気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

脳波と意識レベル(1) ベータ波的文明の終焉

2011-11-27 11:05:04 | 宇宙時代の考え方

多くの人々は脳波のことを知っているだろうか。

 

見る・聞く・嗅ぐ・味わう・皮膚で感じるという五感による知覚等は、脳によって情報処理をされている。

 

脳とは、コンピュータのプロセッサ(CPU)に該当している機能装置とも言えるだろう。

 

その脳の電気信号を脳波計で取り出したのが「脳波」といわれているものだ。

 

脳波は振動数によって便宜上4つに分類されているようである。

 

1つはベータ波、電気的な波形の周波数は13-40ヘルツ。

これは人が日常の細かな働きをしている時の脳波であり、活発に知的活動を行っている状態に出ているものだ。あれこれ気にして考えたり、また悩みや怒りで激しく活動している時などの脳波ともいわれている。

 

2番目はアルファ波、電気的な波形の周波数は8-13ヘルツ。

ベータ波よりもゆっくりした脳波であり、眠ってはいないけれどリラックスして、努力をしなくても周囲に注意している状態に出ている。

軽い瞑想、内省、白昼夢、軽度の催眠、創造的な活動をしている時、自然の中ですごす時、リラックスして休んでいる時や運動などをしている時に生じる。

  

3番目はシータ波で、4-8ヘルツ、

もっとゆっくりした脳波であり、眠りかけたとき、夢を見ている時、夢中で創造活動をしているとき、直感的な啓示を受け取っている時等に見られる。

 

4番目はデルタ波であり、0.5~4ヘルツ、

さらにゆっくりした脳波であり、深く眠っている時、夢遊病や深いトランス(自己忘我)状態、また自己治癒のプロセスと関係しているようだ。

 

我々は毎日この脳波状態を体験しているわけであるが、そのほとんどが忙しい脳波レベルである、ベータ波が占拠している状態ではないだろうか。

 

このベータ波レベルは、知的にあるいは感覚的にめまぐるしく対応している意識状態のことであり、忙しくして活動している割には、こころ落ち着かずまた疲れやすくなっている状態でもある。

 

まさに都会で忙しくしている人、目先の感覚的刺激を追いかけている人、金銭や疲れと引きかえに嫌々働いている人等にも当てはまるかもしれない。

 

自分が知的生産に忙しく従事しているという自負がある人でも、本来の落ちついたアルファ波レベルの状態よりも、神経を使い果たすような細かな対応をしているベータ波が主流になっているかも知れないのだ。 

  

ベータ波が悪いということではないものの、この忙しく立ち働く意識状態では、自分という原点を忘れがちになり、

 

現生対応、現実対応、その場対応のみが主流になるために、

 

ついつい本来の魂の意図に反した行動や、嘘まがいの言動も出やすくなり、その為に疲れ、あるいは傷ついたりすることにもなりやすい。

 

 

これに気づかないで、それをそのままで正しいと誤認した状態が続くと、功利主義的なこころ、自己利益に特化するような「歪み」を生みだしてしまうことにもなるだろう。

 

生存競争という激しい活動をしている人々のなかで、疲れることや傷つくことで人間そのものが嫌いになり、面倒になり、安全対策としての「自我」という殻を創り上げるかもしれない。

 

すなわちそれは「エゴ」と言われるものである。

 

そのエゴの特化した者の陥り易い、自己崇拝やあるいは支配によってそれから逃れようとする行為が、富や権威への希求となって現われてくるのだ。

 

現代社会は、いかに激しい生産活動をするか、いかにそれからより多くを獲得するかを競いながら、いかに付加価値を造り上げてゆくのか・・という思想によって動いてきたのだ。

 

それらは主に脳波で言えば、ベータ波の文明であったと言えるだろう。

 

激しい知的活動、物質加工技術、それによる物質的生活改善という目的に特化した方向であり、

 

それが行き過ぎて、

 

人々は疲れ、個我に引きこもり、自己利益のみを求め、

 

物質的富の行き過ぎた獲得ゲームでの勝者と敗者に分かれてしまったのだ。

 

ベータ波による激しい知的活動、激しい感覚知覚への特化は、

 

本来の人間の有り方からみて、大きくバランスを崩していたのだ。

 

脳波には、ベータ波のほかに、

 

自然の中で生きることで自然に生じる、リラックスした意識状態である、本来の創造活動にふさわしいアルファー波や、

 

内面からの直感真知を得られるようなシータ波や、

 

肉体を超えたあり方の窓であるデルタ波があることに、

 

もう気づかなけらばならないのではないだろうか。

 

いや、潜在意識的にでも大勢の人々が気づいているからこそ、

 

今までの古い時代が音を立てて崩壊してきているのだ。

 

忙しく立ち回り、あれやこれやと騒ぎまくり、誰が良いとか悪いとか、国が潰れるとか潰れないとか、

 

一体ぜんたいどうすればいいのだとか、

 

どうすれば救われるのだとか・・・、

 

それらはすべて、あいかわらず、意識の表層の働きたる「ベータ波」由来の想念であることに気づくべきではないだろうか。

 

我々のなすべき、あるいは、なさねばならないことは、

 

造られた外の世界の騒ぎへの集中ではなく、

 

それぞれの真実たる自らの意識自体への注視である。

 

意識する方向にこそ、道があるのだ。

 

なぜならば、人も誰も皆、肉体的、物質的存在である前に、

 

意識的存在であるからである。

 

意識はエネルギーを生み出し、それが物質化という表現をとる。

 

これこそが宇宙の顕現法則なのだ。

 

あなたやわたし達においても、しかりである。

 

何があっても、何が無くても、いつもいつの時も、

 

我々はいわゆるそういう「創造」の真っただ中にあるのだ

 

 

Hujisann

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 


思考は力なり(2) 宇宙は神の想いの顕現

2011-11-20 11:54:29 | 宇宙時代の考え方

普段のことであっても、超常的なことであっても、超能力と言われるようなことであっても、偶然の奇跡と言われることであっても、

 

自らの周囲の現象はすべからく、自らの想念に従って現われているのが事実である。

 

我々が平均的な観念に縛られているならば、その通り行き当たりばったりの偶然の世界にいるような感覚しかないということだ。

 

それもそのまま、今、実現しているということだ。

 

例えば、

 

『あいつは嫌なやつだ!・・みるのも胸くそが悪い・・・』という他者はいないだろうか。

  

そう・・、嫌な想い、嫌な実感、嫌な現象・・・はもう既に起きているのだ。

 

相手の言動、自分に対する影響、それから不利益を被る・・・という本能的な反応が、「嫌い」という思考になってしまい、それを固定化することで、既に確かに嫌な体験をしていることに気づけるだろうか。

 

 

思考、そしてそれに合わせた感情、すなわち想念が我々の世界を知らず知らず創り出している。

 

それがそうと明確に解らないのは、

 

思考を想いを、それ、「思考・想い」として観ていないからである。

 

どういう「想い」がどういう「現象」を生み出すのか?

 

そんなみじかな真実に時をかけ、生活の中で探求しないからではないだろうか。

 

自分という存在を肉体だと思いこみ、肉体・物質面、その方面ばかりの維持に明け暮れていなかっただろうか?

 

まずそれが先だ・・という観念である。

 

忙しくて、こころなんかにかまっていられない・・状態である。

 

そんなことより、物、金、生活の維持が第一優先であったわけだ。

 

そうやって眼に見える結果、現象の世界への対応に明け暮れるわけである。

 

人生の多くは、物量の加算、減算、反発等といった物理的なイメージばかりが支配していたのではないだろうか。

 

また、こころというものに気づいている人も、

 

こころの働きがどう関与するのか、一般の心理学的な概念のみでしか考えていなかっただろうか。

 

 

すなわち現象として出ているもののみを、苦労して外側から何とかしようとする行為だけにその「意識」を固定していたのではないだろうか。

 

それを称して、物質次元に固定されているといってもいいだろうか。

 

3次元的な、あるいは物質偏重であるといわれる世界は、大勢の意識がそういう物質偏重観念でもって、共通現実を創り上げているということである。

 

銭・物・金・権威・富の追究・・・・これらは行き過ぎた<自己保身>の為の想い以外の何物でもない。

 

それらを成した者が勝ち組だとか、そうでない者を負け組だとか、・・

 

途方も無い・・愚かさであろう。

 

まったくもって、愚かさにも限度があるというものである。

 

しかしながら、そのような世界は既に終わりかけているようだ。

 

・・・・

今はもう、人とは本来何だろうか・・わたしとは何か・・?  

 

という原点に立ち戻らなければならない時に至ったのだ。

 

人それぞれの原点は、どこかに有るわけではなく、

 

それぞれが原点であるということである。

 

これは1人1人の社会的個人の権利だとかを含めて、もっと大きな意味合いがあるのだ。

 

意識的存在すなわち人、その1人1人が個別化表現をしている『創造者』であるということである。

 

創造参画者、あるいは共同創造者、とも言えるだろう。

 

意識を有する存在は、鉱物、動物、植物含め、謂わば宇宙の膨大なるオーケストラの演奏者である・・とも言えるだろう。

 

そんなこと、途方も無いことだと感じるだろうか。

 

途方もないのがこの宇宙というものではないか。

 

我々は、自らを規定する思考、観念、感情の虜(とりこ)になっていただけのことだ。

 

集合せる思考によって自作自演の檻を造って小さく遊んでいただけのことなのだ。

 

途方も無いと思われる可能性は、今までも何度となく、無数に示されてきたのだが、常識的な小さな観念以外を、どうしてかこうしてか観ないようにしてきただけの話である。

 

それはまた、集合意識的、あるいは常識的な慣性によって振り落とされてきただけのことだ。

 

我々はそれに気づき、1人1人がその集合せる『固定観念』から脱出しなければならないのだ。

 

・・・・

 

我々には、今は 想像も難しいような表現も可能な潜在力があるのだ。

 

ある意味常識から逸脱していると見える人々の振る舞い、

 

例えば超常的な現象をもたらすといわれる能力者の行為は、

 

それを賛美する、あるいは恐れる、あるいは無視する必要も無く、

 

自らも出来るだろうことの例示であるとわきまえるべきであろう。

 

物を空中から出現させることがいともたやすく出来たサイババのような人も、

 

月の裏側の念写をした三田光一も、

 

スプーン曲げで有名な超能力者ユリ・ゲラーも、

 

テレポーテーションをしたという人々についても、

 

単にその潜在力の例示なのだと思わないだろうか。

 

極端なパフォーマンスに驚き、怖れ、あるいは好奇の眼で見る必要も無く、

 

あるいは既成の科学で説明できないからといって、現象そのものを無きものとしてしまう思いこみも妥当ではなく、

 

あるいは彼らが特別な人間だと、別枠にカテゴライズする必要も無い。

 

排斥したり、あるいは祭りあげたりすることも愚かなことである。

 

嘘と真実を見分けるのも、自らの意識の眼であり、耳である。

 

そんなことよりも何よりも、

 

あなたは「自分が自分と考えている」、そのこと自体の奇跡的な有り方に気づいているだろうか。

 

わたしは、今、ここに有り!!

 

わたしは私である・・・という、気づきそのものは、

 

あなたやわたし達自体をこの世界にも生じさせ、

 

また、見はるかす世界の全ての方向への知覚をも生み出す、途方も無い事実を示している。

 

 

今までは、

 

我々の多くは、生まれおちた瞬間から、相当に低いレベルの観念で生きてこざるを得ず、今の社会通念が本当であると思いこんでこざるを得なかった。

 

素では神なる意識的存在が、人間社会に下生した瞬間から不自由な時空で人生を送る体験をするわけだ。

よく例に出されるように、何不自由のない王様が自分をこじきと思いこんでいるようなものだ。

 

この世界は、生れることと逝くことを含めて全て思いこみが現象化しているということである。

 

地球の文明は、集合意識による3次元的「共通現実」の創出された世界であるということだ。

実のところ、この世界、3次元的制約は、集合意識の現象化である。

 

地球の文明世界は、3次元時空によって規定されているということではなく、

 

そこにいる意識的存在達の集合せる観念による、共通現実の創出形態のことであろう。 

 

・・・

まさにこれも、思考はどんなものでも現実化するということの証左であるが、

 

思考、それ自体に、本当にそれ自体に・・・気づけることでその集大成である常識観念を超えることができるのだ、

 

気づくこと、それがまず唯一の問題だ。

 

例えば、日常的な例であっても、

 

思考、イメージは製品やシナリオや様々な物質的表現の設計図となり、

 

あるいは人の間の約束や取り決め、スケジュールとなり、

 

その設計や仕様、約束事と言われるものが、

 

実際に行われることで日常業務やら日常の生活となる。

 

どこかに行くにしろ、何をするにしろ、大なり小なりその意図がある。

 

それらはもともと、アイデアや思いつき、考えや、ヒント等と呼ばれる、人間の意識的行為、想念と呼ばれるものである。

 

これらは誰でも理解できることである。

 

行為という現実化の1つの手段も、元は「想い」に他ならない。

 

・・・

 

多くの人々の日常生活も、その重合された社会生活も、

 

それらの元ににあるものは想念、「思考」と「感情」なのだ。

 

「そんなはずは・・ない・・・」と思っている人々は自らを見ていないかもしれない。

 

「あるいは・・そうかも・・・」と思っている人々は、目覚めかけた人々であろう。

 

「確かに・・そうだ」と知っている人は、目覚めた人々である。

 

集合的であろうとそうでなかろうと、自らのことは結局自らが決めているということである。

 

誰かの、社会の、国の・・考えや方向を採用してばかりであれば、その良し悪しに関わらず、洗脳で動いているということである。

 

面倒なので他者の「想念」を採用している・・ことを自らが決めているのだ。

 

このように、何がどうであろうと、自らのことは自らが決めているのが人間である。

 

なぜならば、人間には思考があり、感情がある、即ち意識があるからである。

 

目に見えない想念が、どうして具体的に見えるものになるのか?

 

というかもしれないが、

 

眼に見えないからこそ、眼に見えるものを生み出すのだということに気づかなければならない。

 

思考や感情は力であり、

 

思考や感情はまた情報を含むものであり、

 

思考は情報を含んだ潜在エネルギーであり、

 

存在世界として顕在化するための、

 

大いなる意識の自己顕現法則なのである。

 

I AM that I am

 

これは抽象的な隠喩でも、禅的な比喩でもない。

 

また単なる楽しい夢でも、未来へのそこはかとない希望でもない。

 

厳然たる事実であり、もっとも身近な真実であり、

 

そして、隠され続けてきた公然たる秘密である。

 

全ての人々は、それによって毎日の生活を行っていながら、

 

ただそれ自体に気づいていない、

 

水の中で、水を求める魚のようなものであり、

 

豊かさを探して放蕩する、富者の子供のようなものであり、

 

何を言っても聞く耳を持たぬ「幼子」のようなものであったのだ。

 

思考はあるいは想像、イメージは宇宙で最大のパワーである。

 

これが真実である。

 

我々が囲まれているこの宇宙、常にその向こうを見ることができない無限の宇宙も、神の想いによって生み出されているといえる。

 

思考と言えば人間臭いというならば、無限の「意識と意図」で生みだされているのだ。

 

それを神と言い、創造主と言い、あるいは一なるものという。

 

それを根源といい、ソースという。

 

 

狭い宗教観念は、もういい加減お役御免にすべきだろう。

 

常に古い観念カテゴリーに捉われてしまうこころの癖は、もう金輪際放り出すことだ。

 

問題は、唯一の問題は・・・

 

それぞれの1人1人の・・こころの癖、 思考のかたまり、 記憶のわだち、今まで培ってきた嘘の観念、刷り込み、刷り込まれたプリント地のような、あなたやわたし達の先入観なのである。

 

他の人の意見や価値観ではない。

 

・・・・

 

それぞれのわたしの世界の唯一の根本原因は、

 

他者でもなく、外の社会でもなく、国家でもない。

 

あなたやわたし達が、

 

何を・・・どう・・・思っているか、

 

何を・・・信じているか、

 

まさにちょうど、その通りの具現化を続けているところの、

 

それぞれの<わたし>なのである。

 

 

今起きている、そしてこれからやってくる激動は、その目覚めを求めているようだ。

 

たとえ外の世界で、 

 

何があろうと、無かろうと、

 

こころを静めて汚れを祓い、原初の意識に繋がっていることが大切である。

 

無限に繋がるそれぞれの<わたし>に気づくこと。

 

そして、

  

それぞれの<わたし>は無限の、無条件の<愛>で繋がっていることに気づくこと。

 

これが宿題であり、また卒業のテーマではないだろうか。 

Kamome

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思考は力なり 

2011-11-12 09:30:00 | 宇宙時代の考え方

人類が集合意識として明確に気づかぬままになっている真実が多くある。

 

いつもそうであるが、もっとも身近なところに最も偉大な真実があるものである。

 

繰り返しいわれるように、

 

外のどこか遠くを探す必要などありはしないのだ。

 

外の誰かに頼り、すがり、願いなど込める必要など決してありはしないのだ。

 

絶対と言って良いほど思い出さなければならない真実はいつも<わたし>の中にある。

 

・・・

 

思考はすなわち物となる。

 

思考は即ちエネルギーである。

 

思考は現象の雛型であり、創造そのものである。

 

また、想像はすなわち創造である。

 

想像は人間の有する思考、イメージでもあり、

 

それは即ち本質的には「宇宙創造」とおなじものである。

 

・・・

 

単純に言えば、思考は物質形態を規定するパワーである。

 

思考は存在宇宙その物を現出させている唯一の、

 

そしてそれ自身で無限の効力を持つパワーである。

 

存在諸世界、存在諸宇宙全体を現わしているものが、いわゆる神のパワーといわれるものだ。

 

全体、あるいは神なるものの「思考」がすなわち、眼に見える宇宙になっている。

 

Photo

 

 

 

 

そのパワーとは無理強いして捻出するようなものではなく、

 

それが自然である・・という意識と意図によって現われるものであり、

 

人類が危なっかしくもて遊んでいるような、

 

何かに何かをぶつけ、爆破させ、反動を使って何か働きをするような低次なものではなく、

 

自然で、当り前で、また調和そのものとして現われている<力>である。

 

その証拠、体現、現実は、・・・今我々が存在していることにも現われているのだ。

 

あなたの眼の前にあるあらゆるもの、自然のもの、人工的なもの、全ては根源なるものの「思考」によって生じている。

 

あるいは、今はそれに極めて部分的に参画している、人間の「思考」の介在的創造によって出来ているのだ。

 

本来「思考」は、物あるいは物の変化、現象を生じさせる不可抗力のパワーである。

 

但し、今までの人間の自己認識レベルが、いわゆる物質偏重観念で覆われていたために、その観念、信念のフィルターによって、「思考」の現われ方が極めて緩慢、あるいは時間という経過を要していただけなのだ。

 

不調和で不完全な創造には、時間という緩慢機能が付加されて、ちょうど良い仕組みになっているわけだ。

 

人為で色づけされた創造は、思いなおし、考え直し、フィードバックしながら仕上げてゆくための・・・時間経過が必要であるということだ。

 

しかしながら、

 

宇宙そのものは、今、今、今 ダイナミックな変化をし続けている。

 

とんでもなく巨大な天体も、それらを集めた銀河も、その膨大な顕現されたエネルギーをいともたやすく動かしているように、

 

創造、変化は瞬間瞬間行われている。

 

すなわち、生起は瞬間瞬間のものなのである。

 

時間は経過しているのではなく、変化そのものが時間となっているだけの話である。

 

思考は変化を生み出す。

 

その顕現・現象化の変化率が、時間というものである。

 

時間は変化率を規定せず、

 

また、現象、変化が思考を規定するものではないのだ。

 

・・・・

 

我々は、逆を信じていたことに気がつくだろうか。

 

信じることも「思考」である。

 

 

時間に縛られ、変化によって、我々の思考が影響を受ける・・そんなふうに思わされてきただろう。

 

外が内に、世界が人間に、物がこころに影響を与えるのだとばかりに、思わされてきただろう。

 

他人が悪いから、自分が影響を受けるのではないか・・・と。

 

社会が悪いから、仕組みが悪いから、自分が不幸になるのだと、・・・

 

いつも結果にすぎない現象が、

 

あなたやわたしたちの主人であったのではないだろうか、・・・ちがうのだろうか。

 

あなたはどう「考え」「感じ」ているのだろうか?

 

あなたもわたし達も、考え・感じる・・・それそのもの・・なのだ。

 

 

 

思考というものを自在に扱うことが出来る意識存在である人間は、

 

本来・・人存在は、

 

根源、あるいは神、あるいは全体としての一なるものの庭であるこの宇宙、

 

存在諸世界の「庭師」のようなものであり、

 

その卓越した庭師には、時間というものをも超えた能力があるのだ。

 

なぜなら、時間・空間とは、「思考」がその中に縛られるようなものではなく、

 

思考が生みだし、こね上げ、仕上げてゆくための、単なるパラメータにすぎないからである。

 

人は肉体を持ち、肉体は物質で構成され、物質的な法則にしたがっているが、

 

その肉体を顕現させ、またそれを通じて、部分から全体を俯瞰することが出来る意識の作用、即ち「思考」は、

  

肉体、物質、時間・空間を超えているのである。

  

思考、あるいは想念は、時間空間を超えている。

  

あなたはその時空を超えた思考の湧き出し点、無限が湧き出す泉のようなものである。

 

 

「思考」は 「それそのものを規定すること」 であり、

 

どんなものでも想像でき、そんな定義も可能であることは誰でも知っている。

 

その想像が眼に見えないからと言って、抽象的な概念であると「想って」いた

ところに、ミソがあるのだ。

 

そう、

 

それは、それであるもの・・・という自己認識作用。

 

I am that I AM・・

 

わたしはわたしであるとことのものである、・・・という

 

自己実現法則に則っているのだ。

 

人とは、人ががそうだと信じている・・ところの存在である。

 

これが真実である。

 

例えば、あなたが何年生まれで、何歳でどういう名前だとかというのは、表面の名札のようなものである。

 

名札自体があなたやわたしではない。

 

 

・・・・

 

思考は最大のパワーである。

 

この真実を薄々知っている人々、

 

あるいは例えば数奇な運命によって気づかされた人々、

 

あるいは生まれながら人類を覆う虚妄の観念を持たざる人達によって、

 

何度となく言われてきたが、

 

多くの人々は気づく意識レベルまで到達していなかったのかもしれない。

 

実のところ、

 

昔からいわれてきた、精神の修養、仁徳の積み重ね、こころの観察と浄化等は、

 

その最強のパワーを調和をもって駆使することが出来る意識レベルまで到達するための、

 

避けて通れないプロセスなのだ。

 

精神の為の精神修養、浄化のためだけのこころの浄化等ではない。

 

それを潜在意識的に知っている人々は、手っ取り早くパワーだけを手に入れようと、科学を使い、技術を利用して、威力を手に入れようとしてきたのだ。

 

精神の質的向上をなせないまま、あるいは意識のレベルが低いにもかかわらず、

 

即ち、大自然の調和に気づかず、最終結果を予想することが出来ないにも関わらず、

 

それを己の個我の維持、繁栄の為だけに行使するような愚かな行為のことを、邪悪と呼んでいい。

 

邪悪とは、不調和のことである。

 

不調和であるがゆえに、この宇宙の流れにそぐわず、一定の時間経過とその体験を残して、確実に消えてゆく「あだ花」なのである。

 

しかしながら、そのあだ花も、大輪を咲かせるための予行には違い無く、カルマというものを通して、フィードバックがかかってゆくだろう。

  

またカルマとは無知を既知に変えてゆくための面倒見の良いカリキュラムのようなものだ。

 

 ・・・・

 

「思考」は即ち・・物となり形となる。

 

「思考」は即ち現象となる、根本原因である。

 

これからは「思考」が、より直接、迅速に現象化する時代になるだろう。

 

存在世界のいわば周波数帯域がより振動率の高い形態になるからである。

 

振動率が高い分、エネルギーが大きく、情報量が増大し、

 

生命表現もより繊細で美しくなり、思考の実現速度が速くなり、カルマというフィードバックも迅速に行われ、存在諸世界の情報量も飛躍的に増大するだろう。

 

すなわち、本当の意味での宇宙時代である。

 

思考をゆったりとさせよう。

 

更に大らかで、楽しく、美しい有り方、

 

真なるもの、善なるもの、美しきものに関する「思考」を定着させようか。

 

それは理想でも夢でもなく、無理やり信じる努力も不要である。

  

それは本来、当り前のことだったのだ。

 

  

 

その人のまわりの全てのこと、

 

それはひとえに・・・・その人の自身の想い、想念、思考によって起こされること、起こされていることを、肝に銘じよう。

 

外が大きく影響すると信じていれば、ちょうどその通りのこととなるのは道理である。

 

しかしながら、

 

本質的に、世界がどうだろうと何が起ころうと影響なく、

 

その人の世界はその人の思考、想念が創っているのである。

 

あなたの思考で、あなたが人生を創ってきたように、

 

新たな思考を駆使し、定着させることで、

 

どんな問題にも難なく耐え、あるいはこなし、あるいは文字通り「輝ける世界」へといざなうことができるのだ。 

 

思考に注意せよ。

 

感情に注意せよ。

 

自らが自らを知らず知らず創造している有様に気づき、

 

艱難という嘘を、本来の楽しさに変え、

 

苦難というまやかしを、当り前であった喜びに変えるのだ。

 

それはひとえに・・・・あなた自身の想い、想念、思考によって起こされること、起こされていることを、肝に銘じようか。

 

あなたもわたし達も、今は小さいながらも、

 

明らかに・・・創造の申し子であり、また創造者でもあるのだ。

 

「思考」は尤も身近で、もっとも強力なパワーである。

 

 

いわば、想念と感情は、2頭立ての天駆ける夢の馬車であり、

 

意識的存在たる人間は、その御者であり、かつまた優雅な乗客でもある。

 

決して馬に振り回される路傍の迷える人であってはならないはずだ。

 

世界に渦巻くカルマの濁流に流されてはならないはずだ。

 

 

自らの思考に注意しよう。

 

自らの感情に注意しよう。

 

それらは人の世界を創っている源なのだ。

 

 

 (つづく)

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