気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

自らの神性への気づき

2011-01-30 12:20:41 | 覚醒意識

我々は、知らず知らず、自らをわざわざ、いわゆる低次元的な存在としてきたようだ。

 

人は知性をもった動物の一種であるという教わったかも知れない1つの観念・・・。

 

ちょっと頭が良い「動物」という観念であろうか。

 

あなたは自分のことを、どう感じているだろうか。

 

学校で習ったことがあるかも知れない 「人間は社会的動物である」 という観念は、人間という存在の表層、すなわち肉体という相のみを見て来た結果だろう。

 

近代以降、眼に見える物、皮膚で感じる物のみを真実としてきたということだろう。

 

物的証拠がなければそれは真実ではない・・という今では相当に浅薄で物質的な「観念」である。

 

それこそ「物の形」でしか思考の出来ない「三次元」的な有様のことである。

  

我々は物質形態で構成される「肉体」を自分であると思い込んできたのだ。

 

陰謀論者に言わせれば、刷り込まれ、誘導され、洗脳されてきたのだというかも知れない。

 

しかしながら、誰がどうであれ、自らがそういう想いに浸ってきたのは間違いがなく、世間や陰謀めぐらすフィクサーのせいにも出来るわけはない。

 

DNAをいじくった悪い宇宙人?や、自らの尊大さのみを信奉する悪い民族?のせいにすることも出来ない相談ではないか。(笑)

 

眠ることも、目覚めることも、決して誰かのせいではなく、

  

それこそが、完全なる自由をその1つの特徴とする意識的存在であるわたしたちの所以である。

 

ここが肝心要なのだ。

 ・・・・

誰かに依存していると考えるからこそ、誰かを批難することになるだろう。

 

政治に依存し、それに期待するからこそ、政治を批判することに終始することにもなる。

 

夫や妻に依存し、それに期待をかけるからこそ、相互批難となって地獄のような生活にもなるかもしれない。

 

自らが物に依存していると思い込んでいるからこそ、物資やその換算貨幣を集めることに人生を特化し、セレブだリッチだと実体のない虚栄を吹聴しなければ収まらなくなるのかもしれない。

 

我々は、まさにバーチャルな物資的・・幻想の体験世界を遊んでいたようだ。

 

しかしながら、

  

世界がどうであれ、他がどうであれ、自らの想いは自らがいかようにも出来るものであることに、いまはもう気づかなければならない。

 

釈尊が言ったといわれる、唯我独尊とは、自分だけが正しいなどというような、浅薄極まりないエゴの主張では毛頭なく、人のあり方は、人自身が決めているという「完全な自由」を意味しているのだ。

 

たしかに、この次元独自の物質観念のフィルターによって、それが見えずらかったのかもしれない。

 

それぞれのわたしの、その完全な自由を、自らが認めることが出来るかどうか?

 

結構、勇気がいるだろうか。

 

完全な自由とは・・・個人個人の、勝って気ままな自由という意味ではなく、

 

個々の権利を主張するという意味でもなく、

 

もっともっと深い意味がある。

 

それこそ、あるがまま・・・という意味でもあり、

 

また、

 

全てがすべて (みずから)に 来する・・・ということである。

 

その在りかたは、まさしく神なる者、造物主・・根源の光・・そのものなのだ。

 

大きい、小さい、多い、少ないという観念で自らの神性を覆い隠してはならない。

  

この次元であっても、どの次元であっても、どのような世界であっても、

 

どの国で生れて死のうが、

 

どの惑星で生命の体験をしていようが、

 

たとえどんな生き様であっても、

 

過去がどうであろうとも、

 

何を知っている・知っていないに関わらず、

 

意識的・無意識的かに係わらず、

 

あなたは、今・この瞬間に・まさに存在している事実がある。

 

過去の記憶や、未来の予想は、「今ここにある」ことでしか存在できない。

 

過去へのこだわりも、未来への期待も、何の解決にもなりはしない。

 

そう、

  

あなたは、「今」生きてある、あなた・・自身に気づいただろうか。

  

何が無くても、何があっても、誰がどうでも、自我がどうだろうと、

 

あなたも私たちも、

 

今という、永遠でありつづける、創造の瞬間に、生きているのだ。

 

何がどうあろうとも、過去や未来がどうであろうとも、

 

まさしく神性の具現そのものであることを、

 

決して忘れてはならないはずだ。

 

今、この瞬間こそは、

 

表面ですべるような知の集積だけではなく、

 

自らが真に内面で実感すべき時であることを示している。

 

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物性から霊性へ(2) 次はこころの時代

2011-01-23 14:28:18 | 新地球文明論

 

この地球も1つの大きな存在フィールドであり、また極めて大きな家のようなものだ。

 

その中で生きているすべての生命は、その家の中の兄弟や姉妹といえる。

 

兄弟・姉妹、それは何も血でつながった人間同士の間柄だけではなく、共時生命という縁でつながった「意識たち」すべてのことである。

 

それは夢想的な考え方から出てくるような単なる理想論でもない。

 

あるがままは、古くて汚れて歪んだ、私利私欲・我欲の眼から観えるものではなく、

 

すでにあるすべて、変化し続けるすべてのものが、あるがままで奇跡であり、また美しいということに気づくことで得られる視点である。

 

それは自・他全てに意味を見出し、全てを肯定する・・・本来当たり前の視点でもある。

 

それは、全てを通して現れている愛、既に周りに溢れているその「愛の示現」に気づくということなのだ。

 

「愛」とは抽象論でも感情論でもなく、あるがままの美しさ、その意味の深さを、

 

今この瞬間に存在するある、あらゆる物事に於いて、それぞれの「あなた」が見出すことである。

 

それは、全てあなたの気づきと想いにかかっている。

 

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何が良くて何が悪いか・・というその時々の相対性、二元性の観念はもう捨てたが良いだろう。

 

多くの人々が感じているかも知れない、このくぐもった社会で受けるこころの寂しさや孤独さや、あるいはなにか満たされない思いや失望は、

 

逆に、

  

全ての人にある想いの集積、「こころ」の中の曇りや歪を示しているのだ。

 

自分以外に、外の誰かに、社会に何かを期待している幼きこころ模様でもあろうか。

 

肉親、親兄弟であっても期待はずれというのに、一体全体何もせずにばら色の世界が訪れるとでも考えているのだろうか。

 

例えばいつかどこかで、ひょっとして2012年に、黙っていても、あなたを誰かがここから救い出すのだろうか。

 

全てが全て、魂として、自らで選んだものであることを、真から理解する意識の視座に上らなければ、決してあなたやわたし達という幼子を黙って持ち上げる不特定他者はいないのだ。

 

人が気付かなければ、たとえ「神」でもお仕着せやおせっかいは出来ない。

 

まさに、それこそが意識的存在、魂としての真価なのだ。

 

そうであればこそ、

  

人のなすべき事は、

 

世界と称する現象スクリーンでの、期待はずれの対象物や事象自体に対して、我欲の想いを執拗にフォーカスすることではなく、

 

また別のものに新たな期待や希望を託するのでもなく、

 

どのような事象も体験も、それを眺め、体験し、観照しているところの、当の観察主体たるあなた」があればこそだという根本に気付くことにある。

 

それぞれの今行うべきことから逃れてはどこに行くことも出来はしない。

 

そう、やるべきことは、

  

この世界においてこそ、あなたのすぐ周囲にある、「こころ」という重たい鎧戸を開け放すことなのだ。

 

その汚れたこころの鎧戸、または個我・エゴというフィルターは、社会や他者の仕業ではなく、

 

自らが知らす・気づかずに築いたエゴの存続のための鎧のようなものだ。

 

この世界など怖れる必要もないではないか。

 

いったいこころの鎧がどんなに役立つのか。

 

嗚呼それは、逆に重く沈むための重りでしかないのだ。

 

我々はこの世界にそれぞれ一人一人で何も持たずに生れてくる。

 

誰も皆、無垢の意識で現れてくる。

 

そこにはこころの我欲の鎧もなければ、身を守る武器もない。

 

本来誰も皆、誰をも攻撃するはずもないのに係わらず、個我の意識に自己投入してしまった者たちが創り上げた、尤もらしいこの世界の有様を見よ。

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生きてゆくために、どうして人が人と争うのか。

 

生きてゆくために、どうして他の生き物を大量処分する必要があるのか。

 

生きてゆくために、どうして我々の生存フィールド、地球という舞台を汚す必要があるのか。

 

それを理想論と言って投げ捨てる、今までの幼き文明観にこそ、哀れみを手向けてあげようではないか。

 

 

 

あなたも私達も、世界や他者を待ち続ける愚に気付く必要があるだろう。

 

恐怖があればこそ人を集め、人を誘うものだからだ。

 

人それぞれの幾多の過去は単に「記憶」の中にしかなく、それらは、常に今の瞬間から生み出された結果にすぎないのだ。

 

この世界はそれこそ無知で三次元的な世界というよりは、

 

記憶を潜在化にしまいながら、それを一端忘れるやりかたで、いつでもやり直しが出来るという、魂にとって実に楽しき世界なのだと気づけるだろうか。

 

我々は、いつの瞬間であっても、全てを忘れていつでもやり直せるのだ。

 

それこそ、不滅たる魂としての諸処の気づきを体現するための遊戯なのかもしれない。

 

我々は、

 

人間社会のどこかある愚かさや無知に改善の期待をかける必要もありはしない。

 

また落胆や失望を通じて怒りを抱くことも、まこと愚かな行為ではないのか。

 

なぜ他者や社会や国家や支配者に期待をかけそれに追いすがるのか。

 

外の結果の世界への、勝手な期待や失望によって、まさかあらゆる全てが愚かなことだと考えること自体に「幼さ」があるではないか。

 

それは、人の考え方や見方が狭いからだ・・というのは一般的な説明かも知れないが、

 

外の世界に汚れを見出し、それを嘆き、それらを憎む前に、

 

それを観ている”当の”あなたやわたし達に何か問題があると感じたことはあるだろうか。

 

あなたやわたし達は、すなわち、あなたやわたし達自身に責任があるのではなかったか。

 

いつも自分は良く、なにが何でも他者が悪いと思っていなかっただろうか。

 

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親が悪く、友人が悪く、夫がわるく、妻が悪く、子供が悪く、世間が悪い・・・。

 

社会の制度が悪く、政府が悪く、国家が悪く、それを支配している者が悪い・・・。

 

本当にそうなのだろうか。

 

改善すべきは、外の世界の方なのだろうか。

 

変わるべきは外の世界の仕組みであるという観念。

 

それらは全て、自らの存在自体、自らの視点、自らの想いに到底気づかない有様を示していたのだ。

 

大勢のわたしは「か弱い肉体」である・・・という集団的な幻想が個体消滅の「怖れ」を生み出し、

 

その維持に狂奔せざるを得なくなって、最後にはほとほと疲れ果て、そのような結果をもたらした、どこかの誰かを悪し様に言うしかなかったのかもしれない。

 

あるときはそうやって人生を終えたのかも知れない。

 

今の世相はまさにそういうことだろう。

 

しかしながら、

 

ここに大きな意識進化ともいう分岐点が用意されているのかも知れない。

 

世界は確固としてたった1つであり、また、それは不浄であり、変えなければならないという依存意識のままなのか、

 

あるいは、

 

それぞれの感じる世界とは、それぞれのこころによって創られる自己責任と自己創造の舞台であると悟るのか。

 

世界の中に属する1ピースの肉体人間として、今までどおり、他者依存あるいは他者支配の幻影に安穏として埋没したままなのか、

 

あるいは、

 

世界にどっしり在っても、決して世界に属さない、永遠なる魂としての自分を思い出すのか。

 

これも、いわば自らが課してきた卒業試験のようなものかも知れない。

 

あなたはどう想えるだろうか。

 

あなたは死んだら終わりの肉体レベルの意識にフォーカスするのか、あるいは結果を生つづける因たる魂のレベルにフォーカスするのか。

 

他者に物的証拠を求めてはならない。

 

証拠は既に「あなた」に示されているではないか。

 

いつでも、どこでも、他生でも、今でも今そこにある、

 

開拓すべき、拡大すべき、楽しむべき存在、

 

「あなた」という無限から現れた意識生命、永遠の命、魂に、

 

あなたももう既に気付けるだろう。

 

 

 

今までのような物質レベルでのみ振動するリアリティー体現世界は、

当然ながら物質偏重観念主体であるために、極めて粗く重たいフィールドであったが、

物性から霊性へと意識的な気付きの範囲、信念の範囲が拡大することで、

観念フィールドはより軽く精妙でより美しいものとなるだろう。

今は茶化されてしまっている、様々な人にそなわる超能力は、通常の能力となり、

思考の物質化への現象もより迅速になるだろうし、

情報量の多い直接伝達、いわゆるテレパシーも当たり前となるだろう。

今の携帯端末はこの次元におけるその兆候なのだ。

以心伝心では嘘など存在できないし、

また、

物質化表現が迅速になれば、それこそ「こころ」の歪がすぐに現れて自分を苦しめることにもなるだろう。

「こころ」の使い方を知らずして、一段と高い表現世界は周囲に現れることはなく、

ましてや権威や富という物資、結果を集めても、

こころが粗野で無自覚ならば、

いつも、まさにその通りの次元世界に居る事になるだろう。

 

こころは魂の表現のツールであり、

猿が道具を使うことから人類が発展したのだと言うのならば、

我々は今、「こころ」という最も強力な創造の道具に慣れなければならない。

ここには、物質でも科学でも決して超えることの出来ない「意識レベルの峠」があるのだ。

 

わたしは何か?」

人間とは何か?」

 

それを問い続ける、大いなる道の途上で現れる、より軽やかで美しく、表現多彩なこれからの新しい世界に乾杯しよう。

 

 

「わたしとは何か?」という根源的な問いかけは、まさに宇宙の顕現の発端にあるのだ。

 

それこそが、「あなた」という、今は遠い「根源」から発した光で出来た帰還ルートなのだ。

 

あなたは、もうすでに気付いたことだろう。

 

あなたのその間近にいる人々は、あなたとともに、この世界に雄飛した、

 

かけがえの無い「魂」の仲間であることを。

 

 

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物性から霊性へ(1)物質文明終焉の匂い

2011-01-16 12:58:36 | 新地球文明論

現代文明は物質文明ともいっていいだろう。

 

近代以降に進展した科学・技術は、もっぱら功利主義と結びついて、刹那の便利さを追求する手段となった。

 

人類の追及するものは、主に生活の便利さであり、更なる安楽さであったことは否定できない。

 

衣食住を始め、生活に必要な移動や連絡、運搬までが機械化され、快適さと安楽さを満たすことが人類の主たる目標とされてきた。

 

その安楽さの成果のバロメーターとして、GDPというものが信仰の対象になってきた。

 

あなたもわたし達も、そのGDP信仰という経済宗教のお祭り騒ぎの渦中にいたようだ。

 

しかしながら、早晩お祭り騒ぎは終わりを告げる。

 

なぜなら、欲得の想念の氾濫と、代償としての地球の破壊が、これ以上は不可能なレベルを超えてしまったのだ。

 

我々の居る時空舞台が、立替えの為のように次第に揺らぎ始めているのだ。

 

これは大勢の人々の潜在意識では気づいていることではないだろうか。

 

100年に1度といわれることばかりになった異常気象や地殻の動き、限度の来たやけくそ的な国家予算や社会悪の暴露の情報等にも、その一大変化の兆候を嗅ぎ取ることは極めて容易になってきているはずだ。

 

我々は良くも悪くも、ある意味で宴の後の淋しさを通過しなければならないだろう。

 

次には、いよいよアジアの国々に覇権や富の栄華が移る等とはやし立てるのは、単に人為的な見地からだけの期待でしかない。

 

これ以上、住むべき環境の破壊、汚染を続けることはできない相談である。

 

それは地球という船の上で、船の材料を剥ぎ取りながら、焚き火を続けているようなものだからだ。

 

存在諸世界は、火遊びが行きすぎてすべてを台無しにして、はい終わり・・のようには出来ていない。

 

自然には自己治癒、あるいはフィードバックの機能があると言われている。

 

確かに、

 

そうでなければ、何百万年、何万年、何千年という時間軸の間に、あるがままの自然、何億種とも言える生命の営み自体が一瞬たりとも維持できなかっただろう。

 

何も変哲もない、あるがままの自然がそこにあるのは、それが実は極めてダイナミックで英知に満ち満ちているからこそなのだ。

 

母なる地球、大自然は極めて優しく、厳しく、そして強靭な愛という仕組みの具現なのだ。 

 

自らを生かす親のようなこの地球に一時戦いを挑み続けてきた刹那的な思考回路はすでに焼き切れたのだ。

 

わがまま放題し放題のいわば放蕩息子は家に還る時間であろう。

 

人類はGDP信仰、物質信仰という、いわば狂奔宗教から抜ける時がきたのだ。

 

旧態以前たる古いこころを入れ替える、あるいは自らで洗い清めなければならない時期にいると思われる。

 

早晩、大自然は再び別のサイクルを通ってでも、自らの調和を取り戻さざるを得ないだろうし、また、

  

この地球体験フィールドは、現在地表にいて学んでいる魂達だけのためにあるのでもないからだ。

 

今後も、さらにある種のカタストロフィー的自然変化が様々起きるだろうが、それに絡んで今後たとえ社会の多くの物質や富が失われたとしても、それは、その他に大切なものがあるということに気づく為のプロセスなのだと肝に銘じようではないか。

 

こと・ここに及んで、物や地位や名誉などに執着し、それに追いすがってはいけない。

 

社会の無知という「揺りかご」の中に眠っていてはいけない時期なのだ。

 

お金さえ出せば揺らしてくれる狭い常識観念という「揺りかご」は、もうじき無くなることだろう。

 

過去・現在・未来を通じて綿々と続く、個々人の生と死という人生のプロセスを、小さなプロセスだと言うならば、今の地球規模の様々な変化は、大きな人類という括りのなかの一大成長時期とも言えるだろう。

 

地球という内と、宇宙という外の一大変化がピッタリとシンクロしているようではないか。

 

それは各人の内と、世界という外の関係と同じようである。

 

魂である自分を思い出し、そしてしっかりと眼を見張りながら、この愛すべき学び舎である地球の進化を観察しよう。

 

それは、今ここにいる「あなた」の内なる進化とまたシンクロしているはずなのだ。

それぞれの意識がちょうど気が付く範囲だけ、あらゆるものすべてが有意味で繋がっているということなのだ。

 

  

我々の体験フィールドを与え続けてくれたこの地球、

 

人類の苦楽にもいつもじっと黙って共感してくれた地球、

 

何億という生命の種を育み続けてきた地球、

 

狭い生活範囲の了見でしか生きていない我々人間達の、

 

極めて大きなバックボーンであるこの地球に、

 

心から感謝しないではおれない。

 

我々こそ、そろそろ地球規模、宇宙規模でものを考える時期にきている。

  

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地球という大きな家

2011-01-07 14:20:12 | 宇宙的気付き

地球は大きな家のようなものだ。

 

そこで人は赤子として、この次元の乗り物、肉体をもって生れるという参入方法が採用されている。

 

多くの人間の営みの中で自然に用意される肉体という乗り物に、無意識レベルを通過して顕われてくる仕組みである。

 

無意識層を通じてこの世界に意識を顕現させること。

  

我々はそれを「誕生」と言っている。

 

生れ落ちるためには、一たん無意識というフィールドを通過せざるを得ず、赤子の時には「私」という個我を意味する顕在意識が構成されていないとしても、そこには間違いなく元になる「意識」があるのはわかるだろう。

 

因たる意識の1つの発現、それを人はあたらしい「生命」(いのち)と呼んでいるのかもしれない。

 

赤子の有り方は「素の意識」の顕現そのものといえるだろう。

 

幼いいのち、それはあたかも、土地に蒔かれた種のようなものだ。

 

種の中には様々な記憶や青写真が刻印されているように、全ての人々には魂がある。

 

子供が生れる仕組み、それがたとえ人々の肉体にプログラムされている男女の本能の機能によるとしても、子供が生れることの不可思議さと神々しさを感じないではおれないではないか。

 

この地球という一時の時間空間の中で培われた生命の顕現形態の、その仕組みの素晴らしさを感じないではいられない。

 

三次元時空と言えども、この地球もかけがえのない体験フィールドなのだ。

 

 

我々が生れ落ちたばかりの時は、そこには何もないのではなく、意識されていない、気づいていない膨大な潜在意識がある。

 

その潜在意識には今回の生だけではなく、普遍的な生命・意識の個別表現としての幾多の「魂」の記憶があるのだ。

 

人生とは、本来ならば、高度な生命形態としての人間の生き方を通して、広大無辺の意識存在としての自己を再び思い出すことが大きな目的であろうか。

 

そのためにこそ、地球の1つの周波数帯域であるこの三次元世界に無垢な意識として現れたのだろう。

 

多くの人々が、今はこの世界が唯一の現実と思っているかもしれない、この世界へである。

 

不謹慎なイメージでは決してあるわけもないが、それは魂の遊びのようなものかも知れない。

 

そう、

 

この地に来た意識的存在はその多くが忘却の層を通過し、うっかり無意識であれば、それこそ眠ったまま幾世も過ぎてしまうような輪廻に捉えられてまで、このフィールドに降りてきたといえるのだ。

 

あなたはどう想うだろうか。

 

肉体の個我のあなたより大きな存在である「あなた」を想い出してきただろうか。

 

しかしながら必ずしも過去生の記憶を沢山思い出す必要もないかもしれない。

 

それらは自らが「普遍的な魂」であることに気づくためのものであり、幾多の過去生自体が重要なものではないからだ。

 

なぜならば、今の我々の在り方そのものが、それを集大成して顕しているからだ。

 

あなたはすでに今、あなた自身である「あなた」がそこにいることに気づいているだろう。

 

人は石でもなく、植物でもなく、動物でもない。

 

意識的・意識を有する人間は、すでに膨大な経験と情報を携えていることを示している。

 

それは、幾多の過去と言われる「体験」の蓄積であるという表現も出来るかも知れないが、

 

時間と空間とイメージの中の、幾多の体験、人生群の賜物ということではなく、

 

実のところ、全てであるところの「わたし」という一なる根源に気づき始めたということであろう。

 

根源としての一なるものは、無限の方向に「あなた」という不壊の光を発したのだ。

 

その、それぞれの光の先端が無数の「魂」であるならば、

魂である、あなたも私達も、本来は一なる根源の子供たちであり、

 

無理に突き詰めなくとも、神なる根源と不可分一体であることを示すのだ。

 

 

この地球時空圏という、いわば大きな家に生れ落ちたことも、

 

そして苦労も楽しさも、喜怒も哀楽も、すべて魂に記憶されているのだ。

 

どんなことも、いつも過ぎればすべてが楽しい想い出になるものだ。

 

それが消えざる魂の記憶である。

 

気づけば、カルマも何も人間の観念のなせる業でしかない。

 

また、様々な体験と記憶、

 

それらを生ぜしめるところの「唯一」のもの、

 

刻々と生じる「今のこの瞬間」を大切にするべきではないだろうか。

 

時間空間とはつまるところ、「今の瞬間」の表出顕現形式でしかない。

 

我々の魂は、時間・空間を超えている。

 

そうであればこそ、今この地球という次元世界に遊んでいるのだ。

 

神なる根源の光とは、単なる抽象的観念ではなく、

 

今この時」のあなたという、存在の輝きのことなのだ。

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新年明けましておめでとうございます。

しばらく記事の更新がなかったにも係わらず、

いつもながらブログをご覧頂きましてこころから感謝致します。