気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

内観はすなわち外観

2013-02-24 07:36:23 | 見えないものから見えるものへ

内観とは簡単に言えば...こころを観る・・ということだ。

  

またこころを見るということは、自分のこころの動きを観察するということでもある。

 

日常の何でもない生活や人間関係等において、自分がどう感じ、どう反応しているかを、自分で観察する意識を持つということでもある。

 

瞑目して端坐していても、目覚めて何か活動していても、自分のこころを見つめていることができるならば、それは内観なのである。

 

意識を拡大することは、自分に起きるさまざまなことをしっかりと観察できる意識状態に移行するということであり、

 

また、そのさまざまに自分に起きることというのは、肉体的五感によって自然に起きることではなく、

 

その外面世界と自己との出来事に対して、”自分のこころが反応する事柄”なのである。

 

たとえば、あなたが自己意識を持たない単なる人型ロボットならば、そこにはどんな出来事も起きてこないことは理解が可能だろう。

 

たとえロボットと外界との電子的な信号のやり取りはあっても、その信号のやり取りに気づいている自意識がないならば、そこには世界が現れてはいないということなのだ。

 

それに気づく意識を有していないならば、世界の出来事、諸現象はまさに<有って無きがごとし>なのである。

 

例えば、

 

何かの考えに没頭しているときには、周りの出来事に全く気付かないという経験は誰でもあるはずだ。

 

周囲に色々な出来事があったとしても、それに意識的にならなければ全然気づかないということであり、

 

常時気づいていなければ、それは当人にとって存在しないと同義である。

 

このように、ある意味では、「こころ」というのは意識的なレーダーのようなものであり、その意識が焦点を合わすことだけに同調するともいえるのである。

 

そして、意識が同調する事柄だけが、あなたの「こころ」という言わば”レーダーサイト”に現れるということであり、

 

逆に、ある特定の思考に集中することで、他の現実に気づかないということでもある。

 

これが例えば否定的な思考であれば、その否定的な思考に集中することによって、それに付随する否定的な感情にハマってしまうことになるし、

 

いやなこと、恥ずかしいこと、恐ろしいこと、胸が苦しくなるような状態にもなるわけだ。

 

こういうことは、誰でも何度も落ちいった経験があるはずである。

 

あるいは、まだハマっているのかもしれない。

 

要は、

 

人は皆、自分の「こころ」によって・・自分のあり方・・を決めているということである。

 

・・・

 

仏教的な教えでは、三界は唯心の諸現・・とも言われるが、これは人間の生存する諸世界はすべて「こころ」の現れであるという真理を表現している。

  

簡単に言えば「こころ」というのは、思考でありビジョンであり、それに付随する感情のことだ。

  

その「こころ」によって自己の存在せる世界が現れているというのである。

 

実のところこれは狭い意味でも、広い意味でもまさにそうなのである。

 

狭い意味では、それぞれの人間の有り方、有様は・・・その人間のこころによって創生されているということであり、

 

より広い意味では、存在諸世界あらゆるものが「意識」と「意図」によって現れているということだ。

 

そのあらゆるもの、あまねくすべて表現している普遍的な「意識」と「意図」を・・・一般には神とか創造主とか言っているわけである。

 

人間が自己の内面、すなわち自己の意識と意図、想念、思いを見つめることで、創造の根源的なあり方に気づくことができるのだ。

 

そうすれば、

 

 

人々が一喜一憂する諸現象、驚きおののく人間世界の諸現象は、すべて人の想念が現れた結果なのだということが理解できるはずである。

 

自己の内面を観ることができるならば、

 

他者の内面も憶測かや理解ができるようになり、嘘も隠しも存在できないことになるし、また真の意味で他者に共感もできるようになるのだ。

 

本来・・「和」 とはそういう意味である。

 

内面意識を観ることができる人々が次第に増えるならば、意識の働きがより精妙になり、いわゆる波動が上がることになって、その波動の上がった集合世界では以心伝心が普通に可能となる。

 

以心伝心とは、こころをもってこころを伝えること、いわゆるテレパシー、精神感応とも言われている意思疎通形態であり、

  

物理的な装置を使うことなく、意識波動を通じてコミュニケーションが可能となる。

  

そういうアンダーグラウンドの直通の意思疎通が行われる世界では、人間同士の騙しや縛りの約束、嘘八百等は存在できないのだ。

 

それぞれの内面を観ることでそれぞれの意識が広がり、

 

人々、そしてすべての存在物との意識の交差する範囲が拡大し、

 

自己と他者、人と諸物、地球と宇宙、この次元と他の次元との共感が拡大する。

 

サイバーネットワークならぬ、意識のネットワークが広がってゆくのである。

 

リモートビューイング、遠隔知覚、直接知、あるいは宇宙レベルの交流が普通になるのである。

 

もし世界をより良き方向に変えたいと望むならば、

 

行うべきは・・・それである。

 

より良きことが、外の世界の宇宙のどこかにあるわけでもなく、

 

その全ては・・・・あなたやわたし達の中にあることなのだ。

 

内はすなわち外へと繋がっている。

 

原点は、自己を見つめることにある。

 

見つめることであらゆるものが現れる。

 

見つめるとは・・・意識的になることであり、

 

「意識」において「意図」を投影することで何事もその存在を露わにするということだ。

 

それは、

 

神が自己を見つめることを始めた・・宇宙創成・・・と同じことなのだ。

 

人の日常の生活、生きざまにおいてもまさにそうなのである。

 

おのれの意識の中に生起するものを観ることは、

 

人のこれからの基本中の基本的作業であり、

 

まさにそれを通じてより拡大された世界につながるのである。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして誠に有難うございました。

 

次回は、人とはいったい何者で、どうしてここにいるのかというテーマの記事にしようと思う。

 

 

 

 

 

 

 


内観の効能

2013-02-16 09:02:41 | 見えないものから見えるものへ

内観すなわち自己の意識内部の有様を観察することにはどんな効能があるのだろうか。

 

こんなことを言えばまるで薬の効能やある種の技術で得られるプラグマティックな有効性や効果のように聞こえるが、しかしながら内観を行う、行じることで確実に得られることは、実のところ意識の拡大・深化・進化といえるものである。

 

自己の内部を観るということは肉体、身体、頭脳の中身を観るということではなく、まずそれら自己の存在形態の物質的・形態的側面から意識を外すことである。

 

意識を外すという意味は、あなたの<意識>を物質的・肉体的な感覚から自由にするということである。

 

だからと言って気を失うことではないし、眠ってしまうことでもない。

 

意識を自由にするということは、まず緊張した体を弛緩し、いわゆるリラックスした状態にする必要がある。

 

ゆったりと座って落ち着いた状態で半眼、または瞑目することが昔から行われている。座禅の組み方、ヨガの姿勢等は基本的には、身体・肉体をリラックスさせて安定状態を維持する方法である。

 

まず体とこころは密接な関係があり、体が落ち着くことは即ちこころ、マインドが落ち着くことになるわけである。

 

マインド・こころが落ち着くということは、すなわち体もリラックスしているということは既に知っていることだろう。

 

単にこれだけでも、体とこころをリラックスさせる努力だけでも、健康とこころの平安にどれだけ寄与するか、既にあなたは経験しているだろうか。

 

まずこころと体の相関関係に気付けることが、このような姿勢や方法を理解する元になる。

 

体や外的環境のことだけに注意し、自己の意識をそのレベルに縛られている間は、このような端坐・瞑目の意味が全然解らないかもしれない。

・・・

安定的な姿勢を保って、身体を静かに維持し、いわゆるリラックスし、内面を見つめる・・・そのようなことに何の意味があるのか、とんと理解できないかもしれない。

 

しかしながら、色々な姿勢や座り方そのものの中に意味があるというわけでもなく、

要は、

 

身体を静謐に保ち、こころを見つめる方向にその意識を向け、その状態を持続する条件付けを自分で意識的に行う・・ということである。

 

このような姿勢、こころの状態をつくり上げようとすること・・自体に、

 

魂レベルから発する意識の拡大意図が含まれており、

その意図と行為だけでも明らかに人の意識状態が変化するのである。

 

まず・・これが・・・、ここまで来るのが肝心要の峠の茶屋?なのだ。

 

・・・・・

しかしながら、実際のところこのような行為の中に、どんな難しいこともありはしないことに気付けるだろうか。

 

人は皆、日常忙しい忙しいと言いつつ、あるいは暇だ暇だと思いつつ、何もしていないかあるいは何かを行っているわけであるが、

 

忙しい忙しいと言っている自分、生活回し車をくるくる回すことだけにいそしんでいる自分から、・・その自分自身を放してみる「時」を持つことは、何時でも可能なことにも気付けるだろう。

 

毎日24時間、ほとんどが外の世界との対応、仕事、家事、勉学その他に集中し、夕べには疲れてしまい、あっという間に寝てしまうだけの生活が多いのではないだろうか。

 

いや、多くの人々が大体においてそうであることは、自分の経験から言って間違いが無いと思う。

 

たしかにそれが今の世相なのだし、いつの間にか常識となってもいよう。

 

何かを考えている、何かをしていることはそうであるが、その・・何かを考え、している<当の自分に>意識的になっていない、あるいは光を当てていない状態に縛られているということ。

 

これをここでは、無意識的な在り方と言うのだが、

 

無意識とは「意識が無い」ことではなく、

 

意識している自己を観ていない・・自己自身に意識的でない・・ということである。

 

意識的・意識=ここと・・・・無意識的意識=そこの間には・・驚天動地のギャップがあるのであるが、この重要性に気付けるだろうか。

世にいう「目覚める」・・とは、今まで知らなかった社会の裏、他者の陰謀や、悪賢いエゴ組織の裏での活動に気付くということではなく、また宇宙人なる者達からの暖かいメッせ―ジに感動し期待するということでもなく、

 

意識を有する自己という存在自体に・・意識的に気付く・・ということである。

 

自己の意識に気付いているということは、

 

自分の内面を観ているということ、

 

自己の想念、想いや、こころや体の反応に気付いているということであり、

 

それらに気付いている、意識しているということは、

 

想念や感情、良し悪し、快・不快等を感じながらも、

 

それらに自己投入しない、翻弄されない意識レベルに上昇しているということである。

 

・・・

空を飛ぶ鳥はいわば3次元的自由を持っており、2次元的な地上の動きを眺めつつもそれらに影響されないだろう。

 

特に人間が「受調」する想念は人間の在り方・表現形を決める最重要要素であり、

 

想念自体に意識的に気付いていない有様では、

  

想念やそれに付随する感情、そして身体的な反応、言動、行動に突き動かされるのである。

 

未だ無意識レベルの在り方で終始するならば、人の言葉や世相の観念、常識やどこからか執拗に聞こえるエゴの迷い道への誘導プロパガンダや、あるいは崖下に落ち込んでゆくレミングの群れのなかに引き込まれるかもしれない。

・・・

自分が一体何を考え、何を想い、何を感じ、どう表現しようとしているのかを、

その自分がしっかりと観ていることが何をおいても大切なことであるし、

 

またその自分を観るところの・・・更に広く高い次元にある<自分>に同調することこそが、今人類に出されている霊的な宿題・テーマとも言えるだろう。

 

気付けば次第に荒れ模様を呈しつつあるような地球環境や社会情勢等は、

 

そろそろ目覚めても良い頃だという外界からの動的メッセージであろう。

 

それから逃げることも、あるいはどこか異変を待ち望むことも当て外れである。

・・・

外の世界を観ている者は誰か・・と言えば、

 

内なる<わたし>しかいないではないか。

 

内なる<わたし>は、・・・多元世界、諸宇宙全てを自己として観ているもの、

 

大いなる<わたし>の一部である。

  

すなわち、それに気付くための内観である。

 

いつでもどこでも、常にあなたと共にあるのは、

 

<あなた>しかないではないか。

  

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内観のすすめ

2013-02-10 07:53:35 | 見えないものから見えるものへ

意識の拡大には内面の開拓が欠かせないのだが、いったい全体

 

内面を直視することはどういうことを言うのであろうか。

 

また、内面とはどういう方向にあるのだろうか。

 

またそれはどういうことを意味しているのだろうか。

 

・・・・

例えば古くからある座禅のように、ただだまって端坐し、静かに自己を見つめるとした場合、

 

その状態をどれだけ保つことが出来るだろうか疑問である。

 

現代人という・・実は病んだ人々は、この・・ただそこに在る・・・という状態を続けるのが当初は極めて難しいのである。

 

めまぐるしく動く世の中に適応するためには、人間の思考がめまぐるしく動かなければならず、常に人の頭の中?では様々な知識や情報が渦巻いている。

 

その思考の束をいかに早く処理できるかが頭の良さとされているし、

 

あれに対してはこうすべきであり、この目的に対してはこの情報を適応する・・・等など、目ざめている間に数えきれないほどの思考が去来している。

 

人が何をやっていようと、都会のオフイスでパソコンをいじっていようと、道を歩いていようと、農作業をやっていようと、常に人は何かを考えているはずである。

 

1日に何千何万、何億もの思考が現代人の頭を行き来していることだろう。

 

要は「思考中毒」のような事になっているのであるが、

 

現代人はこれ自体に気付いているだろうか。

  

また無数の思考が人の頭に無造作に去来している有様自体に気付いているだろうか。

 

聞けばそれは当たり前だというかもしれないけれど、その思考で人の行動や感情が決まっていることにも気付けるだろうか。

 

それらの思考と感情そして行動・表現によってその人の人生が出来上がっていることにも察しがつくだろうか。

 

・・・・

 

思考は云わば様々な次から次へと湧き出すイメージのようなものであり、それを文章化したり図面化したり言葉にしているのが我々の仕事や生活なのである。

 

ここで問題なのは、 

 

多くの人が、思考を使いつつも、その思考自体に気付いていないということである。

 

思考はしていても、・・・思考していること・・・そのこと!自体に意識的になっていない・・ということだ。

  

そういう無意識に生じるような思考に方向付けをするのがメディアの役割である洗脳やマインド制御と言われるものである。

 

外からイメージを盛んに流して印象付けを行い、人の思考に何かをインプットしようとすることがマインドのコントロールである。

 

TVやラジオの宣伝もそういうものであることは誰でも知っているはずだし、そもそも宣伝で飯を食っているわけだ。

 

それには良いも悪いもないし、どう捉えるかは各自の自由にまかされているのである。

 

ところが、

 

嘘でも繰り返し言われれば、それが真実のように捉えてしまうだろうし、

 

みんながそう考えているならば・・・それが正しい等とつい考えてしまう癖があるのである。

 

そのこころの癖は一種の繰り返しパターンであり、

 

そのパターンを再生する有様は、まるで条件付けされる、パブロフの犬のようなものである。

 

 

誰でも否定したくなるようなことなのだが、

 

なぜそうなるかと云えば、

 

思考すれども・・・その思考の生起自体に気付いていないからである。

 

またここでいう・・・思考自体に気付くということは、

 

自分の頭でしっかり考える・・という、ことではなく、

 

その思考がどこから生じるのかということに気付くということである。

 

思考、観念、イメージ等がいつの間にか固定化されることで人の思想・信条が固定化し、

 

それが言動や表現に顕れることになり、またその方向で人生芝居が出来ていくということを知っているならば、

 

その元にある自分の思考に気付かないではおられないはずである。

 

・・・

しかし実際のところ、多くの人はその自らの思考・観念自体に・・・なかなか気付いていないのである。

 

あなたはどうだろうか。

 

現象世界から思考を集め、自分の知識としつつ、世界を読み解こうとする英知ある行為自体も、

 

逆にその思考に絡みとられ、人間社会の観念の二元性に嵌って堂どうめぐりをすることにもなるかもしれない。

 

実に微妙なことながら、思考すなわちマインドの世界はそういうことなのだ。

 

・・・

 

思考が観念となり、常識となって人々の共通認識、信念体系となって今の世界を構築している。

 

例えば人々の支配とは、何もムチや武器を使って無理強いすることではなく、その思考操作によって知らない間に行われることなのだ。

 

世の中の騒ぎや衝突、懸案となる国際情勢、新しい条約提案や国の方針等も、

 

あるいはそれは、自分の思考を操作できない者達の為の、有償の・・刺激的な代替案の提示のようなものかもしれない。

 

代替案と云っても、提案した者達の都合のよいようになるのは当然のことであるが、

  

資本主義的な製品創出、サービス提供もこうなると、ここまで来るとちょっと笑える話ではないだろうか。

  

なるほど、外の世界ばかりを見ているとこうなるということだ。

 

 

諸業無常、

 

外の世界は、常にすぐに終わってしまう泡沫の宴のようなものである。

 

自己の内なる光・意識こそが、外の世界を投影する原因であるからには、

 

これを観なくてどうすることも出来ないはずである。

 

例えば人はただ黙ってそこに居て、

 

おのれの内なる意識、そこに湧き出す思考や感情を観ることができるならば、

 

様々に去来する思考やイメージの依って生ずるところの、

 

元々の普遍的な意識・・・「空」(くう)に気付けるだろう。

 

色即是空、空即是色・・・

 

空は何も無いのではなく、実は全てのことなのである。

 

我々の内面もそして周囲も、実は空(くう)・普遍的意識で満たされている。

 

 

人間の思考・感情・経験は、無限の色彩を持つ、空即是色の<色>即ち、創造であり、 

 

内観とは、あるいは自己観察、想念観察とは、

 

人がおのれを通じて、一なる、無限なる、色即是空の<空>に帰還する”意識的行為”なのである。

 

色即是空・・・、現象は空から生じること。

 

 またある意味で、多即一・・であり、また吸う息でもある。

 

空即是色、・・・空は現象の源であること。

 

 またある意味で、一即多・・であり、また吐く息でもある。

 

人間存在がそれぞれ内なる意識を観るという行為すなわち内観は、

 

吸う息、吐く息に意識しつつ、

 

思考や感情をそのままに眺め、

 

その源である、無限なるおのれに意識的に同調する行為のことを言い、

 

それは思考や感情というものを、大空に去来する雲のごとくに眺めることであり、

 

大空であるおのれ自身に気付いてゆく、静かで積極的な行(為)なのである。

 

それは、

 

寸暇に湧き出でては消えて行く、様々な思考や想念にも捉われることなく、

 

それを超えて在る・・・自らに気付いてゆく意識的体験でもある。

 

 

一なる源に通じる全ての道は、常にその足元に、いやおのれ自身にあり、それは避けて通ることのできないものなのだ。 

 

頭で造られる様々な思考、イメージは常に砂上の楼閣、マーヤの幻想。

 

マーヤといわれるこの幻想・現象世界は、マインド・こころの投影映像あるいは影絵のことである。

 

それを<観ている>ものこそ・・・あなた・・という本質である。

 

「内観」とは・・自己の本質に気付く普遍的な意識的行為のことである。

 

それは本来いわば神なるものが、世界宇宙全土から、それぞれに自己を思い出すということと同じことを意味している。

  

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オーバーソウル

2013-02-03 09:43:08 | 新たなる地平線

人間の意識がすこしづつ拡がってゆくと、自分がいわゆる<魂>を持つ存在であるということに気付いて来ることになる。

 

今ある<私>が、今回だけのものであり死んだら終わりと考えている意識レベルから・・、

 

その<私>そのものが幾度も別の人格を持って生まれ変わっているところの実体のようなものであるという自己理解、自己認識に至るわけであるが、

 

そういうふうな、幾多の別人格の人生という中での共通の<自己>なるものを称して、「魂」と呼んでいるはずだ。

 

いわゆる他生における人生を通じて、当初はおぼろげであったとしても、

 

そこに共通する自己が存在することを理解したり自覚したりするならば、

 

その幾多の人生、あるいは生命体験をまとめた、

 

より普遍的な魂としての<わたし>に気付くということになるのである。

 

それはオーバーソウルだとか高次の自己、あるいはハイヤーセルフとも言っているのかもしれない。

 

ロバート・モンローはそれを I there(あちらのわたし)と言い、霊界通信的には 守護霊や類魂と言い、チャネリング的には宇宙ファミリーと云っているのかもしれない。

  

もっともスピリチュアル的なそれらの言葉の説明や定義などはあまり意味が無く、

 

要は、そういう、より普遍的な<わたし>に気付くということは、

 

今の意識ある私・・とは、

 

時間と空間を超えた存在の仕方、

 

あるいは幾多の空間・場所や歴史・時間に渡って出・没をしている、

 

より普遍的な、またはより大きい自己の一部であると自己認識することである。

  

今・・・私である・・・と自覚している自己意識、・・自己認識を拡大し、

 

それが歴史と場所、時間と空間のなか、あるいは宇宙大のステージにおいて幾多の経験をしているところの

 

・・・拡大された・・わたし・・にまで気付くということである。

 

例えば、魂にかんする何かの書物や言説にふれることでその可能性に気付き、

 

半信半疑ながらも・・ありうることだと直感的に感じることによって、

 

それの気づきのトリガーとなる場合や、

 

普通とは全く異なる特別な「夢」等によって、

 

その<魂>としての自己を自覚するような気付きを得られる場合もあるし、

 

いわゆるリーディングや退行催眠という、先導者とのシステマティックなプロセスによって得られる内面情報によって、その輪郭を思いだすこともある。

 

そういう拡大された自己の在り方、自己認識は、

 

現状の3次元的に固定されたような時間空間、生存場所、文明、生活にいながらも、

 

それを超えたところの<わたし>に意識が拡大しつつあることを示しており、

 

それはいわゆるところの、本来あるべき霊的成長の道を歩くということなのだ。

 

今ある<わたし>・・・を含みつつ、

 

それを忌避せず、また決してそれに束縛されず、

 

より拡大された<わたし>というものに気付いてゆく

 

その長いような、短いようなプロセスの先にあるものは、

 

当然ながら、全てに在ってまさしく・・あらゆる全てであるところの、

 

昔から誤解されつつ言われてきたところの<神>あるいは<創造主>

 

あるいは・・ひとつなる<本質>なのである。

 

これは現実離れした空虚な理想や絵空事などではなく、

 

魂・意識達の・・・ある段階で気付くべき、魂の基本中の基本である。

 

例えば、偉大なる山脈が、今はたとえはるか遠くに見えるとも、

 

その方向や道を失うことはもはやないはずであるし、

 

3次元的な袋小路での堂々めぐりは終わりを告げるのである。

 

今ある当たり前の生きざまや生活も、それが殊更どうということもなくなり、

  

慌てず、騒がず、今・・・あるがままに在ることを良しとすることになるだろう。

 

世界の全ての騒ぎや混乱は、

 

歪んだ想念とその対処の仕方の誤解から来ている。

 

外の世界をいじくり回し、人を変え、品を変えようとする方向違いの想念である。

 

自分を変えずして人が変わるものと錯覚し、

 

体制や仕組みを先に変えようとする行為は、

 

それぞれの<大いなるわたし>に気づかないまま、

 

あくまでも・・がまま・・で終始しようとすることであろう。

 

造られた我、歪んだ自己観念である<我>どうしがブツカリあい、押し合い、へしあいする世界の渦はもうすぐ奔流となって崖に向かうことになるだろう。

 

いわゆるところの<エゴ>文明の終焉であり、それは「我がまま」から「在るがまま」への意識的な変容を意味するのである。

 

在るがままとは、何もせず怠惰であること、いい加減であることではなく、

 

あるがままの宇宙・大自然のダイナミクスに調和しつつ、

 

今あるところにおいて、それに調和する有様のことである。

 

科学もエネルギーも人の集合する在り方も、

 

自然との協調によってその奥行きを深め、逆に有り余るほどのものとなる。

 

世にいうフリーエネルギー、真空エネルギーもその方向で当たり前のように出てくるものである。

 

今、そしてその続く先、 

 

意識的存在達は、古き小我を捨て、大いなる自己への拡大の道に乗ることになるだろう。 

 

そして、

 

神の自己観想が宇宙・大自然となっているように、

 

それぞれの無限の<わたし>への観想を行うことが人間の最大のテーマなのである。

何事においても言えることは、 

 

自分を深く理解せずして、

 

他を理解出来るはずがない・・ということだ。

 

 

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夢のある話 (4)夢とは何か

2013-02-02 10:42:09 | 夢及び半覚醒時の体験記録

普段の我々は主に目覚めた状態での五感感覚だけに意識を集中しているわけだし、いわゆる眠っている状態での意識の働きに気付ける人はそう多くはないかもしれない。

  

今までの人類の平均的な信念体系では、眠りは単なる単なる肉体休息であり、肉体だけが<自己>であると漠然と信じ込んでいる限りは、眠りの間にあなたの意識が活動しているとは露にも思っていないかもしれない。

  

人類にとって今最も重要な課題は、この内面と言われる意識の方向に気付くことなのである。

 

中近東、アフリカ世界の騒乱や、何とかミクスという幻想の経済政策や、円安やらドル経済崩壊やら、不可視な矮星の接近やら、太陽のフレアのうわさやら、それこそ様々な想念形の情報、ニュースに気付いているかもしれないが、

 

それら外の世界から湧き出しているかにみえる様々な混乱想念に振り回されてはならない。

 

人の世界の全ての出来事は人々の想念の結果である。

 

世界的な様々な組織が画策する洗脳や事変や諍いも元は歪んだ想念であり、尤もらしい経済政策や、真剣そうに見える政治と云わず、全ては特定の人間達の相対的な価値観念の投影にすぎないのである。

 

どうしてそのような他者たちの想念にことさら意識を集中し、期待や絶望、批判や詮索をしなければならないのだろうか。

 

そんなことは自業であり自得 ・・「なるように・・なる」 ことになっているだけの話である。

 

・・・

そういう枝葉的な話はさておいて、

 

内面にそれぞれの意識を向け、その意識のすそ野を広げて行く方法は瞑想や内観等、古来から色々とあるのだが、夢の分析なども実は手軽な1つの方法である。

 

夢は主として睡眠中の意識的経験の、現実的観念への変換と云って良いかもしれない。

 

夢とは、すなわち内面次元というか、自己意識がつながっている「普遍意識の中での経験」の翻訳・・・のことであり、その経験知を現実に持ち越すことが出来た場合に限り<夢>となって<憶えている>ことが出来るということである。

 

また夢を現実生活に記憶として持ち来たる場合には、当然ながらその人の馴染んだ知識や概念に「翻訳」されることになるために、場合によって夢の内容がアヤフヤ、トンチンカン、漠然としたイメージになる場合も多い。

 

しかしながら、これは夢あるいは内的経験に慣れてくるにしたがって次第に明瞭な意味に変化してくるのである。

 

夢情報が重要なのは、常識という歪曲観念に満ちた顕在意識がどこかに消えている状態(眠っている)でのダイレクトなものであるからなのだ。

 

それはまた大きくいえば、歪んだ先入観念がない意識状態での、多次元的な情報授受とも言えるだろう。

 

逆に先入観念がないがゆえに、自分の常識観念や既存の知識とずれることも多いため、夢が断片的でアヤフヤに感じられるのである。

 

例えば外国に行ったとして言語の意味が不明であれば、何が何だかよくわからないようなものだし、中途半端な言語能力では今一ぴんとこないはずである。

 

夢が断片的で漠然としているならば、それは例えばあなたやわたし達の実際あった過去の記憶と同じ類のものでもあろう。

 

何年か前の記憶を思いだすならば、多分それは断片的でもあり、実際夢の記憶とそう変わらないことに気がつくことだろう。

 

このように記憶においては夢の中での出来事も、実際の生活での出来事も同質であることに気付けるはずである。

・・・ 

我々はこの御膳立てされた物理的世界にどっぷり馴染んでおり、またどこか唯物論的な観念がしみ込んでいるおかげで、この物質的体験世界だけをリアルなものだと思い込んでいるのだが、実はそういうことではないようである。

 

パラレルワールドや多次元世界と言われるものは実際にあるわけで、その多様な諸世界も今の現実世界も、全て普遍的な(神の)意識の波動的投影によって表現されていると考えられる。

 

我々の拡大し続ける魂・意識も、その普遍的な、全包容的な、遍在的な意識の海の中に在るからには、

 

意識においては本来自由自在に諸次元を横断することも可能であろう。

 

またそういう拡大された意識レベルのことを宇宙意識とも言うのだが、この地球上ではその宇宙意識にまで同調出来る存在はそれほど多くはないようである。

 

またそこまで至らぬ者としては、初歩的であろうとなかろうと、瞑想や夢のような拡大された意識レベルでの経験をも重要視しなければならないはずである。

 

顕在意識が外れた状態での意識経験の記憶である夢もまたおろそかにすべきではないし、またそれは誰でも、毎日、タダで身ひとつで可能な意識拡大プロセスなのである。

 

自己観想、内面の探求、

 

まさに灯台もと・・暗し・・・・

 

本質、真理を知る方向に歩くために、お金をかける必要もない。

 

どこかに遠くに行く必要もない。

 

またどこかの誰かに依存するわけにもいくまい。

  

一歩一歩進むのは今の瞬間の・・意識ある・・自己自身なのである。

 

日々の当たり前の生活の中にこそ、

 

かけがえのないそれぞれの魂の成長の機会があるのだ。

 

それとも、どこか山のあなたの空遠くに在ると思っているのだろうか。

 

・・・

 

例えば夢は、自己内面から湧出するところの、拡大された<わたし>からのメッセージとも言えるかもしれない。

 

それは気付けば、手軽でいつでもどこでも可能な魂意識の1つの拡大方法である。

 

夢などとゆめ夢馬鹿にしてはいけない。

 

更に進んで、静かに単座するような瞑想等を生活の中に取り入れることが、これからの人類にとって極めて重要なテーマであると言えるだろう。

 

人間存在にとって、意識的・・意識を獲得することが重要なポイントなのである。

 

次第に混乱の度を増すかのような外の事件や出来事だけにフォーカスし、感情や思考で反応し続けることは、まるで太陽の日差しで作られる自分の影法師を追いかけ回しているようなものだ。

 

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無益の  事を行じて  徒(いたずら)に 時を失うことなか  (正方眼蔵随聞記)

 

 

 

Dogen01

余談ではあるものの、

わたしはある時の退行催眠の体験において、道元とおぼしき人物の明瞭な映像を内観した時があるために、その御縁を感じて時折道元禅師の記事やら写真やらを掲載させていただいている。

  

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。