気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今は魂進化の分岐点

2013-07-29 11:01:40 | 新たなる地平線

人間は単なる肉体存在ではない。

 

この認識に至れるかどうか、今人類の霊的進化が問われているのである。

 

稀有な時代とはそういう霊的な進化の一大通過点のことである。

 

・・・ 

例えば人間とは何かの一端を車と運転者の例で説明してみよう。

 

なじみの肉体はまるで車のボディのようなものであり、ボディは確かにダーウインの提案した進化論、

 

経験に即した形態的進化を通じて、複雑な機能を次第に装備するようになるわけだが、

 

それは人間という存在そのものを定義するわけでなく、単なる車体に過ぎないのだということ。

 

簡単に云えば、「人」は車体ではなく、それを運転する「ドライバー」なのだ。

 

「あなた」であるドライバ・運転手は、セダンやワゴンなどの「車体」ではないはずだろう。

 

誰も皆、既に経験済みではないだろうか。

 

運転手が車体と異なるのは、

 

車体は言われるままに動くのが役目であり、

 

運転手は・・・運転する主体としての自己「意識」と、進むべき方向を決める「意図」を有しているということだ。

 

その主体たる「意識」と「意図」が本質の「わたし」そして 魂 なのである。

 

 

そして、森羅万象を貫いて在るところの、普遍的な『意識』の中に生成された、様々な創造意図が「想念」であると言って良いだろう。

 

したがってすべての人的現象の大本にあるのは「想念」「思考」「想い」なのである。

  

人は毎瞬毎時、様々な現象の原因である『想い』を宇宙中に放っていることに気付くべきなのである。

 

想念は肉眼に見えずそれが非物質的であるからこそ、

 

 

多次元的な波動として、宇宙のあらゆる次元に伝搬していることも合わせて知っておくべきだろう。

  

また伝搬する波動はどんなものでもキャッチすることも可能なのである。

 

 

人々がそういう認識レベルになれば、嘘も隠しも通用しなくなるのは火を見るよりも明らかである。

  

想念を理解、知覚する嘘のない世界、これが次のステップの文明世界である。

 

  ・・・

意識体の諸経験で形成された想いの質は「精神」となり、

  

その集合せる精神が文化文明の元になるわけである。

 

また個々の魂は、その進化・昇華せるレベルに相応しき時代あるいは文化・文明または惑星文明圏に同調し、新たに転移してゆく経歴が魂の転生プロセスと言われるものなのだ。

 

人存在は、まず「精神」が重要であるということはそういう理由からである。

  

 

先般の記事での「武士道精神」も、日本という国で醸成され昇華された、1つの雄々しき精神の事例である。

 

魂の経験に伴う、行為と思いの質の深化と昇華こそが、魂の財産・系譜となるのだ。

 

  

 

物銭金や地位や名誉や権勢などは、どこにも持ってゆくことは出来ない。

 

誰でも本質でわかることを、実際に想いや行為として表現できるかどうか、

 

 

それが本質で理解できるかどうか・・・なのである。

 

・・・・

 

例えば運転者を度外視して、車の車体のほうが全てだとするような、単純な感じ方・考え方が、人間は肉体であるとする考え方である。

 

何せ目に見えることしか考えられないということ、目に見える物は現象・結果にしか過ぎないという認識に至っていないわけである。 

 

「えー、いったい何のことだ?、保証できるのか・・どういう証拠があるんだ・・!  」

 

これを他者依存的、唯物思考といってもいいだろう。

 

そう・・・、所詮は「思考」、あるいは古臭くなった表現ではイデオロギーというものである。

 

常識という観念、

 

それらが真実ではなく単に思考に過ぎないこと、及びその多様性を旨とする思考内容の本質に気付かないこと、

 

 

またさらにそれをその都度生み出している本尊である、魂意識・魂存在としての自己・・・に気付いていないことを称して、

 

 

霊的に眠っている・・・と言うようである。

  

そして思考や想念が人的世界の原因、青写真になっていることに気付かない場合は、

  

 

自己が創造する1つの起点であることに気付かない間は、

 

これはまるで目の描かれていない「ダルマ」のようなものである。

  

眼のないダルマ・・・そう・・、自らが未だ霊的に目覚めていないとも言えるだろう。

   

余計なお世話だが、

  

あなたやわたしはどうだろうか。 

 

 Thca2fxuud

 

 

・・・

 

思考が大勢の思考として、それが信じられるようになったものを常識「観念」という。  

 

また特定の常識観念に誘導する行為のことを洗脳、マインド制御という。 

 

今は政治・経済活動全般に・・・宣伝、洗脳、マインドコントロール花盛りであるし、 

 

昨今では政治・行政なども、不正選挙、事実隠ぺい等、哀れにもあからさまな嘘で強引に誘因する姿態に成り果てた感があるが、・・・ 

 

実は、これら末期症状的洗脳行為は、この時期に、人の主体的意識が打破すべき1つのテーマを投げかけているのである。  

 

これは、さもおどろおどろしい悪の催眠、支配への誘導、破滅への勧誘のような解釈だけに特化すべきではなく、

 

自由な意識体としての「魂」が、自ら越えなければならない霊的敷居のことを意味しているのである。

 

人の思考に流されることなく、自らが自らの世界の主人公であることを自覚出来るかどうか、

  

他者に依存し支配されるか、あるいは自らが自由な創造体であることが出来るか・・・・

 

とうとう人類全般が、そういう問いかけステージに遭遇しているということだ。 

 

多次元宇宙において、惑星単位の人類意識あるいは文明がある時点になった場合、

 

魂の発展に伴って必ず問われるテーマが顕れる、そう、かつて何度も繰り返された霊的テーマが、

  

「今」目の前に来ているのである。

 

 

目の前と言っても、肉眼視でなく総合的・直観的な観察視力、あるいは霊的視野でしか見えないのだが、

  

道ははっきりと二つに分かれてきたということだ。 

 

いつか来た古い道をまたぞろ巡るか、魂に従った新しき道を進むか・・・・

  

これは決して集団事などではなく、一人ひとりの選択なのである。

 

 

Thcattvf61


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


さらば古きニッポン

2013-07-25 08:16:04 | 新たなる地平線

●日本にあったかつての黄金時代 

 

ニッポン、ハポン、ヤーパン、ニープンというかつての各国での発音は、

 

すなわちかつて「日本」と呼ばれていた、美しき・優しき・強き国を意味している。 

 

しかしながら、今の劣化した「ジャパン」とは全くもって似て非なる国であった。

 

元々国の価値等は、決して制度や物質的富や経済力や軍事という量の多さで決まるものではなく、 

 

その国を構成する民人の集合精神、根本にある「こころ根」によって規定されるのである。

 

物質レベルの科学や技術はすぐ学べる性質のものだが、

 

精神の進化や昇華は、簡単にできるものではないからだ。 

 

国の価値は民衆の総合的精神レベルでしか規定できないものなのである。

 

幾多の転生を経て意識の向上を目指す魂たちにとって、

 

持続する記憶として残るのは、とってつけたようなその時代の浅薄な知識等ではなく、 

 

その人生で磨かれ抜かれた魂の軌跡、消えることのない感動の痕跡と言おうか、

 

簡単に言えば、

 

愛と共感に裏打ちされた行為で溢れる生活から得られるところの、決して消えることのない深い「感性」なのだということに気付けるだろうか。

 

ニッポンも古い時代ほどその精神性は高く、縄文時代に代表される古代、あるいは超古代はその精神性が最も高く豊かだった時代なのだということが出来るだろう。

 

古いものは全て野蛮で原始的だったなどというような、単純な歴史観で洗脳されていなければ、数少ないまっとうな時代考証記録や遺跡の分析などによって、その逆転史観とも言うべき事実に気付けるはずである。

 

 

Jchrotitle

(縄文時代の生活の1つの想像絵)

 

人々は豊潤な大自然の中に住み分け、平和でまた生活も豊かで、争う事や犯すことがなく、衣食住の最小限の快適さが工夫された文化文明、

 

これが例えば日本列島の縄文遺跡からも明確に窺がうことが出来るのである。

 

今の日本人は例えばあの縄文時代が、未開発の野卑な時代であったと思っていたのではないか。 

 

「正しい歴史認識」等という言葉があちらこちらで出ているようだが、まるで言葉の意味がわからず空回りしつつ、それが単なるエゴ的自己主張や他者・他国への牽制に過ぎないことは、言葉にするのも嘆かわしい感じがする。 

 

要は、他者・他国へは正しい認識を求めつつ、おのれは全てを知っていると称し、何も切磋琢磨しないということである。

 

だからこういう駄々っ子的、幼児的な言葉は欺瞞にしか過ぎないのだとわかるだろう。

 

250pxjomon_vessel_30002000bc

縄文時代の火焔土器(ウイキペディアより)

・・・  

今は亡き、かつてのニッポンは長い時代を通じて次第に精神的な次元を降下してきたとはいえ、その国民、住民の精神の豊かさ、きめ細かさ、また強靭性が最も昇華された国であったと言えようか。

 

また、

 

地球の西から物的欲望に病んだ者たちが、極東まで侵食してくる前には、それが理想とは言えないまでも、江戸時代という『1つの黄金期』があったのだ。 

 

そう、かつて江戸時代は完全自給自足、道路や灌漑はそれなりに整備され、町並みは清潔に維持され、 

 

海や川や山には生命が溢れ、その気になれば山菜や魚なども自由に採集が出来るため、

 

経済に無頓着なその日暮らしの民衆と言えども、欲を出さなければ別に食料に事欠くという環境にはなかったわけだ。

 

士農工商という封建的身分制度という支配構造はあれども、誰もが別の何かに成り替わるための諍いや血塗られた革命などというような、 

 

仲間どうし血で血を洗うような愚かな真似もせず、

 

地球の縮図とも言える日本列島、春夏秋冬の織りなす、実に豊かで清楚な国土での人生を全うしていたのだ。   

 

自己だけの生き残りを掛け、科学技術を暴力の道具に特化させ、それによって簒奪・収奪を旨とする西洋的文化のようなものではなく、

 

 

逆に江戸時代は実に余裕のある、大自然の中で豊かに生きていつつも、人工的な機能美を取り入れた文化・文明であったと言えるだろう。

 

144f6100

 

現代人がどこか思っているようには、江戸時代は文化的な停滞などはしておらず、そのような一見「天下泰平」で何事もないような時代こそ、また生きるために急き立てられて、何かをしなければならないような空回り責務が少ない時代こそ、真(まこと)の文化が「自然に」咲き誇るのである。

 

1つ江戸時代も、縄文時代と本質は同じ、天下泰平、滋味豊かな精神性を代表する得難き文化と言えるだろう。

 

●犠牲になって散った武士道精神

  

人間社会は、それ、良いとか悪いとか、賢いとか愚かとか、様々な魂の表現たる様々な生き様があるわけだが、 

 

例えばかつての武士は、お金や権勢のためではなく、まず家や武士であることの「誇り」のために生き、 

 

たとえ自己の身が苦しくとも不正を受け付けず、「武士は食はねど高楊枝・・・」などというような、 

 

一見は、やせ我慢や見栄のための、頑固一徹のような生き方をもどこか当たり前で良しとしていた。

 

しかしながら、例えそれがやせ我慢ではあっても、また支配者側の都合による朱子学、儒教的な観念のお仕着せがあったとしても、 

  

武士たちには、自己の本分を死守する、役目を全うするという気概、 

 

自らの我欲を抑え、自己を律する為の高度に精神的な姿勢があったのである。  

 

 

これは、自分が生きるためには・・・他者への悪事も仕方がないという考えが・・・ほとんど無いということを顕しており、これはある意味で、

 

 

想念に邪心が混入しずらい精神構造なのだ。

 

 

逆に、武士階級は滅私奉公の為の機会を ”腹を据えて” 待っている等という、 

 

西洋的な個人主義的観念では到底理解不能な、また実に空恐ろしき精神を持っていたのだ。 

 

武士道精神の根本には、そういう「心根」があるということだ。

 

これは自虐的な観念ではなく、歴史の中で身についてしまった「奉仕」の観念である。 

 

簡単この上もない稚拙な説明なのだが、これが「武士道精神」なのだと言えようか。

 

どこか損しているような、何か滑稽さがあるような・・

 

そんな感じがすることにこそ、

 

「滅私奉公」の精神の真骨頂があることに気付けるだろうか。

 

別に過去を固執崇拝、礼賛するつもりもないが、  

 

 

かつての大東亜戦争の結果の、アジア各国の独立は、そういう武士道精神の犠牲が遠因となって実現したのだという事は、決して言い過ぎではなかろう。

 

 

いざ鎌倉というときに、誇り高き武士なら多分こう言うことだろう。

 

俺はいいからお前が食えばよい・・・、  

 

俺はいいからお前が生きよ・・・  

 

その為には俺がひと働きしてやるから・・・・

 

 

そして嫌も応もなく、既に数十年前にアジア太平洋において、過酷なその働きを済ませたのち、そう、その時に古いニッポンは終わりを告げたのだ。

 

またぞろ、それを取り戻すとか・何とかいう政治的スローガンは、イメージ、気持ちだけ、または別の利権獲得の意味しかない。

 

善なる理想に対して、滅私奉公も良しとする強靭な『武士道精神』がなければ、

 

それは絵に描いた餅どころか、 

 

単なる自滅の加速への誘因にしかならないのだ。   

 

謹厳実直な武士道のような、そういう人間の肝のところでの心魂の発露は、

 

損や得、勘定、計算等入る余地もなく、またそうであるからこそ、 

 

他を生かすための力、いざという時のパワーと強い信念を維持できたということだ。

 

ひとつ、これが世界に冠たる 「高次の日本の精神」 なのである。 

 

・・・

 

下記の抜粋は、池田整治さんの著「マインドコントロール 2」(ビジネス社)からのものである。

 

この簡潔な文章の中にこそ、

 

日本人のかかわる深い歴史の本質と軌跡、真実と虚偽、

 

光と闇の系譜を如実に感得することができるだろう。

 

シンプルな表現の中にある・・・「正しい歴史の認識」に触れ、

 

なぜか・・・涙が溢れてくるのだ。

 

・・・

ーーーーーーーーーー

「日本人よありがとう」 序文 

 

ラジャー・ダト・ノンチック(元マレーシア上院議員)

 

 

・・・

 

かつて 日本人は 清らかで美しかった

 

かつて 日本人は 親切でこころ豊かだった

 

アジアの国の誰にでも 自分のことのように

 

一生懸命尽くしてくれた

 

何千万人もの人の中には 少しは変な人もいたし

 

おこりんぼや わがままな人もいた 自分の考えをおしつけて

 

いばってばかりいるひとだって いなかったわけじゃない

 

・・

 

でも そのころの日本人は そんなすこしのいやなことや

 

不愉快さを超えておおらかで まじめで 希望にみちて明るかった

 

戦後の日本人は 自分たちのことを 悪者だと思い込まされた

 

学校でも ジャーナリズムでも そうだとしか教えなかったから

 

まじめに 自分たちの父祖や先輩は 悪いことばかりした

 

残酷無情なひどい人たちだったと 思っているようだ

 

だからアジアの国に行ったら ひたすらペコペコあやまって

 

わたしたちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている

 

 ・・ 

 

そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると

 

自分の国や 自分までが えらいと思うようになってきて

 

うわべや口先では 済まなかった 悪かったと言いながら

 

ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする

 

そんな今の日本人が心配だ

 

・・・

 

ほんとうに どうなっちまったんだろう

 

日本人は そんなはずじゃなかったのに

 

本当の日本人を知っている わたしたちは

 

今いつも歯がゆくて 悔しい思いがする

 

・・

 

自分のことや会社の利益ばかり 考えて

 

こせこせと 身勝手な行動ばかりしている ヒョロヒョロの日本人

 

これが本当の日本人なのだろうか

 

・・

自分たちばかりで 集まっては

 

自分たちだけの楽しみやぜいたくに ふけりながら

 

自分がお世話になって住んでいる

 

自分の会社が いつも仕事をしている 

 

その国とその国民のことを さげすんだ眼で見たり バカにしたりする

 

 

こんなひとたちと 本当に 仲良くしてゆけるのだろうか

 

どうして日本人は こんなになってしまったんだ

 

・・・・・

 

 

艱難辛苦を通り越し、闇と光をまともに観ることで、・・・

 

そして真摯なる自己認識に至ることで、最期の闇夜は明けたのである。

 

嗚呼・・・

 

そして、とうとう新しい精神の時代が始まったのだ。

 

その前に、最終最期の一試練があることだろう。

 

それが止(とど)めの、峠越えである。

 

 

7943841774_aaeb37615a_b

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


あなた・・とは何者か

2013-07-21 07:55:57 | 新たなる地平線

人間の根本的なアイデンティティーは、すなわち「わたし」という自意識にある。 

 

どんな人も、気づくか気づかないかに関わらず 「われ」 という根本的な自覚があるのだ。 

 

そうではないか? 

 

世界があって様々な出来事があるわけだが、それを見聞き知るのは、その「わたし」である。 

 

あなたの様々な身の回りや世間経験やらネットのニュースやらを見聞きしているのは、 

 

他ならぬ「あなた」以外に有りはしない。 

 

同じような経験をしている仲間や家族や知人等が周りにいるわけなので、みんな一緒にやっているという集団的感覚があるだろうが、  

 

根本的に言えば、 

 

それぞれのあなたの世界には、だた「あなた」しか、 

 

「われ」という主体的意識を持っている者はいないのである。 

 

これは、さらりと頭で知ることではなく、深く感得しなければならないこと。  

 

この世界では大勢の人が生まれ、そして大勢の人が死んでゆくわけだが、

 

ある人の死は、その人の「わたし」の視点が、この世界から外れるということであり、 

 

またその「わたし」の自己創造の時空環境、あるいは表現次元を変えるだけのことである。 

 

その人の根本的アイデンティティーである「わたし」がなくなるわけではない。 

 

ただし、その”不滅の「わたし」”とは、 

 

どこどこ生まれのどういう経歴の、男の女の、何歳の・・・特殊なキャラクターで定義される「私」ではなく、 

 

そういう様々な人生を生きてきた、様々な人格を培ってきた結果としての、個別の「表現形」の私的「わたし」ではなく、 

 

それらの様々な表現型を生み出すところの根源としての「わたし」である。 

 

それは作家が様々な本を出すのと同じことだ。 

 

ある時は女で生まれ、ある時代ではある人格を形成し、ある場所では男であった・・・ 

 

その人格たち、その私たちを生み出すというか、自己投影するというか、・・・ 

 

そういう根源的な「わたし意識」こそが、「わたし」なのである。 

 

だから不滅で根本的な「わたし」には、生命の体験履歴である様々な人格が含まれているということだ。 

 

過去生の記憶や他生の経歴は、その根源的なひとつの「わたし」の映し出す万華鏡的人格のようなものである。 

 

あなたは本来の不滅の「それ」なのだ。 

 

ある人が、例えば前世や過去生のことに気付くようになる場合は、死滅することのないそれ 

 

普遍的な<わたし>というアイデンティティーを完全に理解可能であるが、 

 

自分が個々別々の肉体人間であるとしか「自己認識」できない間は、 

 

自己観念が小さく閉じられている場合には、実際何が何だかわからないだろうし、 

 

そもそもそういう情報に接することもないし、また接してもその概念に共感することもない。  

 

すなわち・・・・わたしの意識の拡大がなされていない、意識の眼が開いていないということである。 

 

こういう話は、そういうことにどういう飯の種があるだとか、どういう経済効果があるだとか、どういう利益をもたらすかだとか、 

 

そういう次元の話ではないことは理解可能だろう。 

 

実に、・・・ここが肝心かなめな意識の峠なのであり、 

 

今の稀有な時代を有意義に経験できるかどうかの関所、

 

ある意味で1つのレベルでの卒業試験のようなものなのだろう。 

・・・

 

難しい話でもなく、高度な理論も、思考を極限まで働かせるような西洋哲学も不要である。 

 

ただ自己を観ること、生きている事実を単刀直入に感じること、 

 

そして少しばかりの思い巡らしが必要なだけである。 

 

ただ、あるがままを・真・摯・に理解しようとすることなのだ。 

 

そのために日常生活があるのである。

 

銭・金・物・権威・過ぎたる生存欲や支配欲、・・・・ 

 

そんなものはまるで幼稚園に備わっている積み木や遊び道具のようなものである。 

 

ましてや嘘や欺瞞で大勢の仲間たちを傷つけ惑わすことなど、 

 

まるで、幼稚園に入りたてのわけがわからない段階の霊的幼者の証拠である。 

 

不思議にこの世界は、そういう者たちがいわゆる上層に行きたがる傾向があり、 

 

彼らは、その物欲顕示や所有物の量などで満悦のごとき有様であるが、 

 

今はもう、心ある者はそれにかかずらわってはならない。 

 

さも栄華を極めたような、どこか何か良いことありそうな、そういう霊的幼児のパフォーマンスにかかずらわってはならないし、 

 

また恐ろ・・、おどろしい支配の噂にもひっかけ思念でかかずらわってはならない。 

 

何かしてくれそうな、様子の良さそうな政治屋のプロパガンダは、ほぼ完全に「欺瞞」であることは、 

  

もう気づかなければならないはずである。 

 

自己が幸せに在らずして、どうして大勢を幸せに出来るのか?

 

まさに最初から嘘や欺瞞なのである。

 

 

話はそれるのが常であるが、なかなか悲しいところでもあるのだ。

 

・・・ 

 

 

かつての魂の猛者たちは、今はもうそういうレベルではあるまいし、

 

 

また、今、この期に及び、そんな暇?はあるまい。

 

誰がどうしたこうした・・ということではなく、

 

 

 

あなたは「あなた」である・・・ということである。

 

あなたは・・あなたがこうあれば良いと感じる自身であることだ。

  

皆がこうだとか、誰かが・・ああだとか、他者依存、他者実現?をしてどうなるのか、 

 

それは他者・・・すなわち、別の「あなた」の霊的成長に任せなければならないはずである。

 

自己創造の根本であるあなたは、ひとえに「あなた」自身から生み出されているのだ。

。。。

 

ニサルガダッタ・マハラジの言う、わたしはそれ・・・ 「 I am that 」・・・は、 

 

最も簡単にそれを表わした真理の言葉である。 

 

わたしは何者でもなく、そして何者でもある。

 

 

実はそれは空(くう)と同じなのだ。

 

 

わたしは本来何ものでもなく、

  

わたしは、それ・・・・、あれであり、これであり、それである・・・ところのわたしである。  

 

わたしは・・・常に、わたしを自己定義して自己創造するということだ。  

 

だからあなたがどこか西洋的な自己アイデンティティー、個別別箇の肉体人格と自己定義、自己認識していれば、

 

まさにそういう自己を演じることになるのである。 

 

あなたは今、自己をどういう風に知らず知らずでも「定義づけ」しているのだろうか。

 

自己認識によってその流れに沿って創造するところの「わたし」・・・

 

それはいわゆる創造主の雛形に他ならないだろう。 

 

創造主の個別表現であるところの「あなた」は、そして別の「あなた」である「わたし」は、 

 

いわゆるところの神の子、仏の子であり、 

 

子は様々な経験を経て成長するように、様々な生命経験、人生経験、人格経験をすることで、

 

嬉しく、面白く、ワクワクドキドキするような意識の拡大を図っているのだ。 

 

そのために、この3次元的惑星生命圏にも、数十億以上の意識生命体が次元降下してきているのである。 

・・・

 

そして今その魂達の学び舎はすでに嬉しくも悲しくも飽和し、 

 

リニューアル・・・建て替えの段階が来たのである。 

 

そしてそれが既に音を立てて進行中なのだ。

 

拡大する魂・意識、足踏みする魂・意識、エゴで縮小する魂・意識、様々あれども、

 

それもまた、

 

それぞれの「わたし」たちの経験の道である。  

 

宇宙も世界も滅することはなく、

 

ただ本質的に、嬉しく楽しき創造や気づきのための変化があるのみである。 

 

頭の中に詰まったエゴのおもちゃ概念、意識の目にかけた厚く曇った色眼鏡を外そうか。

 

世間でかしましい肉体護持と快楽追究、 

 

欲得蓄積のための理論や理屈は、もう役に立たない。

・・・

 

過去でも未来でもなく、 

 

常に・・・今、われが在ること、その唯一の事実を・・・深く感じる時である。

 

そしてまた、 

 

根本的に言えば、 

 

あなたの世界には、だた「あなた」しか、 

 

「われ」という主体的意識を持っている者はいないのである。  

 

これは、さらりと頭で知ることではなく、深く感得しなければならないことなのだ。

 

 

それを識(しっ)ている者は、たとえ世界に在っても、世界に従属することなく、 

 

また決して愚かさの濁流に巻き込まれることはない。

 

しかしながら、・・・それもなにも、全てあなた次第なのだ

 

あなたはいったい・・全体・・何者であり、

 

そして何を望むのか・・・

 

 

 

Daruma20


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


今は分かれ道

2013-07-15 11:24:53 | 新たなる地平線

今は地球上での一大変化の兆しが明確に顕れてきたようである。

 

明らかに以前とは違う環境となっていることに気付けるだろうか。

 

経済環境、国際環境、国同士、企業同士という人工的な組織の間での軋轢、諍いが表面化しつつあり、そしてまた欲望に駆り立てられている人間達を取り巻く大自然には、今までにない異変が顕在化している。

 

 

今まで、潜在下にあったものが表層に吹き出しつつあるのだ。

 

あるいはいわゆるカルマの表出といっていいかもしれない。

 

 

それはあなたやわたしたち、個々人でも同じことである。

 

・・・

 

昨今頻発度を上げてきたこれらの様々な異変を概括するならば、

 

人類の知覚によって生じている時空環境に、潜在的なエネルギーが満ち満ちてきており、

 

その溢れたエネルギーが人類の想念に色付けされた形で、一気に顕在化する段階にあるということだ。

 

歪んだもの、清浄なものも含め、潜在下にあるものが現実、現象として噴出してくるということであり、 

 

人類はそれらの噴出を、経済、自然界の異変、イレギュラーな社会現象として我々が「知覚」するということなのだ。

 

科学的に敏感な人たちはそれが近来まれな太陽活動によってもたらされていると感じているだろうし、意識的にセンシティブな人々は、それが人類の集合精神の明らかな変化によって生じていると理解しているかもしれない。

 

大切なのは、外の世界が勝手に偶然に変化しているということではなく、外の世界を「知覚している主体」である人間の「意識」の変化であり、

そして巨大な意識体としてのガイア、地球の意識の変化が先行していると喝破することなのだ。

 

・・・  

外の世界、現象世界のほうだけに意識の眼が埋没しているあいだは、あるいは3次元意識、唯物論的自己認識にどっぷり浸かっている間はこれも何が何のことだかわからないだろう。

 

あなたはどうだろうか、何かおかしいと感じてはいないか。

 

しかしながら、これらが意識の変化に基づいたものだということ、

 

決して単なる考え方、比喩などではなく、 

 

意識~意図~想念~エネルギー~現象化・・・の基本プロセスによって生起していることに気付けるはずである。

 

人生でも人類文明でも同じこと、意識や想念、そしてそれを具体化するための潜在エネルギーの変化によって、現実、現象世界が変わってゆくのだ。

 

これを理解できるかどうか・・・、2つに1つの分かれ道である。

 

 

真剣に見詰めるターゲットは、結果である外側ではなく、常に因たる内側なのだ。

 

・・・・

 

昨今はあからさまに天候、気象、地殻等の自然の動きの変化率が増しており、またその変化率とは加速度すなわち力であって、背後には相応のエネルギーが周囲の時空間に増大してきたという事を示している。

 

身近なところでは、昨今の天候は非常に変化が激しく、青空であったと思えば数十分の間にみるみる雲が集積し、

それがあっという間に積乱雲となってその中に稲光が生じ、地上に落雷したり、急激な湿度、温度変化に伴ってビー玉、ゴルフの玉の大きさの雹(ひょう)が降ることも頻繁に生じている。

 

噂される、勝手な気中への物質散布、ケムトレイルやら電磁波集中照射装置であるハープ等のせいだけではない。

 

それらの人工的操作も自然環境変化の一環に組み込まれ、実際ある大きな変動要因に加勢をしているということだ。

 

多分・・・・明らかに「何か」が起きつつあると感じざるを得ず、かつそれらが次第に身近になってきたということだろうし、これはある意味で宇宙、大自然からの目覚ましチャイムが眠っている人々にも届き始めたということなのである。

 

しかし時ここに至っては、それがチャイムといっても耳に心地よいお知らせメロディーの段階を過ぎてしまいっては相当に激しい現象となりつつあるわけだ。 

 

頻繁する異常気象も「目覚ましチャイム」であり、各地の旱魃や洪水もチャイムなのである。

 

「最近はずいぶん洪水や雷や地震が多いよね・・・まあ、気のせいだろうよ」 で済ませることが出来るわけもないであろう。

 

明らかにイレギュラーな諸現象は、決して偶然でも一過性でもなく、大自然からの警告にほかならないと受け取るべきものである。

 

天空の異常現象以外にも、身の回りでの「微妙な波動の異変」を感じ取ることが出来る人々は、何かが大きく変わりつつあることを薄々にでも察知していることだろう。

 

あなたのお住いの地域、あるいは身の回りの人間関係、人々の意識等はどうだろうか。

 

政治経済なども含め、何かが大きく変化しているはずなのだが、それが見えているだろうか。

 

こころの眼でよく観察することが必要であろう。

 

・・・

多くの人々の共通の気がかりはお金にかかわる経済であるかもしれない。

  

例えば、既に世界の金融資本主義は十数年来から飽和の域に達し、あちらこちらでびりびり亀裂が入ってしまい、その亀裂を取り繕う時間稼ぎがもうできない状況になっていることは気づけることだろう。

 

その亀裂の氷山の単なる一角であった2008、リーマンショックも実際には収束などしていないのだ。

 

リーマンショックは終わっても、それを起こした原因そのものは未だ顕在であり、ますます勢いづいている。

 

お金にお金を生ませる金融工学的発明が、結局は急き立てられた物欲の産物であり、過ぎたる欲望に突き動かされて行った過大な投資が、結果、償還、償却されない負債を生んでしまったのだ。

 

難しい話ではなく、要は「利息」という「数パーセントの数字」を焦って操作ミスしたことによって起きたということが言えるだろう。

 

融資、投資の利益である、利息、利率を操作して各国の経済発展の制御をしつつ、投資側に最大限の利益を生ませるような・・・そういう米欧の作り上げたグローバルな仕組みが既に破綻しているということである。

 

盛んに行なわれる世界各国の金融緩和なるものは、要は紙幣を増刷してインフレを起こして、その契約破綻で生じてしまった大きな亀裂を補修しようとする単純な行為であるが、インフレで借財を誤魔化しきれる段階をすでに超えてしまったことに気付かねばならないはずである。

 

資本主義の基本は「契約」であり、金の貸し借りは厳密な「約束」によって、すなわち信用によって裏付けされているわけであり、これを簡単に反故にすることも出来ず、借りを返すことも出来ないからこそ、世界中での危機が次から次へと出てきているのだ。

 

危機のたらい回しである。

 

米国、EU、ギリシア、キプロス、そして今はブラジル、中国へ飛び火している表面上の金融経済危機は、約束期日までにお金が回収できず、また返済できず、流動性が不足してしまうことで起きているのである。

 

まるで世界中が病院となり、血液が不足する病人があちこちに出てきたようなものである。

 

しかしながら、その不足分を政府、中央銀行が、紙幣増刷によって輸血し、いったん小康状態になったとしても、その資金供給にもまた「利息」が付いているわけで、それこそ一時のお金が流入したところで結局は、さらなる借財が増えていることになるわけだ。

 

返済利息が返済利息を生む、負のスパイラル、まるで世界中でサラ金地獄になっているようなものだ。

 

要は、資本主義的な利益増大意欲が歪なまでに増大し、堅実以外に有りようのない実体経済をはるかに超えてしまったということである。

 

そう、資本主義、物質繁栄主義、金融資本主義は、その うちでの小槌たる「利息」によって自らを崩壊の淵に至らしめたのである。

  

資本主義の根幹である「契約」、返済の約束を破れば、すなわち資本主義の土台を根こそぎにしてしまうがゆえの、実にもどかしく苦しい、誤魔化しや嘘の為の嘘で固めた対応しかできていない。

 

実際はもう「見切り千両」の段階、すなわち潔くその金融資本主義を放棄するしかないのである。

 

従って、今の様々な金融、経済危機なるものは、自己崩壊以外に道がない。

 

借金は返済するか、激痛を伴う信用の放棄以外には道がないのだ。

 

ここまで来たら、政府がいくら騒ごうと、民衆を煽って余力金を企業や政府に回収しようと、何の解決にもならないことを知らねばならない。

 

 

戦後の経済成長の一大成功の記憶は、戦前、戦中、戦後の多くの日本人の言うに言えないような苦労の賜物であり、単なる雰囲気作りと、紙幣増刷、外来ファンドの呼び込みを利用するような経済政策で生まれるはずもないのだ。

 

いままで長く続き、それなりの物質栄華を創り上げてきた、いわゆる資本主義は潜在界ではすでに崩壊しているのである。

 

 

嫌々ながらこれらにしがみつき、持続しようとする行為は、そのうち経済危機の国家間のたらい回しに飽きが来た挙句、それ・復興需要創出だとかで、どうでも良いような理由づけによって、どこかの地域をスケープゴートにして攻撃して破壊しようとするだろう。

 

いや、それはもう既にアフリカ・中東等で悲しいかな行われているのだ。

 

そしてアジアでもその下地が愚かしくも作られているではないか。

 

もうこれ以上、何かを獲得すべく彷徨い出でて、外の世界に埋没してはならない。

  

なるほど、これは個々人の魂の通るべき1つの重要なプロセスにもなっている、

 

魂の学習、進化プロセスでの「エゴの放棄」と、まさに相似象のテーマなのだと気づけるだろうか。

 

すなわち、今は人類が3次元的意識レベルを超える、ぎりぎりの瀬戸際にあるのだ。

 

 

C0082914_02137



本日も拙い記事をご覧いただきまして 、誠に有難うございました。

 

 


愛は意識次元を拡大する

2013-07-08 16:02:17 | 新たなる地平線

このシリーズ記事をご覧の方には理解されているかもしれないが、

 

たとえば、「夢」とは何かと言えば、肉体の休止している間の意識体験ということができる。

 

日常の肉体・五感体験と同じく、それも「魂」レベルでの経験なのである。

 

 

変性意識での覚りや、ふとした重大な気づき、画期的な霊感、インスピレーションもそうである。

 

それは例え一時、瞬時ではあっても拡大された意識レベルでの経験ということができる。

 

テレパシー等も変性意識というか、拡大された意識ベースで可能な当たり前のコミュニケーション。

 

 

それをそうと・・・認識していないのは、

 

ただ全くか、少しだけか、それに対する気づきのレベルの問題でしかない。

 

 

意識レベルの話だ。

 

気付きやアイデア、インスピレーション、そして明日を生み出すイマジネーション

 

それらが・・・・物・・金・・・からやってくると思うのだろうか?

 

いや、いや、そんなわけあるはずもない。

 

宇宙が偶然存在し、

 

物質が分子が、原子が偶然に運動しつつ、行き当たりばったりで高度な生命体が生まれてくるのか?

 

それがあなたやわたしなのか・・・?

 

考え方は面白いが、すべて偶然ではそれから先の話が見えないではないか。

 

アインシュタインも言ったように、神はサイコロ博打はしない。 

 

・・・

それよりも愚かしきはこの国の有り様ではないか。

 

 

ここまで為政者の精神レベルが堕ちるのを先人は予想しただろうか。(笑)

 

無理やり仕組まれたような今の世相、 

 

騙す方も問題だが、見抜けず騙されてあとで不平をいう者のほうが始末が悪くはないのだろうか。

 

株が上がった下がった、滑ったころんだ提灯だ・・・。

 

そういう何ものかの提供するような、面白恐ろしきシナリオに一喜一憂している人もいるかもしれないが、

  

肉体の一時の刺激や快楽よりも、魂の長い道を見た方が良いのではないだろうか。

 

この世界、結局は、人は何も持たず生まれ来て、何も持たずに去る定めなのだが、

 

それとも、いつの間にか変わったのだろうか?

 

そんなにお金や地位や自己生存欲に執着していては、それこそ闇夜に提灯さえも消えてしまうことになるだろう。

 

なるほど、今は、確かに古い時代の、最終最後のドタバタ劇であろう。

  

そういう類の物事から何か新しい世界が出てくるわけはなかろうし、

 

自己改革以外は己の意識を広げること、魂の進むべき道を前へ歩くことはできない。

 

人間世界のあらゆる物事は、物・銭・金だけで事足りるわけではない。

 

艱難辛苦をものともせず、転生を繰り返し、幾多のサイクルを通じて醸成される悟りへの階段、

 

神の社(やしろ)に詣でるがごとくの、1つ1つの人生、転生

 

いにしえよりの幾多の存在達の喜怒哀楽の足跡、

 

 

 

神々しい悟りや覚醒、あるいは洗脳や常識固定観念からの解脱努力は・・・

 

それこそ単なる・・・ 「夢」  だというのだろうか。 

 

 

なるほど、ここに25800年で訪れるサイクルの、その分かれ道があるようである。

 

 

・・・・・

 

魂の経験は、単に肉体、物質という粗い振動レベルだけではなく、多次元レベルにまで繋がっている。

 

その多次元というのは何か意識を度外視した、純粋な別の物理時空ということではなく、

 

なじみのある今のような物理的存在形態をその1部に含みつつ、

 

より拡大された存在形態というか、表現世界というか、そういう意識存在レベルのことだと言えようか。

 

 

意識~意図、想念~エネルギー~・・・そして生じるところの顕現、表現が基本なのである。

 

 

その多次元意識への移行や意識次元の上下、気づきの範囲の縮小と拡大を可能とするのは、

 

・・・意識と意図である。

 

世界に偶然に起きることは何もない。

 

あなたの経験上に生起する物事は、あなたの意識と意図に沿ったものであり、

 

地球の大自然に起きていることは、地球という惑星生命形態の意識と意図によっている。

 

宇宙という無限の有限世界は、大宇宙という多次元時空を生起するところの意識と意図によっている。

 

意識という無限の「空」(くう)は、様々なレベルの生命体の自由な発想、意図をそこに生じさせるための、

 

無限の顕現母体・・・、

 

あらゆる可能性の、

 

あらゆる波動の、

 

あらゆる想念の、

 

あらゆるエネルギーの、

 

あらゆる顕現形態のベースなのである。

 

 

それは、何物かという「特定」の物ではなく、

 

また逆に、何物でもあるという普遍性を有する・・・それ、

 

だから「空」(くう)と呼ぶにふさわしいのだ。

 

空である「意識」と、それを表現形に持ち来たらす想い・・意図という根源の光、

 

それが何を生み出しているのかといえば、

 

どうして宇宙があるのか、

 

どうしてあなたや私たちはここに生きているのかといえば、

 

そう、・・・「無条件の愛」・・思いやり、慈しみが故なのだ。

 

 

「愛があれば何もいらないさ 」とか、何かのドラマでよく言われることであり、

  

愛をテーマにした歌や小説も多いが、

 

これらも、男と女という最も分りやすい切り口や題材を使っているのだが、

 

 

要は、もっとも大切な根源的真実の断片を直感的に表したものである。 

 

愛がすべて・・・とは・・・その通りである。

 

ただし、当然ながら、それは一般の個人的な情愛とは全く異なる、似て非なるものであり、

 

 

霊的幼児の遊び道具、自我の虚栄像である「エゴ」とは似ても似つかぬものである。

 

 

今まではそのエゴの繁栄した「蜃気楼」の世界なのだ。

 

自他への<無条件>の思いやり・・・それを愛といえばいい、 

 

そうであるからこそ、

 

あなたが生まれ、子供が生まれ、山があり川があり、花が咲く、 

 

愛があるからこそ、

 

太陽が無条件にエネルギーと光を供給し、

 

そう、・・・愛があるからこそ、

 

 

多くの鉱物、植物、動物がこの地上に現れ出でたのだ。

 

 

そして様々な人類の文化文明の花が咲き、そして散ってゆく。

 

 

そういう学び舎において季節はめぐり、

 

 

光の現れである様々な生命たちは経験を積み重ね、

 

いずれあなたも大いなる意識へと拡大してゆくのだ。

 

さりげない無条件の愛、思いやり、理解、そして慈しみ、

 

常に誤解をはらむかのようなこれらの言葉、

 

 

無条件の愛」、創造の根源意図、実は・・・宇宙最強のエネルギー、

 

 

どうか、あなたは、身近なところと、自然の中、至るところすべて・・・。、

 

そして見晴るかす天空をも自己の視野に抱き、

 

これを・・・ゆっくり、じっくり感じてみよう。

 

それが今のこの時、この瞬間の喫緊のテーマである。

 

 

実のところ、常に時はあって、無きがごとしなのだから。

 

201202181600

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

記事を出すようになって、なんとすでに500回を超えていることに気づきました。 

 

1週間に1回とすれば実に10年近くやっているわけで、

 

メジャーにもならず、よくまあ、勝手ながらも続けられてきたものだと思います。 

 

これも月並みですが、ご覧いただいている方がおられることが、 

 

本当に有難いことだと感謝しております。