人間は単なる肉体存在ではない。
この認識に至れるかどうか、今人類の霊的進化が問われているのである。
稀有な時代とはそういう霊的な進化の一大通過点のことである。
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例えば人間とは何かの一端を車と運転者の例で説明してみよう。
なじみの肉体はまるで車のボディのようなものであり、ボディは確かにダーウインの提案した進化論、
経験に即した形態的進化を通じて、複雑な機能を次第に装備するようになるわけだが、
それは人間という存在そのものを定義するわけでなく、単なる車体に過ぎないのだということ。
簡単に云えば、「人」は車体ではなく、それを運転する「ドライバー」なのだ。
「あなた」であるドライバ・運転手は、セダンやワゴンなどの「車体」ではないはずだろう。
誰も皆、既に経験済みではないだろうか。
運転手が車体と異なるのは、
車体は言われるままに動くのが役目であり、
運転手は・・・運転する主体としての自己「意識」と、進むべき方向を決める「意図」を有しているということだ。
その主体たる「意識」と「意図」が本質の「わたし」そして 魂 なのである。
そして、森羅万象を貫いて在るところの、普遍的な『意識』の中に生成された、様々な創造意図が「想念」であると言って良いだろう。
したがってすべての人的現象の大本にあるのは「想念」「思考」「想い」なのである。
人は毎瞬毎時、様々な現象の原因である『想い』を宇宙中に放っていることに気付くべきなのである。
想念は肉眼に見えずそれが非物質的であるからこそ、
多次元的な波動として、宇宙のあらゆる次元に伝搬していることも合わせて知っておくべきだろう。
また伝搬する波動はどんなものでもキャッチすることも可能なのである。
人々がそういう認識レベルになれば、嘘も隠しも通用しなくなるのは火を見るよりも明らかである。
想念を理解、知覚する嘘のない世界、これが次のステップの文明世界である。
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意識体の諸経験で形成された想いの質は「精神」となり、
その集合せる精神が文化文明の元になるわけである。
また個々の魂は、その進化・昇華せるレベルに相応しき時代あるいは文化・文明または惑星文明圏に同調し、新たに転移してゆく経歴が魂の転生プロセスと言われるものなのだ。
人存在は、まず「精神」が重要であるということはそういう理由からである。
先般の記事での「武士道精神」も、日本という国で醸成され昇華された、1つの雄々しき精神の事例である。
魂の経験に伴う、行為と思いの質の深化と昇華こそが、魂の財産・系譜となるのだ。
物銭金や地位や名誉や権勢などは、どこにも持ってゆくことは出来ない。
誰でも本質でわかることを、実際に想いや行為として表現できるかどうか、
それが本質で理解できるかどうか・・・なのである。
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例えば運転者を度外視して、車の車体のほうが全てだとするような、単純な感じ方・考え方が、人間は肉体であるとする考え方である。
何せ目に見えることしか考えられないということ、目に見える物は現象・結果にしか過ぎないという認識に至っていないわけである。
「えー、いったい何のことだ?、保証できるのか・・どういう証拠があるんだ・・! 」
これを他者依存的、唯物思考といってもいいだろう。
そう・・・、所詮は「思考」、あるいは古臭くなった表現ではイデオロギーというものである。
常識という観念、
それらが真実ではなく単に思考に過ぎないこと、及びその多様性を旨とする思考内容の本質に気付かないこと、
またさらにそれをその都度生み出している本尊である、魂意識・魂存在としての自己・・・に気付いていないことを称して、
霊的に眠っている・・・と言うようである。
そして思考や想念が人的世界の原因、青写真になっていることに気付かない場合は、
自己が創造する1つの起点であることに気付かない間は、
これはまるで目の描かれていない「ダルマ」のようなものである。
眼のないダルマ・・・そう・・、自らが未だ霊的に目覚めていないとも言えるだろう。
余計なお世話だが、
あなたやわたしはどうだろうか。
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思考が大勢の思考として、それが信じられるようになったものを常識「観念」という。
また特定の常識観念に誘導する行為のことを洗脳、マインド制御という。
今は政治・経済活動全般に・・・宣伝、洗脳、マインドコントロール花盛りであるし、
昨今では政治・行政なども、不正選挙、事実隠ぺい等、哀れにもあからさまな嘘で強引に誘因する姿態に成り果てた感があるが、・・・
実は、これら末期症状的洗脳行為は、この時期に、人の主体的意識が打破すべき1つのテーマを投げかけているのである。
これは、さもおどろおどろしい悪の催眠、支配への誘導、破滅への勧誘のような解釈だけに特化すべきではなく、
自由な意識体としての「魂」が、自ら越えなければならない霊的敷居のことを意味しているのである。
人の思考に流されることなく、自らが自らの世界の主人公であることを自覚出来るかどうか、
他者に依存し支配されるか、あるいは自らが自由な創造体であることが出来るか・・・・
とうとう人類全般が、そういう問いかけステージに遭遇しているということだ。
多次元宇宙において、惑星単位の人類意識あるいは文明がある時点になった場合、
魂の発展に伴って必ず問われるテーマが顕れる、そう、かつて何度も繰り返された霊的テーマが、
「今」目の前に来ているのである。
目の前と言っても、肉眼視でなく総合的・直観的な観察視力、あるいは霊的視野でしか見えないのだが、
道ははっきりと二つに分かれてきたということだ。
いつか来た古い道をまたぞろ巡るか、魂に従った新しき道を進むか・・・・
これは決して集団事などではなく、一人ひとりの選択なのである。