気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

目覚めの道程(15)宇宙意識に気づく

2018-10-23 08:41:48 | 真我実現シリーズ
空(くう)中にある物質・エネルギー形態や、
その位置や変化の相互関係は観察・観測・測定できるが、

無限の空(くう)自体は・・知覚も測定も観測もできない。

なので、空(くう)はなんとも説明も記述もできない。
ただ・・ある・・としか言えないそれだ。
物質形態がそこに存在できる・・スペース、無次元、無限、の母体・・とでも言える。

ここでは空(くう)という風に言っているが、
実際・・それ・・とでもいうしかない・・それだ!(笑)

あなたは空(くう)が見えるか?
空(くう)がつかめるか?
空(くう)を触れるか?
空(くう)を嗅げるか?
空(くう)の味は?

いいや、できるわけもないが、
我々はこの無限の空(くう)の中にいる。・・・
いや、中というのも変で、
外や内、ここ、あそこという2元性の表現では不可なので、

わたしたちは、まったくの無限の空(くう)の中・外ではなく、

まったくの無限性・・そのもの・・という以外にない。

そして、
その無限の空(くう)の中に様々な物質・エネルギーが出現消滅している。
我々の身体でいえば、
物質性はその0.000・・・1パーセントの占有率でしかないが、
それ以外のほとんどすべてが・・空間である。

宇宙もそうだし、我々の肉体、そして想念、心もそうだ。

さらに、
想念、思考、イメージ、そして情報も知覚対象であり、
空におけるある種の存在形態である。

もちろん五感で知覚可能ではないが、
あなたは自分の想像、イメージに”気づいて”いるだろう。
五感で知覚できるあからさまな物質次元の”物体”ではないが、
それも一種のエネルギー・波動であることは明確である。

それらはあなたの知覚対象であることに相違ない。
それは物理次元とはちがう、
高次元的なレベルでの波動・エネルギーといえる。


それらの波動・エネルギーが無数に出現・消滅している、
そのもとは・・無限の空(くう)あるいは「それ」である。

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ちなみに、現代科学、量子物理的解釈では、
真空は何もない空間という定義はなされていない。
何も無いように観察されながら、それは全てを生み出す量子で満ちているのである。

(ウイキペディア・日本語版)より参照
現代的な用語法では、「真空」という言葉は「何もない空間」と同義語ではない。真空状態でさえ、空間は宇宙を構成している量子化された場で満たされているのである。真空とはそれらの場が「可能な限り」低いエネルギーをもつような状態であるにすぎない。

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空(くう)には大きさも、重さも何もない、
距離も次元も何もない。
しかしながら、そこから様々な事象・事物・エネルギー・波動、
諸世界、多次元が出現・消滅する。

空(くう)には大きさも重さも距離もない、
あなたの身体を占める空間は、宇宙の全空間と同じ・・
空(くう)であることが理解できれば、
あなたの身体の空(くう)も、宇宙の(空)も等価であることが知れるだろう。

空(くう)自体には、大きさも次元も何もない。


そして、その空(くう)は、意識で満ちている。

なぜならば、宇宙が事物・事象で満ちているからには、
それを知覚している”意識”がなくてはならないからだ。

あなたが人として、
意識によって周囲世界を知覚・投影しているように、

宇宙も”宇宙意識”によって知覚・投影されているのだ。




目覚めの道程(14)時空間は 単なる認識の1様式

2018-10-17 06:04:28 | 真我実現シリーズ

我々が漠然と「空間」と言っているものは、
物と物との間のこと・・空(くう)のことを言っている。

物、物質形は観察・観測・認識できる。
しかしながら・・
「空間自体」は、観察も観測もできない・・空(くう)である。

空(くう)自体は見ることも触ることもできない!
大きさも、重さもなく、姿形もない。
次元もなければ、距離もない。

いや、距離があるじゃないか、机とTVの距離、町と町の距離、
宇宙における星と星の距離があり、移動するには時間がかかるではないか。
新幹線でも東京~大阪間の距離で、移動に時間がかかるではないか。
現実に、空間・距離があるじゃないか・・と。
「東京・大阪間は約550km、・・距離があるじゃないか!」
あなたはどう思う?

空間、距離とは、
物質と物質、その領域と領域の関する「認識」の1つの様式なのである。



ここで、今説明している根幹にあるには、
物質それ自体は、それとして存在しているわけではなく、
それを知覚・認識しているからこそ、存在できるということである。

これを簡単に言えば
「意識」によって「物質」が存在認知される!ということだ。

現実に、あなたが見て、触り、大きさ重さを測り、においを嗅ぐなどしなければ、、
あなたにとって・・その物は存在しないと同じなのである。
同じく、人の集団であれば、多くの人がその物を知覚・認識しなければ、
その物は存在しないと同じなのである。

どのような事象、事物も・・”認識されなければ”存在し得ない。

唯物論的世界観は、時空間のみが存在するいわゆる「4次元世界」観であり、
不可思議にも人間不在の観念体系だ。
人間つまり意識的存在のことだ。
意識を除いた世界観では、機械的なものが機械的に動くだけの世界。

まともな学者も、”意識がどうして生まれるのか?”と、
意識を使って悩んでいるのだ。

最も身近であるそれが、意識それ自身が・・見えていない。
気づけば、実に滑稽な話ではないか?

常識観念世界で、多くの人は、
物がある、事実がある、事件がある、あれがある、これがある、
これらはすべて現実である、事実であると漠然と眺めているだろうが、

それらは永遠の事実でも、不動の現実でもなく、
認識の1様式に過ぎないのである。

認識とは、知る・認める・・という「意識」の働きである。

話を空間に戻すと・・・、
誰が見ても客観的とされる、空間とは
物質と物質の間であり、物差しで何cm、何m、
あるいは電波で、何km、何百km、、はては何光年という風に、
それはいわゆる”計測される”認識されるものである。

つまり、意識の働き、認識の働きがなくて、「空間」は存在しえない。
あるいは、空間とされるものも、意識なくば存在しえないのだ。

また空間としてあるのは、知覚されえない・・空(くう)であり、
それは大きさも、重さも、形もさらに次元さえ知覚されない。

そう、空(くう)自体には「距離」などないということだ。
距離も時間も、意識の・・認識上の1様式に過ぎないのである。

意識において、あれやこれやと考えること、
それをマインド、こころの働きとするならば、

「時・空間」は不動の現実などではなく、
マインドで描いている仮想現実ということになる。
仮想現実、常に変化する現実、・・だ。

そうであれば、
意識がなくば、その対象たる時空間も諸物もない。
あなたがいなければ、あなたの世界・宇宙もない。
あなたの見ている広大無辺な無限の宇宙も、あなたによっている。
そして、
その大勢のわたしたち・・が共同で投影する世界が、今現前する宇宙だ。



すでにあった宇宙の中に、肉体個人としてのあなたが偶然生まれ、
そして死んでいく、刹那的存在でしかない・・という常識思考は、
「わたしは物資・肉体である」・・という根本的な”誤認識”なのだ。

そう、それもこれも、様々な誤認識も含め、
自らが認識主体である「意識」だということの証である。

我々を取り巻く・・と見える世界、時間空間は、
気づきを根源とした意識の働き、認識の単なる一様式に過ぎない。



(つづく)

目覚めの道程(13)空間は実在しない?

2018-10-13 04:38:21 | 真我実現シリーズ
一般的な当たり前の常識としての「時間」は実在しないものだ。
時間とは人間の作って、使っている便宜の観念である。
社会、国家、文明、地球で普通に使っている「時間」とは”観念”である。

多くの人は漠然と通り過ごしているのだが、
時計やタイムウオッチは、”時間”を計測しているのではない。
漠然とそう思っていただろうが、そうではない。

これも単なる思い込みと言えようが、ことはそんなに簡単でなく、
とんでもなく重い、仮想の「束縛観念」である。

人が、時間の中で束縛される者・・という信念があれば、
それが経験され、再現され続けるのである。

ちょっと常識的に言うならば、時間とは・・、
出来事と出来事、物の運動と運動の”間”・・のことである。

時間は、観念・概念として存在するが、
「時間そのもの」は実在しないのだ。


出来事と出来事、物の運動と運動の間を知る、認識するのは「意識」の働きだ。
機械がそれ自身で観測、計測などしない。
人間、いや植物人間ではなく(笑)意識をもった人間である。

何かに”気づく”・・ことがなければ、その何かは・・存在しない。
そう、意識・気づきの働きが無ければ・・時間もない!

これが腑に落ちるまで、理解できるだろうか?

人は生まれてから長い間、時間の束縛観念の中で生きてきた。
今でもその傾向はあり、社会・生活で便宜上それに従ってはいても、
それは架空の概念であることを知っているならば、
単に1つの道具のようなものとしての位置づけでしかないだろう。

よく試験や仕事などで、「あー、時間がない、時間がない!」と言うが、
もともと時間など無いのだから。


不思議の国アリスのウサギさんは、さも大事そうに時計を抱えて走り回っている。

---
さて、「空間」とは実在するのだろうか?
現実の体験を交えてちょっと掘り下げてみると。

あなたが何かを見ているとして、
様々な事物があり、
その無数の事物、物質、形の”間”のことを「空間」と言っている。

物と物との「間」であり、町と町との間、星と星との間も・・「空間」だ。

すでに認識しているはずだが、その間は・・空(くう)である。

物と物との間の空間・・は空気層を除けば「真空」である。
真空に空気分子が充満しているため空気の動き・風を感じるが、
その空気分子も微小な物質粒子であり、それを取り除けば、真空である。



そう、
空間とは・・物があるからこそ、あるものだ。
いや、あると・・認識、観察、測定している。

また、空間そのものは・・空(くう)である。
つまり、
物だけが見えて、空(くう)そのものは・・見えない!
重さも長さも、何もない。

空(くう)は見ることも聞くこともできず、観察、観測さえできない。
---

我々が漠然と「空間」と言っているものは、
物と物との間のこと・・空(くう)のことを言っているのである。

物、物質形は観察・観測・認識できる。
しかしながら・・
「空間自体」は、観察も観測もできない・・空(くう)である。


「空間」が実在すると思っていただろうが、
空間自体・・、空間と書くように、それ自体は・・空(くう)であり、
時間と同じく実在せず、それはやはり「観念」「概念」なのである。

・・、でも、そこにあるじゃないか?というだろう。
例えば、目の前にあるパソコンとマウスの空間・距離があるじゃないか!
と言うだろうか?

しかしながら、その空間とは「空(くう)」のことなのだ。




(つづく)


目覚めの道程(12)空間は実在するか?

2018-10-10 04:54:18 | 真我実現シリーズ
時間とは実在しないものだ。
周囲、環境、世界、様々な事象の変化がある。
人類の歴史とは、その変化の時系列的記憶・記録のことだ。
記憶、記録・・人の意識的な行為だ。

世界を見ている、聞いている、考えている、
それも「意識」の働きである。
そう、時間は・・意識の中にある。

今・・のこの一瞬に・・「時間」があるか?
一瞬、一瞬という・・今は「時間」であるか?

普通、「時間」が勝手に独立で存在していると「考え」ている。
カレンダー、時計、スケジュール・・それは便宜上の作り物だ。



瞬間・瞬間の記憶が一連の記憶の流れによって「時間」の流れを生み出す。
生み出すといっても、勝手に存在するのではなく、
”あなた”がそれを一連のストリームとして知覚・記憶・再生・想起するのだ。

あなたが幾歳であろうとも、
例えば、
「年を取ったなあ、生きてきたなあ・・」と、
人生の節々で過去を思い巡らすのは、常に今・・なのである。



あなたの人生の無数の記憶は・・過去という名の、
今の連続ショットの・・今・・再生なのだ。
過去の楽しい、苦しい記憶も・・今よみがえる。

あるのは・・今しかない。
あるのは・・とらえどころがない・・今、

その今・・は「時間」量ではない。
・・・

時間があたかも実在しているかのような通念で生きてきた。
通念、常識は、とりあえず生きるための方便としての観念だが、
支配や生活に便利な対処方法のようなもので、真実とは限らない。
いや、それは常に仮の処方でしかない。
プラグマティズムなども同じだ。

自分さえ、いまさえ良ければ、とりあえず・・。
真実などどうでもよい・・、という根の思考だ。
これがこの世の、いわば悪夢の世界に固定する。

社会的通念、常識、漠然とした習慣、それを疑う必要がある。
それが探求といわれるもの。

これは本当なのか?
これは真実なのか?
嘘から、夢から覚めるために必要なことである。

これを熟考せねばならない。

いや、ここでは、稚拙だが、すでにそれを示している。
余計なお世話だが、
言葉を眺めて通り過ぎるだけでは難しかろう。
ずいぶん偉そうな文章だが、これも一興とされたい・・笑。

たくさん覚え、それを、同じように再現、書き出すのが、
今の基本の教育といえようが、
”自らの意識”で、真実はどこにあるか?と真剣に”問いかける”必要がある。
そうでなければ、
言葉や概念という無数の言葉、情報・観念の洪水のなかで埋没するだろう。
量的優位さはAIやロボットに適うわけはない。
この意味でも、人存在は・・心すべき・・時が来ている。

・・・
時間とは実在しないものだ。
周囲、環境、世界、宇宙と様々な事象の変化がある。
人類の歴史とは、その変化の時系列的記憶・記録のことだ。

今・・のこの一瞬に・・時間があるか?
一瞬、一瞬という・・今は「時間」であるか?

いいや、
それは人間の作り出した「観念」以外の何物でもない。

それでも世界は続く、生活は続く、
今の瞬間が創造の噴出点であるからだ。
どのように・・あるか?ありたいか?
それがいわゆる創造の根源から期待されているのだ。

あなたは、今の瞬間に、
創造世界が現れているのを観察しているのだが、
様々な雑多な観念・想念がその今の周囲にたむろしているため、
どこか悪夢のような、その雑多な観念、想念を眺めるだけで、

観ていること、事の重大さに、・・
それに気づかないだけのことだ。

時間は、その根っこにある固定観念である。
魂・意識はそれによって束縛されている。

観察は・・観察者と観察対象それ自体を変質させる。
想念は、その変質によって放射する波動といえよう。
そして、
想念を観察することは、意識的存在を・・変える。

あなたが幾歳であろうとも、
例えば、
「年を取ったなあ、生きてきたなあ・・」と、
人生の節々で過去を思い巡らすのは、常に今・・なのである。

あなたの人生の無数の記憶は・・過去という名の、
今の連続ショットの・・今・・再生なのだ。
過去の楽しい、苦しい記憶も・・今よみがえる。

あるのは・・今しかない。
あるのは・・とらえどころがない・・今、

その今・・は「時間」という架空の観念ではない。

・・・

さて、世界という名の、時間・空間の
「空間」はどうだろうか?
空間は実在するのだろうか?



目覚めの道程(11)時間は存在しない

2018-10-06 05:55:34 | 宇宙的気付き
意識は物質に先だつものだ。
先と後といえば、時間の経過を含む意味にとらえがちだが、
時間とはそもそも存在しないもの。
いまだ時間が実在すると考えているならば、まずその誤認識を改めたほうが良いだろう。
時間は物事の時系列的”経過”であって、今の瞬間の連続記憶に過ぎない。
在るのは・・今・・と言われるのは、スピリチュアルな意味深な比喩ではなく、
それそのものが・・事実である。
長い歴史や記録、知識があるではないか?というならば、
それは「今」の瞬間の変化・・今より出現した事象・現象、
そして人々の体験の記憶、記録なのである。

カレンダーや原子時計はあるが、それが「時間」を作っているわけではなく、
太陽や月や、ミクロの原子の規則正しい”変化”のことであって、
それを参照して、生活のリズムを合わせているだけであり、
決して「時間」そのもではない。

世界あるいは宇宙を表す、「時間・空間」という言葉の、”時間”とは、
実は存在しないのである。

そんなはずは?・・・という御仁がいるかもしれないが、
これを理解すれば、その意識に深く大きな波紋を生じるだろう。

この世的な五感感覚の激しさに慣れたマインドが求めるような、
現象面や肉体面でのど派手な爆発的変化ではなく、
真実、世界とは何か?という理解に転換が起きるだろう。


「時間」とは、様々な事象、現象、体験を、
「記憶」という意識的な働きで繋げたものなのである。

古代史、現代史という歴史は、常に今・・想起・発見、記録されたものである。
それは誰がやってきたのかといえば、人であり人の”意識的”働きによってである。

我々は・・世界、つまり時間・空間の中に・・存在する、といわれてきたが、

その「時間」というものは、実はフェイク(嘘)というのは恣意的すぎるものの、
実際には存在しない概念であったならば、

あなたは、「時間空間」という次元枠の1つが存在しないものだと気づくだろう。

時間は、単に概念・観念・言葉であり、
それが何か私たちを縛っているような感覚をもたらしてきた。

時間が主(あるじ)で、
意識的存在である人は、従者のように、
それに従わなければならないという・・従属的感覚である。
感覚というよりも、これは思い・信念である。

意識、想念は、事象、事物・環境・世界に先立って現れるため、
一定範囲内で自由を確保しつつも、
大枠では決して自縄自縛状態から逃れることがなかったのである。

私とは、地球という時間空間の中に生まれて死ぬ、偶然の肉体人間であり、
とりあえず、自らや家、一族の存続をはかることが先決で、
そのための一生であるのは致し方ない・・という信念であれば、

時間。空間を超えているはずの、「魂・意識」は・・、
それ自らの意識の方向性、意図・想念によって、
繰り返しこの次元世界に生まれては死ぬという経験をする。



ある側面でいえば、この世界に存在している人は、いや魂は、
別の無数の ”今の”経験記憶 をすでに有しているがゆえに、
今ここに出現しているとも言えよう。

超簡単に、誤解を招くかもしれない表現をすれば、
あなたという魂・主体意識は、かつてあるいはこれから・・という
過去と未来において、
この閉じられた時空間を超えた世界、あるいは宇宙での記憶を持つのである。

それ自体何も記憶を呼び覚まさず、つまり前世などという、
わたしの意識の経験の膨大なすそ野も思い出せないのは、

たった1度の人生の時間しかない・・という意味不明な出どころの信念の縛り。

時間など存在せず、今ある意識が在る・・ことを悟れば、
意識という、無限に思い・感情、想念を生じる・・それの中、
今・・在る・・そのわたし意識の中に、
無数の想念・記憶も含まれることに気づくだろう。



波動的に言えば、1つの波動形は、無数の波動の集約である。
同じように、

在るのは・・今・・しかなく、
その今の中には・・無限の可能性も内在し、
さらにその無限性の中には、当然ながら過去の経験記憶も、
未来の経験可能性も含まれるのである。

時間という束縛は本来存在していない、
観念だけがあったのだ。

過去も未来も、いま・・在る。
それは決して閉じられていない・・

無限の・・今の瞬間だ。