろうか。

 

また惑星上に意識存在、想念形を送出する存在がいれば、それらの存在達の、魂の表現レベルの進化的変移があるとも言えるし、

 

それはまるで進級、進学のようなステップを連想させるだろうか。

  

進級、進学などといっても、世間であるような進学、知識の蓄積、左脳機能拡充のことではなく、魂の進級・開花レベルのステップアップのようなのことだが、・・・・・

 

・・・・・

例えて言えば、

  

地独自の運動パターンである26000年の歳差運動という1つの大きなサイクルは、地球生命圏の言わば学校で言うならば、1学年、4学期?のようなものかもしれない。

 

魂の体験学習において、26000年は肉体生命としてはずいぶんと長いようで、魂の体験学習として短いものではないだろうか。

 

仮に人の魂の転生が100年ごとに繰り返し、生と死、3次元現実と1つ上位次元での「休憩」の繰り返しを行なったとしても、せいぜい多くても、3-400回程度であろうか。

 

もっとも3次元以上の次元では、均等に流れる直線時間は存在しないので、単純な計算もできないかもしれない。

 

その26000年の地球固有の進化サイクルが、今ちょうど最終段階にあるようで、つまり26000年の1大スパンの終わりの時期に来ているということなのだ。

 

26000年、4×6500年の起承転結の最後の・・・「結」の終わりにあるということである。

 

え・・、マジ?であるが、・・・・あなたはどう感じているだろう。

 

常識観念からくる癖の様な判断思考からでななく、

 

・・・・何も考えずにこのことを「感じて」みるとよい。

 

あなたの潜在意識下では、その間における魂の履歴を思い出すかもしれない。

 

 

●数千年毎にある地洪水伝説

・・・・ 

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アトランティスの崩壊は12000年前頃とされているし、その前のレムリアはさらにその12000~13000前という話もある。

 

人間から見れば目がくらむような太古であるが、地球から見ればほんの一瞬でもある。 

 

また現在知られる、人類最古の文明はシュメールだという説、それはbc4・5000年ころとも言われており、つまり6000年前あたりからであり、そこから後に、教科書で出てくるようなメソポタミア文明、インダス文明のような河口沿いの4大文明が急に出現してきたようである。 

 

そしてそれら古代文明の記録の中に共通するのは、ノアの箱舟伝説、ギルガメシュ叙事詩等で示されるような、太古の時代の洪水伝説である。 

 

古い民族、有史以降のマヤ、アステカのような、欧米文明に既に滅ぼされたか、天に上ったか、地に下って行ったか、民族同化してしまったかは別として、その古い民族伝承に共通するのが、洪水による文明文化の短時間での崩壊なのだ。 

 

口伝え、文字伝えで伝承されてゆく経過の中で、様々な人的脚色変化等があるわけだが、世界各地の古民族の伝承に共通するのは、急速に発生した短期間での「洪水」による文明の滅亡である。

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●世界の短時間での様変わりは自転軸の移動で起きる

 

有名なチャーチワードの調査した、太平洋のムー大陸の沈没の伝承も極めて短時間であったとされている。 

 

文明が滅びるにしても、そんな数日化か数年かというような短時間であるわけはないとする感覚もあるが、 

 

確かに、洪水や地震や地殻変動は、予期なく急激に発生するものである。 

 

今現在、あちらこちらで特に洪水が、小さい領域であるが既に起きているはずである。 

 

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(不可思議な石積みで築かれた太平洋のナンマ・ドール遺跡)

 

短期間であっという間に地上の一大変化が起きる事象の原因。。。。、

 

もっとも可能性のあるものは、そう・・・<地軸の移動>・・・である。 

 

地球の自転軸が何度かずれると、土地の数十mから数百m、大きな傾きであれば数千mの昇降があっという間に起きてしまう。 

 

日月神事でいうところの 「ある場所では・・・お土が上がる、あるところでは・・・お土は下がる」ということだ。  

 

地軸がグレンとひっくり返って、土地の沈降と隆起が起きるという意味である。

  

土地の一大沈降と隆起が起きるって?  そんなあほな! 

 

いや、それはあり得ること、いや何度もあった話である。 

 

 

とんでもない規模の変移であるがゆえに、前後での物理的変化が物凄いため、アトランティスやらムーやらの伝説の、物理的痕跡が少ないのだと言えよう。

 

昨今、海底で古代都市の発見などが相次いでいるようだが、これはイメージ系としての古代文明の再浮上といえなくもないのである。 

 

 

●地球の楕円構造が地殻の上下動を起こす

 

なぜならば、地球は真球ではなく、自転による遠心力で赤道の方が20kmほど、北極・南極の軸長よりも大きくなっているわけで、 

 

自転軸が変化すれば、緯度や経度は変化し、あるところは高くなり、あるところは低くなることが分るはずである。 

 

計算すれば分るように、地軸が1度ずれても、その地点の緯度によっては数百mの土地の隆起や陥没が起きることになるのだ。 

 

その地軸のずれ方の時間の長さによって、土地の沈降、隆起や膨大な海の水の移動の速さが決まってくる。 

 

<ゆっくり>地軸がズレれば、地殻変動はゆっくりとなり、<早く>ずれれば、急激な変化となるわけだが、

  

今の現状は、どうもゆっくりのような雰囲気ではある。

 

遅い早いはあるにしても、いずれにしても地表面は様変わりし、都会は海に沈み、忌まわしい原発、核兵器等も地中深く沈められるだろうし、 

 

あらゆるものが、それこそ水で洗い流される、地球規模の「洗濯」になることだろう。 

 

あなたやわたし達と同じく、「地球」がシャワーを浴びて自らの体を洗わないとどうしていえるだろうか。

  

何とも言いようがないが、 

 

集合意識、地球意識は最終的にこの選択ならぬ、「洗濯」を決めたのかもしれない。 

 

確かに、何事も再生するためには、汚れたものは洗う必要があるわけで、

 

いや人類の集合意識の大方が、それ自ら身を正さぬがゆえに、そのよって立つ母なる大自然自体が浄化をすることになったのだろうか。

  

なるほど、母なる地球の意思ならば、誰も文句は言えない。

  

とにかく、自然、人間含め、あらゆるものが単なる「物体」であるという考えは大きな間違いであることに気付かなければならないという事だ。

 

ここが肝心かなめなところである。

・・・ 

仮に、

 

極地の氷が溶け水分量が増し、大気の動きや重量配分が大きく変化をし、

 

あるレベルまで行って最終的な安定点を見出すべく地球の回転軸が変化したならば、

 

当然ながら、海の水は高いところから低いところに流れ込み、現在起きている局所降雨でのミニ洪水どころの話ではなくなるし、その数十、数百mにもなる海水移動の波高はあらゆるものを洗い流してしまうのである。 

 

地軸の移動? 

 

そんなばかな!・・・とは思うけれども、普通の物理的考察でもそれは可能性として「あり得る」と言わねばならない。

 

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(3次元的な・・・地球内部の階層構造)
  

 

我々の科学的認識では、地球は均一な剛体球ではなく、何層かの異なる層、固いところと流体状のところなどで構成されているとされているわけで、その内部の層の回転率、電荷を帯びた内核の回転(スピン)によって地磁気が生じ、 

 

また地球内の異なる層の運動、動きの違いによって摩擦が起き、その摩擦熱でマグマが生成されているとも考えられるのである。

 

確かに、均一な剛体球であれば、大きな彗星や隕石がぶつからない限り運動量の保存によって、回転軸が変わることは考えられないが、

 

内部の流体状の層が緩くて流動的であれば、

 

地表面の大気の移動や融解する氷による水の重さの変化によって、

 

外側だけが滑る場合も考えられるわけで、その場合は地軸の移動もあり得る。 

 

もっとも公的なアナウンスも、権威筋からの科学的な報告も、教科書に記載されているわけでもないが、

 

現在その地軸はかつてない急速な動きをしているとも言われている。 

 

・・・・ 

●事前にある人為的・自然的兆候

 

何か知っている筋の者たちは、地球温暖化やらなにやらという、半信半疑ながら、何かありそうだという予想を、間接的で作為的な情報に変換して事前にリークしているようである。 

 

黙示録で言うならば、そういう次なるステージの「ラッパ」を吹く人が増えてきた、 

 

事前に吹くラッパ・・・人為的に、自然的に・・・起きうる変化を事前に示すことを言う。

 

当然、嘘も本当も混じっているが、大体が「火のないところに煙はたたない」ものである。

 

支配層や富裕層、防衛組織、軍事組織等は、常識観念のなかで愚鈍化しつつ、安心して眠っている一般大衆とは違い、予知予言や、トンでも系といわれるものや、いわゆるオカルト的な情報等も含め、眼を皿のようにして様々な情報を収集しているからだ。

 

二酸化炭素問題は、要するに、2酸化炭素 ⇒地球温暖化 ⇒極地の氷が融解 ⇒水面上昇・・・といっている。 

 

主原因が文明活動による2酸化炭素の増大としているが、この部分はとってつけた、尤もらしい仮説に過ぎない。 

 

確かに1つの要素であるが、全てではない。

 

いつもそうであるが、マスメディア等は、口伝え機関であって、結果としての<嘘>のつき方が巧妙なのである。(笑)

 

地球温暖化問題は、様々な勢力間の思惑や、2酸化炭素売買の新たな利権の創出なども含まれているのだが、 

 

問題は、最終的に・・・「海面上昇」のことを言っているわけで、それが急速に起きれば「大洪水」となるということだ。 

 

そして、原因が2酸化炭素増大ならば、すぐにどうという事もなく、ゆくゆくは起きるとしても、まだまだ余