気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

大いなるわたしへ(1) さらばエゴよ

2011-05-29 12:03:53 | 覚醒意識

あなたは、世間の物言わぬ人々が漠然と信じているかもしれないような、単に偶然の肉体人間なのか、

 

あるいは朽ち果てる運命の肉体以上の存在なのか・・悩んでいるとしたら、今まさにその通りの、気づき始めた存在であるといえるだろう。

 

そんなこと眼中にもどこにもなく、肉体維持に必要な物質的富や名誉を追いかけ回すだけであれば、今は未だの人であろう。

 

表面の世界で偉そうにしている人々は逆にそういう人達であろうか。

 

良くも悪くもない、偉くも愚かでもない、

 

多分、良くわかっていない・・唯それだけのことなのだ。

 

・・・・

あなたが、不滅の魂的存在であるということを自らで追求し始めたとすれば、その意図への反応として、魂の不滅を次第に理解してゆくことになるのも事実である。

 

真剣に求めれば、与えられるものであり、

 

こころを込めて叩けば、扉は開くものである。

 

これはいわば霊的法則である。

 

例えばあなたが前世等を知りたいと想うようになれば、あるいは思い出したいと思うようになれば、

その想いの程度によってその分だけ知ってゆく、あるいは思い出してゆくことになるということだ。

 

退行催眠でも前世リーディングでも今は普通に行える時代になりつつあるし、

 

また夢や瞑想、あるいは科学的なヘミシンク等によって、自らの内面からの湧きだす情報をつなぎ合わせても可能なのだ。

 

全ては「今」のあなたの想いと意識的行動にかかっている。

 

そうやって、あなたが「わたし」と感じているものが、

 

実に広大に繋がっていることに気づいてゆくだろう。

 

ここが肝心なのだ。

 

例えて言えば、

 

これからは、スタンドアローンの個別別個、隔離と切り離しの時代ではなく、

 

すなわち「エゴ」で生きる時代ではなく、

   

個々が個々でありながら、

 

良い大きなサーバーでもある「あなた自身」に気づいてゆく、

 

意識的ネットワーキングの時代である。

 

・・・

人が生まれて死んでゆくこと、

 

じいさんもばあさんも亡くなってしまった、あの人も病気で逝ってしまった。従って人は不滅の魂なんかではない。

 

一般にそう思うかもしれない。

 

しかしそれは違うのだ。

 

じいさんもばあさんも、他の人も、あなたやわたしから見える外見の姿でしか、とらえていないのだ。

 

外見が消えたといっても、その当人の主体・魂というものが無いとは言えない

 

あなたが「当人」という意識でなければ決してそれを証明できないことなのだ。

 

あなたもわたし達も、いずれそれを自らで、自己証明することになることだけは間違いない。

 

これは誰にも共通の、最も大きな問題・テーマではないのか。

・・・・

 

この刹那の世相の騒ぎに巻き込まれているだけで、

 

自らのいわば卒業の為の用意を、この現実生活において何もしなくていいのだろうか?

 

一体全体、何を正しいものと信じ込んでいるのだろうか?

 

自己顕示の好きな、普通の人々の集まった政府か?

 

物言わぬ、いつも責任者などいない社会の通念、常識なのか?

 

 

有名大学の先生の講義なのか、有名企業のトップのモチベーション訓話か。

 

全てではないが、わたしの経験によれば、それらはその人たちの、功利主義的知識を単に語っているだけである。

 

上手に生きてゆくためのツールの話をしているだけのことだ。

 

包括的命題に答えが出るなどと期待などすべきでもない。

 

逆に、世間が認めるような、そういう権威筋からのパフォーマーには、

見てほしい、認めてほしい・・というような魂レベルの訴えのほうを感じないだろうか。

 

それゆえなおさら権威を求めているのではないのか。

 

彼らの語りは、

 

命や生と死という、より大枠の次元の話ではない。

生と死のテーマは当然他人が解決するものではないということでもある。

 

 

また目立ちたがり屋のそういう人達が、魂やら生死やらを理解しているとは到底思えないではないか。

 

また、お金や名誉や富が、生死の問いかけのなんの役に立つのだろうか?

 

多くの人は、多分、生きている間に、生と死を克服するべきテーマを持っているのだが、

 

世界に出現降下した瞬間から、荒い波動の渦巻く観念の流れに巻き込まれ、

 

その下地である「生きている」・・事だけに特化してしまっている風潮があるだろう。

 

無意識にとりあえず生きている・・・という感じであるが、どうだろうか。

 

先延ばしにしたがるのは、国の借金や核の汚染物質だけではない。

 

今の瞬間の生への注目でなく、

  

ずっと下がったところの、今の自己利益にこだわるがゆえに、

 

全体が見えてこず、解決すべきものを先延ばしにする風潮があるだろう。

 

最も本質的な部分での先延ばし・・、

 

生きている者としての、

 

生と、

 

そして「生」を 生たらしめているところの「死」の問題ではないのか。

 

「生」を真っ当に生かすための「死」から逃げていること。

  

これが今までの世相であったのだ。

 

そうであるからこそ、生が歪(いびつ)になり、生きることが苦になるのだ。

  

生と死も、善や悪と同じく、2元性のなかにある単なる現象である。

 

生と死が1つの現象の表と裏であることが解れば、生も死も恐れることではないことに気づくはずだ。

 

いわゆる魂が不滅であるということは、至極当たり前のことになる。

 

滅するとか、期限があるとかいうのは、人間が単に、時間空間の中に生じた物質的生き物であるという観念によっている。

 

時間空間を生じるところの意識が、

 

自らの生成した時間空間にどうして支配される必要があろうか。

 

 

近代以降の欧米の合理主義も砲艦外交も、何の役にも立ちはしない。

 

貨幣も物資流通も、生産加工品の数々も、なんの役にも立ちはしない。

 

我々は、欲望の前倒しと、肝心かなめな事に対する先延ばしの観念のおかげで、今のような世界を作り上げたのだ。

 

あたかも物質で出来たまぼろしのお城の中の奴隷でいたようだ・・・

  

そこに何度生まれてこようとも、またそれすらも気づいていなかったのだ。

  

それはあたかも、気がつけば、どこかの砂場で遊んでいる・・幼児のようなものかも知れない。

  

わたしは誰?ここはどこ?・・・・・

  

それでも繰り返しのおかげで次第に霊的に成長してきたとも言える。

 

ああ、確かにわたしもそうだ。

 

・・・

人が死ぬということ、

  

他者が言えるのは、その人の肉体が朽ちて消えた・・ということだけなのだ。

 

人は肉体的存在である・・という観念が前提であれば、まさに全て消滅したと感じるであろうし、すべて終わった・・何もなくなった、となるであろう。

 

しかしそれはその「観念からの見解」にすぎない。

 

今の物質主体の社会通念はそうなのかもしれない。

 

しかし、事実は小説よりも奇なり・・・それが常なのだ。

 

外見しか見えていない我々が言えるのは、

 

対象としての人たる物質的肉体が消えた・・ということでしかない。

 

ある意味では、物質主体の観念では、

 

肉体を通じて現われているところの不滅性、魂のことは扱うことが出来ない・・ということなのだ。

 

わたしの不滅性、それは物質レベルを包含する意識のことであるが、

 

それをかろうじて科学的に垣間見ることが出来るツールとしては1つ、量子論かもしれない。

 

要は、今の科学においても、魂など存在しない・・・などとは決して言うことは出来ない。物証や測定では解らない・・というのが今の結論である。

 

何事も肉眼で見えないから魂のようなものは存在しない・・と断定など出来るわけもないのだ。

 

それをどうしてか、そんなものなどないという短絡的結論が社会通念になっていたような現状は、まさに極めて愚かであると言わねばならない。

 

 「・・・かもしれない」・・・可能性に、

 

これにまず気づく必要があるのだ。

てっきりそうだと思っていたこと、

 

そういうレベルで停滞していたこと、

 

それこそ迷いの観念の支配である。

 

 

良く解らないから・・・解るように進んでいくのが本道なのだ。

 

それを無知というのか、欧米流の物質的合理主義というのか。

 

陰謀系でいわれるような闇の手先の洗脳というのか・・・・。

  

言うのもその対象たる観念に気の毒であるし、気づけばどうでも良いようなことでもあるが、

 

確かに、近代以降の人類の歴史的騒ぎがあまりにもひどかったのではないだろうか。

 

人類的な騒ぎによって、どれだけの人々が不幸になりまた殺されただろうか。

 

幼稚園の砂場が、修羅場になったらもうおしまいである。

 

これ以上は進化を続ける魂にとっても、さすがに「興醒め」であろう。 

   

・・・・

あまりにも行き過ぎた物質至上的観念、

 

人は死んだら終わり・・の刹那的な観念では、何をやってもかまわない・・となるだろうし、

 

人を騙そうと、殺そうと、結果どうだろうと、今さえとりあえず都合がよければいい・・という観念に犯されてもしかたがないかもしれない。

  

法的網をくぐる「知力」さえあれば、どんな悪をしてもかまわない・・・。

  

なんだかそのようなニュースが溢れかえっているいる昨今は、まさに闇の時代の末期症状を呈しているではないか。

  

それこそ、わけのわからない見通しの効かない想いは即ち「闇」といえる。

  

確かに宇宙系・スピリチュアル系でいう、「闇」とはなかなか、言い得て妙である。

  

確かに、闇夜では何も見えないし、どうしていいか分からないものだ。

  

だから騒ぎまくるしかないということもあるだろう。

 

大勢の人々は、そういう派手な演技をする人達をみて、何かやってくれるだろうと勝手に想っていただけのことかも知れない。

 

豊かな物資があなたを幸せにしますよ・・・という観念支配とも言えるだろう。

 

ところがそれで幸せなんか買えなかった・・・と分かった今は、バレバレになっただけの事である。

 

単純に言えば、大衆の「興醒め」である。

  

簡単に言えば飽きた、飽和したのだ。

 

 

要は、人類は物質的な観念体系から目覚める時期に来ているということだ。

 

右ならえの統制観念、支配観念から脱却するのは一人ひとりである。

 

目覚めといっても、右ならえで目覚めようとしても、結局また騙されることだろう。

  

右ならえ、左ならえの意識・・・そのものが既に縛られていることを示している。

 

「わたし」については、自分で考え、感じなければならないのだ。

 

・・・・

  

自らが大いなる不滅の魂であるという認識に至るには、様々な書物や情報も役に立つものだろう。

  

なぜなら情報があれば進むべき方向性も得られるからだ。

  

しかしながら、単に情報だけでは自己薬籠中の生きた知識には至らない。

  

あなたは「あなた」であるところのものであればこそ、

  

「あなた」はあなたでしか探求出来ないわけであり、

 

あなたはあなたの内面から湧き出でる想念を良く観察し、

  

その中からきらきら輝く宝物を探しだす必要があるのだ。

  

そのプロセスの中から、

 

前世の記憶も次第に浮かび上がってくることだろう。

 

前世の記憶といえども、それは過ぎ去りし過去の記憶ではなく、

 

今この瞬間の、大いなる「わたし」の多方面の存在形態の知識であることに気づくだろう。

 

例えば、あなたの毎日の「夢」にも注目するのがいいだろう。

 

あなたの顕在意識は、潜在意識から宇宙意識へとつながっているし、

 

身体が休止している間は意識が自由に活動することが出来るからだ。

 

またそれに気づかなければ、その有意性も現われようがない。 

 

バラバラの自己と想っている個別意識も「意識」には変わりがなく、

 

解り易くいえばいわば振動数の違いでしかないかもしれない。

 

しかしながら、個々の夢の中から湧出される情報は、顕在意識の培った癖、エゴ的フィルターによって様々に変調され、歪んだ出力をするものだ。

  

従って、夢情報も内面からの導きとは言え、あなた自身のこころの歪みによって脚色されることに気づいていなければならないのだ。

 

しかしながら、自分のこころ、想念を観ることに、ある程度習熟しないで宗教や夢や占い、あるいはチャネリング等に触れるのはよろしくない横道にそれる場合があるものだ。

 

なぜなら全ては解釈のフィルターという翻訳機の性能次第であるからだ。

 

解釈のフィルター、それを「こころの働き」と言っている。

 

エゴ的要素がこころにあり、それに気づかない場合は、そのエゴに振り回されて嫌な目に合うかもしれない。

 

意識を拡大することは、 

同時に、自らの光と影をも、ありのままに観ることが出来る、

  

より高い、

 

「意識的ポジション」を確保するということでもある。

 

ゆめゆめ、自分自身の作るエゴ的な影に、自らが騙されてはいけない。

 

 

・・・・・

 

唯ひとつの「わたし」という意識が目覚め、

 

無限を見ようと決心した。

 

それは光:波動となって無限の方向に自らを発した。

 

それ、光自体が様々な時空として無限そのものを現わしたのだ。

 

その多次元ともいえる方向にわかれた光のことを魂という。

 

意識の海から、いかようにも生じる波動は、

 

大いなる全体という様々な層の時空・宇宙を生み出し、

 

その宇宙を身近に観察、体験できるための己の分身、

 

魂という無限数の「わたし」という意識体をも生み出した。

 

その無限数の個々の意識体は、即ち全体を有するという、

 

面白おかしき奇跡的な原理を体現して、

 

ある時は次元を降下してバラバラになり、

 

ある時は次元上昇してひとつとなって自らを観ている。

 

それがわたしであり、

 

そしてあなたである。

Photo

本日も拙い長文をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

次回は自分の場合の、いわゆるハイアーセルフとの邂逅について記事にしたいと思います。

 


今の世界のベクトル

2011-05-22 10:48:53 | 宇宙的気付き

この世界は、例えばディズニーランドのような甘いものではないが。

恐怖というスリルとサスペンスを伴った、それでも面白おかしき、1つの体験ワールドと考えていいかもしれない。

 

この地球型3次元世界は、当然ながら映画やビデオのような2次元平面ではなく、しっかり3次元的な広がりと感触をもってはいるが、実のところは、我々がその「意識を投じている」ところの1つの体験ワールドといえるのだ。

 

我々すべてそこに意図して参画しているのだが、全くといっていいほどそれに気づいていない人が多いだろう。

 

そういう意識の人々は、多分偶然生まれて偶然死んでゆく程度に感じていることだろう。

わたしもそうだった。

多分それが世間常識としてまかり通っているのではないだろうか。

 

あなたもそう感じるだろうか。

 

生とは・・・、死とは・・・、生きがいとは・・・、それらを含む大きな計画とは・・・

そんな話をすれば嘲笑の渦に巻き込まれそうな世の有様は、まさに古(いにしえ)の堕落した都、ソドムとゴモラの逸話のようではないか。

 

生命や自然より人間の欲得経済のほうが大事だという、極めて幼いかつ近視眼的想いの群れが未だ「頑張っている」が、どうしたものだろうか。

日本で起きた国内3度目の核の大放散、フクシマの事故。

「福」の「島」たる「日本」からの核放散は、

 

これは極めて象徴的な事象である。

いつの世にも物質の元素レベルの崩壊は、

その舞台の大きな節目を示しているのだ。

 

福島の事象は、

人間と大自然、あるいは人為と天意の交錯した、

摩訶不思議な現象を呈しているではないか。

 

 

これは、日本列島という雛型に現れた一大「警告」であり、

 

また人類が曲り角にあることの明確なインジケーションではないのか。

 

 

この角を曲がりきれない場合、機械文明という加速の付いた車は、

 

道を外れて崖に落ちることだろう。

 

 

よしや、たとえ道を外れ崖下に転じたとしても、

 

そこからふわりと浮かび上がれるほどの軽やかな意識であればいい。

 

 

角を曲ることが出来るのは、どこかの代表や政府や権威を待つような3次元的諸現象に自己投入した人々ではなく、

 

一人ひとりの自らの想念に気づく人々なのだ。

 

それぞれのあなたは、

 

あなたが何者であるか?という自己認識によって、

 

何がどうであれ、常にまさにその世界にあることに気づくだろう。

 

今はこの古い世界に同調した観念で振動している「あなた」という意識も、

 

この世界の周波数帯が、あたかも地デジへの移行のごとく、

 

高い周波数帯域になった場合には、

 

同期外れを起こすことになるかもしれない。

 

それは意識的、あるいは霊的現実なのだ。 

 

それぞれに全責任があるのは、

 

他者ではなく、それぞれの わたし・・である。

 

それは創造主的存在としての真骨頂でもあることを忘れてはならない。

  

 

あなたは自らの想いを観ることが出来るだろうか。

 

自らの想いの中にある影、恐れや闇を見つけることが出来るだろうか。

 

そうして、闇や恐れすらも、

 

本当の「わたし」である、自らの大いなる意識体の手の上で、

 

うわはは、と・・・遊んでしまうことが出来るだろうか。

 

それとも、

 

同じ意識次元、二元性のなかで恐れから逃げまどい、

 

恐怖を自ら対象化しつつ、

 

自ら逃げ惑う 鬼ごっこ遊び を続けるのだろうか。

 

 

恐れや闇は外にはなく、

 

個としての意識の内面にあることに勇気をもって潔よく気づけば良い。

  

そうすればそれを「観る」ことでが差し込んでくるのだ。

  

観ることは光がさすことと同義である。

まさに宇宙の在り方もフラクタル、相似であろう。

 

いわゆる神が観ることで世界が展開する・・。

 

あなたが鏡に映ることで、自らを見ているように。

 

 

「解脱」とは、自らの「想いの影」 「想いの闇」  から脱することであり、

 

もともと存在しないことに心底気づくことである。

 

確かに、こころの底の底まで行かなければ見つけようもない。

  

あなたの世界は、常にあなたのこころ、想念という動的フィルターで投影されている。

  

これに例外も特例もないのだ。

  

人は皆、3次元的肉体表現をも行うことが出来るところの、大いなる意識的存在であるからだ。

 

 

 Tulips

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

尚、次回は内面の導きや大いなる魂との関係に気づかされる個人的な意識的体験について記事にしようと思います。

 


解脱 (2)エゴを脱して見える世界

2011-05-05 10:06:39 | 覚醒意識

解脱(げだつ)は悟りとほぼ同義と考え、この世界的な束縛から解放されるという意味ととらえようか。

 

解かれて、脱するというのが解脱(げだつ)であれば、何から解放され何から脱するのだろうか。

 

1つにはこの世界の常識とされる「観念体系」である。

これこそ常識である・・という観念にこそ、多くの虚偽が含まれていることに気づくことが大切であろう。

それを無条件に信じ込んで、眠るようにあっという間の数十年を通過する。

 

ある意味で霊的眠りから覚めるためには、自己にまとわりついた観念の綾を、己自身で解かなければならないのだ。

 

また、

解かれて、脱するというのが解脱(げだつ)であれば、何から解放され何から脱するのだろうか。

 

1つには、この世界で培ってきた、あるいは培わざるを得なかった「エゴ」である。

エゴとは、個我としての肉体人間としての「私」である。

 

私の生存本能自体は何も問題がないし、そうでなければこの世界に適合することも、持続することも出来はしない。

エゴとは自己存続のためにある、セキュリティーシステムのようなものでありながら、自己自身を様々な脅威からいかに身を守るかということを常に考えている、あなたやわたし達の一部分のことである。

 

しかしながら、この個我の維持のみが突出して、「我良し」に偏向してしまったこころの歪みまで行ってしまうとそれがエゴイズムとなる。

 

今世界では表面は見わけが難しいような、極端なエゴイズムがはびこっていることは論を待たないだろう。

世界をまたにかけ暴れ回っている?方々は、全てではないが、その多くが表面は優しく美しき、実は行き過ぎたエゴイズムの権化のようなものかもしれない。

  

また、そんなことには捉われることなく、

我々は、知らず知らず自己存続のみに特化してしまった「こころ」の歪みを、己自身で解いてゆかなければならないのだ。

 

世界がたとえ崩れ落ちようとも、行うべきことは「それ」なのだ。

  

他者の歪みをどうこうする方向の有り方は、それがネガティブであろうと、ポジティブであろうと、同一線上のものである。

 

人の振り見て、わが振りなおすこと・・・、それによって一人ひとり、1本1本の縦糸が生じ、色合いの美しいそれぞれの人生が集合した一大絵巻物が紡ぎだされる。

 

その為の大勢の他者であり、また絵巻物の1つのコンテンツにすぎない善や悪の観念である。

 

一人ひとりの意識が広がり、それが繋がりつつ、例えて言えば大きな魔法の絨毯を織り上げるのが、本来のこの世界の目的なのだ。

 

またそれが、これからの世界である。

  

人々のこころの歪みが解かれ、さらなる広がりを持てるようになった世界には、泣いても笑っても、もう善も悪も存在しないし、また個別別個の確執すべき赤の他人も存在しなくなるのだ。

 

 

他者を悪や善だと、かしましくする前に、自らはどうだろうか?

人を見るように、自分も観ることができるだろうか?

自己自身で、自らのこころの歪み、塵や垢を落とせるだろうか?

 

出直しの転生の出発点でもある生誕時の、

 

赤子のような素の意識の輝きを、

 

生きている間に取り戻すことが出来るだろうか?

 

なるほど、

ここでもう一度生まれ直すことは、

人生という究極の遊びの、まさに妙なのだと思えないだろうか。

  

これは、この世界に生じた自らが課してきた、唯一といえば唯一の宿題らしい宿題かも知れない。

これが解脱(げだつ)ともいえようか。

 

自らを、ありのままに観ることが出来る人は、その人である。

外の世界を、様々な観念で観ることしか出来ない人は、今は未だの人である。

 

この世界を十分に満喫できるためには、

逆に、

この世界にありながら、

この世界に捉われていない「意識」に戻る努力が必要ということである。

  

苦楽に満ちた世界の中に自己同化し、狂乱、狂喜することに飽きたならば、

自らが自らに還ることだ。

永遠に、わたしは「わたし」であるのだ。

  

比較も区別も、差別も区分けも人の勝手に作り上げた観念的幻想である。

競争も闘争も競り合いも、それを励ます「頑張れ」も、自己同化遊びなのだ。

わたしは「わたし」であることから、

いつも再出発できるのだ。

我々が生まれてきているのは、そういうことであろう。

 

人生を生きている誰にも共通しているテーマは、ここにこそある。

 

テーマは他の誰でもなく、それぞれの「わたし」以外にない。

テーマは他の誰でもなく「あなた」以外にない。

幸せは、いつも「今」ある。

 

今この時を、こころを透明にして眺めてみようか。

エゴをきれいにして、ただ淡々と眺めてみようか。

 

それが出来た暁にこそ、

唯ありのまま・・を、初めて知ることだろう。

そう、

それは、いつでも、どこでもあったのだ。

 

 Lighthouse

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

 

  


解脱 (1) 自己同化の仕組み

2011-05-01 09:45:17 | 覚醒意識

世界の多くの人々、大きくいえばこの地球にいる人類ということになるが、そのほとんどが霊的に目覚めていないと言われることがある。

その「霊的な目覚め」とは何か、ということだが、一体なんだろう。

 

霊的な目覚めの状態の前にあるものは、霊的でない状態だろうし、

それを単純に言えば物質的状態だ、といってもいいかもしれない。

確かに、現代文明化されたと称する社会の人々ほど、その自己認識観念は「わたしは物質的身体だ」ということだろうか。

 

そこから出てくる感覚、誰にも共通している自己認識、個人で最も大切なのは、まず「この身体」であるということだろう。

多分そう想っていること、これには異存はないはずだ。

改めて詮索したことはないかもしれないとはいえ、そうではないだろうか。

 

寝ても覚めてもあなたは身体と一緒と感じているはずだ。

とはいえ、寝ているときは実はそうではないのだが、自己の在り方を十分に観察する余裕のない世の中では、寝ているときは単に寝ているだけだと思っているかもしれない。

わたしもそうだった。

 

寝ている時の夢等は、どうでもいい単なる偶然のイメージとでも思っているだろうし、そんなことより「現実」という面倒な生活への対応に忙しいと感じているかもしれない。

わたしもそうだった。

 

起きている時の、眼先に感じるところの感覚群、五感情報による総合的な感覚を「世界」と感じているし、その基本にあるのはそれぞれのわたしの「身体」であるとしていることだろう。

漠然としたそのような感覚で毎日を過ごしているのではないか。

 

それらの漠然とした観念が、大なり小なり多くの人々の「こころ」の底流にあるわけだ。

 

そこから「わたしは身体である」という、固定された想像が根付いて来るのも当然と言えば当然である。

 

しかしながら、

  

実のところ「わたし」は身体を通して様々な出来事と、それに付随する様々な想いを「体験」している・・・

 

というのが本来の言い方と思われるが、いつの間にか「わたしは身体・肉体である」と錯覚していることに気づくだろうか。

 

身体・肉体への「自己同化」とはそういう有り様のことである。

 

「あなた」=「身体・肉体」

だれが決めたのか。

 

・・・誰も決めてはいないのだ。

 

仮に、あなたが身体であるとした場合、何十兆にも及ぶ身体細胞をあなたが意図して「創った」わけでもなければ、頭脳細胞、骨格、その他身体の隅々までを知っているわけでも、なおさら創ったわけでもない。

 

たとえ微々たる医学の知識があったとしても、あなたはその身体のどこに存在するのか、「あなた」とはいったい身体・肉体のどこに隠れているのか、答えなど出るわけもないだろう。

 

・・・

あなたが毎瞬付き合っている「あなたの身体」は、「あなた自身」なのか?

 

多分そうは断定など出来ないことに簡単に気づくはずではないだろうか。

 

あなたやわたし達の「表面の意識」が、そう想っているだけの事・・これが事実であろう。

 

実のところ、身体の全ての細胞、神経の隅々まで統御し、その極限まで複雑な仕組みを維持しているのは、大自然を通して自らを顕現せしめている「大いなる意識」である。

 

あなたやわたし達が、今個別・別個と感じているそれぞれの「意識」は、その大いなる意識のごく一部の面でしかない。

 

単純なことながら、大勢の人々が多分、自己を肉体として話し行動しているような世間、世界のなかにいることで、てっきり我々が身体・肉体そのものだと漠然と感じてしまうからであろう。

 

じいさんも、ばあさんもそんな話方だった。

親でさえそんな生活をしていた。

先生も会社の社長もどこかの御大臣さえも・・・。

 

・・・

我々はそうしてこの世界の平均的な「観念」に固定されてゆく。

 

物理的な世界がどうのこうのではなく、この世界の底流にある自己感、世界観に固定されてゆく。

その中にある好都合、不都合、不合理、偏見、健気さ・・全てをそのまま受けてしまう場合が多いのだ。

  

今の人類の、最も根本的な固定観念といえば、「わたしは肉体」である、というものではないか。

 

肉体の棄損を恐れるが故に、そこから全ての競争や争いや戦いが起きてくる。

個々の、集団の、国家の、利益集団の肉体生存のために何でもやることにもなるのだ。

 

我々は知らず知らず、そのような集合意識に固定されてきたと言えよう。

良きにつけ悪しきにつけ、様々な価値観念に無条件に従うように慣らされてきたわけである。

 

それを悪意的、恣意的、支配的方向から指摘しているのが「陰謀論」であろうか。

我々が気づかなかった様々な姑息なやらせに気づき、不都合な真実が支配者によって仕向けられたと感じる「怒り」が向けられている段階だろう。

 

しかしそれさえも霊的目覚めの為の一過程にすぎない。

 

それに気づくためには、それが対象化されなければならない。

 

いわゆる悪と言われるものもその為のものである。

 

全ては深い意味があることなのだ。

 

 

今人間は、本当にそう思えばそうなってゆく・・という意識的法則に気づく必要がある。

 

何がどうなろうと、それが真実だと観念で固定する程度に応じて、その通りに現れるのが、「あなた」の有り様であるならば、

 

その各自の、そして各自しか生ぜしめることが出来ない「想い」という「創造波動」に気をつけなければならないのだ。

 

いつも手にする携帯電話のきれいな画像も元は波動であるし、同じくあなたやわたし達のイメージ、思考、想いも波動なのだ。

 

想念波動は、現象化の為の原動力になっていることに気づかなければならない。気づかなければ現れようもないのだ。

 

「想い」こそ「生きたエネルギー」なのだ。

 

あなたやわたし達の世界を映し出している背後の仕組みに、もう気づくことが出来るだろう。

潜在的なものにこそ注意をせねばならない。

 

結果・現象はもうすでに出てしまったものであり、

 

本来ならば一喜一憂すべきものではなく、

 

今は、それを生ぜしめるところの潜在的な因にこそ意識の眼を向けなければならない段階なのだ。

 

人間の「こころ」というものが、世界を映し出すフィルターであることをそれぞれのわたしが気づくべき時なのだ。

 

意識的存在である人間は、現れた結果、あるいは五感で感じる肉体そのものではなく、それを通して現れるところの魂である。

 

わたしは「わたし」であるところのものである。

 

それは形ではなく、形を現わすところの原理または法則そのものである。

 

わたしが何者か?

 

それを現わし続けるところの存在、因たる者こそが、

 

大いなる「あなた」であり、

 

自らが小さい肉体人間と規定している、今のあなたを含んで余りある

 

真実の「あなた」である。

  

 

Dogen01

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。