気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の進化(1) 私は誰?ここはどこ?

2011-02-12 11:06:12 | 覚醒意識

多くの人々は生まれて以降、次第に今現在のような「意識」に成長した来たと考えているだろう。

 

有機的な物質形態を有する肉体が生れた後に、幼児期を通じて大人になる過程で、次第に「わたし」としての自意識が発達してきたとしか考えていないのかもしれない。

 

要は、「意識」は後で生じたものだと考えているだろう。

 

これは無理もないものだ。なぜなら生れ落ちた瞬間のことも普通は「記憶」にないからだ。

 

またこの世界に対する知覚・認識等の情報処理と記憶が、主に頭脳によって行われるとするならば、生まれたての赤子の中枢機能、有機的組織細胞としての頭脳は、始まったばかりでその神経細胞の結びつきが少ないために、何が何だかわからないということになり、「自意識」などの高度の認識作用も生れる段階ではないと考えられるからだ。

 

これは、ごく自然なあなたやわたし達の成長過程と考えていることだろう。

 

これらを漠然と受け入れ、我々はせいぜい発達途中の肉体である・・と考えているのではないだろうか。

 

肝心なところは、「記憶」がなければ我々は「自己を定義する」事が出来ないからだ。

 

「わたしは誰?ここはどこ?」 以前の状態では何が何だか・・までも、行けない有様となる。

 

ましてやその「記憶」が無い場合には、転生を続けているような高次の普遍的な「魂」など、どこにも発見できず、あるのは次第に増えてきた顕在意識のみであり、それは肉体の成長に合わせて生じるものだと考えるのも無理からぬことである。

 

また昨今の医学では、脳のある部位を電気的に刺激すると、それに合わせて快や不快、苦痛などを感じることを検証している為、いかにも我々の「生命そのもの」が頭脳や細胞の刺激による情報伝達の賜物であるとしているようでもある。

 

すなわち、我々の「生命」とは、物質分子、細胞による様々な情報伝達によって作り上げられている複雑で有機的組織ということになるだろう。

 

従って、科学的な見解としては、我々は物質・分子の重合した複雑な組織以外の何者でもない・・という見解・観念が生れているのかも知れない。

 

誰でも知っている、世間的な常識とは多分そういうものであろうか。

 

ところが、

 

ここにはちょっとした観念上の早とちりがある。

 

すなわち、我々の「生命」とは、物質分子、細胞による様々な情報伝達によって作り上げられている複雑で有機的組織ということになるだろう・・・とは、実のところ言えないではないのか。

 

それを言うならば、我々の「肉体」とは、物質分子、細胞による様々な情報伝達によって作り上げられている複雑で有機的組織ということになるはずだ。

 

ここで「生命」と「肉体」が入れ替わっていることに気づくだろう。

 

現在の人類の生命観、すなわち生命=肉体、という早計な観念がいつの間にか先に出来上がっているのだ。

 

すなわち、生命というものは物質形態でしかないという理念が既に埋め込まれている。

 

生命の観念的な定義がそうであれば、別に何も問題はないのだが、

 

我々の真に求めているのは、それらを超えた「わたし」という真実のほうである。

 

肉体のことは大枠理解されてきただけのことであり、大切なものはそこにはなさそうである。

 

あなたやわたし達がウスウス感じている、更に大きな生命の普遍的事実こそが肝心なものであろう。

 

今までの人類は、その観察と思推の対称としての、我々の肉体を評価分析しつつある段階であるものの、

我々という存在自体が=肉体である・・という完結された結論には至れないことに注意をする必要がある。

 

要は、人の肉体の構造を調べ、その働きを解明しつつあるということは言えるが、我々が単に肉体であるという判断には、かなりな無理があることに気づけるだろうか。

 

ごくごく普通に考えても、肉体機構を少し調べただけで、即、「わたし」とは単に「肉体である」とは言い切れないはずだ。

 

「わたし」のことは、実は未だよくわからない・・というのがここでの妥当な判断ではないのか。

 

これは「無知の知」と言われる、意識の1つのステップともいる段階である。

 

より大きなフィールドから見た、意識の進化といわれる「本道」を思い出すには、

  

人は、全てを知っているわけではない、実のところわからないことだらけである・・という

自己の無知をまず知ること・

ある意味で、より広い見解、より高次の意識の目覚めを通過する必要があるのだ。

 

知らない・・ということも知らない意識の段階から、

知らないことに・・気づいた意識の段階への飛躍である。

 

無知の知は、必ず通過すべきものであろう。

そうでなければ、謙虚さも探究心も起きようがないではないか。

 

あなたやわたし達がそう思っているかも知れない世間の常識が、全てを知っているわけもなかろうし、またそれらがいつか変わってくれることを待つのもまた愚かなことなのだ。

 

古の賢人であるかのニュートンも、

「私が知っているのは、この無数にある砂浜の1つぶ2つぶでしかない」 と言ったと伝えられている。

 

「わたしとは何か?」・・・・

 

究極の問いかけの答えを、世間が簡単に出して良い訳でもなかろうし、

また、

漠然とした集合意識に流されつづけ、その時々の1つの見解、観念に留まっている段階は、

すなわち、いわゆる3次元的な自己認識のカテゴリーに幽閉されている有様といえるだろう。

 

自らが自らの観念の中に閉じ込められていると言うことだ。

あなたはどうだろうか。

わたし達は「単に肉体である」という・・・集合的観念すらにも気づかないでいる、大勢の眠れる存在が集うのが、今の我々の世界というものだろう。

 

ここは、このレベルでの魂の学び舎のようなものだ。

神なる根源と同じ、「自らに目覚める」ことを体験するための学び舎なのだ。

我々全て、例えば学校に通っている、記憶喪失の学生のようなものかも知れない。

私はだれか、そしてどこから、来てどこに行くのか、

なぜ今ここにいるのか・・・。

それを思い出すためのスタディ、あるいは学習をしているようなものではないか。

 

もう、あなたはウスウス思い出してきたことだろう。

・・・・ 

ところが、我々のそのような生命もいつか終わりを迎えるときがくるのは、誰しも知っていることだ。

 

我々がこの地上の3次元的な、肉体に束縛された観念・信念をこころに持って死を迎えた場合には、どういうことになるだろうか。

 

死んだら終わりと思っている存在が、その時を迎えた場合に、その通りに終わりになってくれれば、ある意味ありがたいことでもあろうが、そうは問屋がおろしてくれないのだ。

 

我々が知っている・知っていないに関わらず、普遍的な意識である存在自体は、死んでも死ぬことはない。

 

臨死体験や意識の体脱体験を知っている人々には、肉体が朽ちても、意識はそのまま存在する事がわかっているために、既に一段進んだ大きな理解があるものだ。

 

臨死体験や体脱体験で得られるのは、

「あなたという意識」は、あるいは「魂」は、肉体に依存しているわけではないという、直接的体験知である。

 

一部の科学者などは、それは頭脳の妄想であるとか、思い違いであるとか言う人もいるだろうが、彼らは、それぞれの自分という「わたし」が直接体験をしているわけでもない為に、それこそいい加減な見解といえるだろう。

 

彼らは今まで馴染んだ狭い五感の知覚の範囲に束縛されているだけのことだ。

 

自分で調べもせず、体験もしていない権威達も、実は未だ発展途上なのだ。

 ・・・

 

「わたしという意識」の範疇は、その体験者だけがそのことを理解するしかないものだ。

 

お饅頭を作って、人に食べさせるようにはいかない。

 

意識の体験は、物質顕現のように誰にも等しく知覚するレベル、外の体験ではなく、それぞれの内面の直接体験である。

 

しかしながら、それらの意識体験をした人々の報告は、めいめい勝手な主観的想像ではなく、ある意味でしっかりと体系づけられる「客観性」をもっているのだ。

 

昨今では、様々な臨死体験の集積や分類、あるいはヘミシンクという意識のカテゴリーの探索、あるいは前世退行催眠、リーディング等を通して、人間の主観という意識的作用、あるいは古代からの「魂の存続」という範疇にあっても、その中に確実な「法則性」、「客観性」があることが理解されてきたのだ。

 

ということは、

 

多くの人々が何を考え、何を信じていようと、あるいは無意識であろうと、必ず適応しなければならない、意識的「法則」があるということなのだ。

 

法則は、一時の、移り変わる物質的現象だけにあるのではない。

 

・・・

我々が肉体であり、肉体が死ねば「我々という主体」も無くなる・・・という信念をもって死したとしたら、その通り「無くなって」しかるべきだと考えるかも知れない。

 

思えばその通りになるというある意味での「意識の原理」によるならば、

 

それが無くなると思えば、そうなってしかるべきだと感じるかも知れないが、実はそうではない。

 

なぜならば、簡単に言えば、それが有る、無い、多い、少ない・・という判断をする等の観念を生じる主体、本体、あるいは意識の視点自体は、無くなりようがないからだ。

 

それを言うならば、

   

魂、霊というものは物質顕現の範疇にはなく、それを生じせしめる、あるいは表現するところの背後の要因であり、時間空間という表現形態に属しているものではないからだと言えようか。

 

肉体のように現れて可視化しているものが消えるからといって、その背後の因も消えてしまうという考えは、

 

たとえ百歩譲っても、

 

いわゆる物質レベルでの「エネルギー」保存則の類推からも外れているだろう。

 

我々の肉体を通じての生命の顕現は、

 

物理層ともいえる、単に1つの表現層で行われるものであり、

 

意識的存在である人間は、更に大きな存在表現層を合わせ持つのが真実である。

 

それはどこか階層構造で構築される、インターネットの情報処理の仕組みに似ていなくもない。

 

意識的存在が、鉱物、植物、動物と進化する有様と似ていなくも無い。

 

わかりやすい三次元的物理層から、次第に高次に拡大することが、

 

次元上昇というものであり、

 

また、

 

人の霊的進化といわれるものであろう。

 

それが「道」であり、真の意味での「王道」なのだと思う。

 

実のところ、気づけば人類は今、あるステップ、通過点での最後の段階にあるのかも知れない。

 

そろそろこの学び舎での、楽しく眠れる時限は終わるかも知れないのだ。

 

・・・

意識的存在である、あるいは魂的存在である我々は、

  

我々の意識の意図、注意の先、あるいは視点によって、

 

我々がどこにいるのか、誰なのかをいつも「選択」している。

 

それぞれの、あなたや、それぞれのわたし自身が、何者であるかを選択をしているのだ。

 

「 I am ・・・ that  I  AM 」

 

「わたしは誰?  ここはどこ?」 の解の1つは、多分にそういうことであろう。

 

どんなことも選択できる意識的存在とは・・・、

 

それは、

  

まさに本来は創造主ではないのか。

 

あなたやわたし達が、本来 仏子、神子であるとは、

 

まさに、そのことである。

 

実のところ、広大で無限の宇宙というものも、

 

まさしく、我々という 「わたし」 の内面にあるものではないか。

 

 

Hs199919cweb

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。  

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人は肉体にあらず

2011-02-06 16:07:30 | 覚醒意識

人は皆その五感によって映ずる内面の知覚を、すなわち外の世界であると思っていることだろう。

 

我々の知覚の80%以上を占めている「視覚」に関しては、色々な物質形態が空間に存在し、それに光が当たることで、その反射光が眼の網膜を通じて脳に刺激が伝わり、それが映像として認識されるということだろうか。

 

その他の知覚機能も同じように、耳や鼻や皮膚を通じた刺激が脳に伝わって生じるものだというのが、定説であるに違いない。

 

確かにそれも五感を経由した、いわば信号情報処理のルートとしては正しいだろう。

 

従って、我々は終局はいわば「脳」であるという見解が生じても可笑しくはない。

  

しかしながら、それらの説明は、我々の肉体という有機体の、限られた周波数帯域での情報処理機能を説明しただけのことである。

 

光という電磁波、空気の振動波、物質の接触による化学的刺激等の一定の振動率範囲の情報処理を言い表しているに過ぎないという考えが妥当ではないか。

 

例えば、パソコンにおける中央情報処理機能、情報伝達経路、皮膚表面での外面とのインターフェースの機能を説明しているといえなくもない。

 

それによって、我々自体が、波動の情報処理を行う、有機的な物質である・・すなわち肉体であるという見解が妥当であると思っているのかも知れない。

 

しかしながら、それは備わった身体機能を言っているだけのことだと考えたことはあるだろうか。

 

肉体の機能を説明できるからと言って、それ自体が「わたし」と考えるのは早計なのではないか。

 

人間は脳でもなく、視覚でもなく、聴覚でもなく、臭覚でも、皮膚感覚でもなく、そのどこにも「わたし」という、いわばご本尊が鎮座しているわけでもない。

 

あなたが、脳のどこかに「居る」のだろうか?

わたしが、身体細胞のどこかに「在る」のだろうか?

それとも、全てを含んだ総合的な「肉体」が「わたし」というものだろうか?

 

そう、総合的な肉体全体が、個体としての「わたし」である・・・という風に思っているかもしれない。

 

わたしは「肉体」である・・・という「思考」である。

 

しかしながら、それは身体機能を調べた段階での、人の見解・判断・すなわち「思考」に過ぎないのだ。

・・・

これを称して、人が自らを「肉体である」と思い込んでいる有様という。

 

肉体の機能を分析・観測して、その肉体機能を説明できるからと言って、それが即ち「わたし」であると言うのは、近視眼的な思考であると思えないだろうか。

 

比喩で言えば、わたし達がパソコンを前にして、それを操作する「わたし」が、パソコンそれその者であると言っているようなものだ。

 

パソコンの画面を見続けていれば、いつの間にか「わたし」が眼に見える、音に聞こえるパソコン自体だと思い込んでしまうようなものだろう。

 

あるいは、面白い映画を観続けてしまい、いつの間にか感情移入してその映像の世界に浸るようなものではないのか。

 

すなわち、五感の観測に基づく全ての判断は、すなわち「人の思考」であるということなのだ。

 

また人の人たる所以は、その自己認識・・にある。

 

あなたは、「あなた」を何だと思っているのか・・

 

肉体であると、思っているのだろうか・・・。

 

人の世界の有様のすべては、人が判断し、それが真実である・・・としている・・・「思考」・「観念」でしかない。

 

人類に関わる全ての作り物も、ビルも道路も航空機も、当然文学も、あるいは科学でさえもそれから派生して来ている。

 

五感の観測事実に関する、その時々での妥当な見解、それを法則や定理などと言っているだけのことだ。

 

おなじように、

 

我々自身の肉体も、それが機能していること自体は充分に説明できるようになったが、それ自体が「わたし」の「全て」である・・・と結論づけているだけのことであろう。

 

また多くの人々が、そうだと漠然と信じている・・というだけのことである。

 

右も左も、皆なんとなくそう思って生きてる・・と思っているだけのことだ。

 

人の知覚できる、波動情報としてそこにある、観測されていることは事実ではあるものの、それが「全て」であるという、妙な結論じみた観念が支配していると気づけるだろうか。

 

観測事実への1つの見解、それが「全て」であると・・・、すでに判断してはいないだろうか。

 

このような思い違いは、人類世界の実にいたるところに満ちている。

 

逆に、文明化されたといわれる地域ではもっとも甚だしい有様を呈している。

 

翻って、「わたしは何か?」という観念に関して言っても、

 

われわれという存在が、肉体でしかない・・・という結論めいた、集合的な観念に流されていることに気づけるだろうか。

 

我々は肉体機能を観測し、理論付けして説明しているだけのことであるにも関わらず、我々が単に有機的物質であるという漠然とした包括的結論に、すでに至るのは可笑しな話ではないか。

  

ここには、実に大きな問題があるのだ。

  

おおげさに言えば、我々は単なる肉体である・・・という早計な観念が、人類の全ての不幸の原因であるともいえるかも知れない。

 

人生で多くの肉体が生れて、死んで行く有様、朽ち果てる有様を見れば、人によってはそれが恐怖となって、それにしがみつこうとするようになり、多くの人々が我欲、生存欲の死闘を演じるハメになるのかも知れない。

 

それもこれも、

 

人間は数十年だけの刹那の物質的生命でしかない・・と思っていればこそ の事かも知れないのだ。

 

戦いの歴史も、権謀術数も、国益も、あるいは個人の利益も、それを皆がみな求め行く元にあるのは、個体の生存本能というものであろうか。

 

人を攻撃するのも、批判するのも、仕返しをしようとするのも、全てが己という個体の生存を出来るだけ永らえることだけにあると言っても過言ではないだろう。

 

万物の霊長とも言われる人類が、その歴史の最後には、悲しいかな、食物連鎖の長に過ぎなくなってしまうのは、どういうことだろうか。

 

その元にあるのは、万物の霊長たる人間達が、自らを、「単なる肉体である」とする思考なのだ。

   

通常の考え方であれば、百歩譲って、常識の範疇から言っても 「人間は肉体を有する存在である・・・」 というのが妥当な観測事実であるが、いつの間にか「人間は肉体でしかない・・」という感覚、早計な観念に至っていること自体に無理があると気づけるだろう。

  

本来無理のある、単なる思考にもかかわらず、それが真実正しいという風に、漠然と思い込んでいる有様は、確かに洗脳、または催眠ともいえるかも知れない。

 

ダーウインの進化論の曲解も、物質偏重科学も、あるいは優生遺伝学も、すべては「わたしは肉体でしかない」という観念の賜物なのだ。

  

いわゆるスピリチュアルな言い方であるこの三次元世界、あるいは第3密度と謂われる我々の世界の意識レベルでは、時間空間が主であり、人間は時間空間に属するところの、単に思考能力を持った生き物であるという認識が特徴の段階であると謂われるが、まさにそのようでもある。

 

たしかに、

 

眼に見えないものを存在しないとする観念の流れの中では、「思考」も眼に見えない為に、それは単に計算や想像だけのための道具に過ぎないとされてきた。

 

しかし現在は、思考を扱えない限り、物をいくら集めても、人類の求めてきた幸せはあり得ないことに、ようやく気づき始めてきたのだ。

  

今は、眼に見えないものこそが、眼に見えるもの原因であることに気づき始めた段階にあるようだ。

 

なるほどたしかに、

 

肉眼で見える物事は、結果でしかないことに、あなたもわたし達も、もう気づいていることだろう。

 

意識が先で、エネルギーを介して現象となっていることは、人間の意識にかかわる、様々な不可思議現象でも推し量ることが出来よう。

 

実のところ、思考や感情は、内面で観える「もの」である。

 

外の世界の物事は、人の内面の反映であり、また世界はそれらの集合的反映なのだ。

 

人々は、自身の内面に気づく時がきている。

  

人の世界が美しく、清らかで、楽しくあるためには、

 

我々が、一人ひとりの内面が「美しく、清らかで、楽しく」あることによる。

 

その逆ではないのだ。

ことここに及んでは、誰がどう見ても、どう考えても、妥当なのではないのか。

 

自己の内面のことを、他者に頼ろうとするような思考は、悲惨な支配をもたらすだろう。

 

自分自身に対して、わからなかった、知らなかったという言い訳が通じるはずもないのだ。

 

あなたは、常に「あなた」であり、不特定他者ではないのだ。

 

また、わたしは常に「わたし」であり、不特定他者ではない。

 

そうであればこそ、全ての「あなた」は、全ての「わたし」でもある。

 

ここは肝心なところだろう。

 

わたしは「わたし」である・・・そのことに気づいている「あなた」は、

 

本質的に根源たる、全包容的意識、一なる存在原理と調和・一体である。

 

常識的には、実に変な話ではあるが、

 

究極においては、

 

「あなた」は、即ち 「わたし」 である。

 

全てが兄弟姉妹であるという表現は、そのことを示している。

  

あなたも、わたしも、あらゆる全ても含め、究極においては、当然のことながら、

   

全ての根源と・・・ひとつ である。

 

Anndoromeda

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

 

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