気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

あらゆる全ては波動 (1)愛とは何?

2016-12-29 07:44:16 | 宇宙時代の考え方

よく言う「マインド」とは、人の”こころ”、思考、イメージそして感情という、
つまり・・「意識」の働きのことだ。
あなたが頭で?行っていると思っていいる精神の働きともいえる。

また、”意識する”とは何かに”気づいている”こと、
ある事物や考えに「注意」しているとか、「気にしている」とか言う。
違うだろうか?

あなたも若いころ、ハートの部分が熱くなるほど、
寝ても覚めても、恋する人を意識した経験があるはずだ。(笑)
あるいはいつも家族のことを気にかけ、あるいは心を配っているかもしれない。
そうではないか?



「意識する・・」とは気に掛けること、気にすること、注視すること。
そして人間は実際に「意識的存在」なのである。

人間は社会的動物だとか、肉体的存在である等と一体誰が言ったのだろうか?
目に見えないものは存在しないという、おバカな学者はどこにいる?

誰もそうだが、自分の生活、仕事、家族のこと、経済あるいは社会のことを、
次から次へと「意識して」いるはずだ。

意識することは、いわゆる頭の働きつまり思考、イメージでもありながら、
例えば、みぞおちから胸の中心、そして喉にかけて感じるような、ハートの働きでもある。
これはいわゆる「チャクラ」の働きに相当している。

どんなことでもいい、あなたが何かに「感動」して、胸に込み上げるものがあり、
感動のあまり、何かのエネルギーがのど元を通じてこみ上げ、涙腺を刺激して涙が出る。
それは意識を通じて現れた、言葉で言えば「愛」というエネルギーといえる。
共感し、共鳴し、同情し、感極まって涙にむせぶこともある。

これが真に「感じる」ということ。
「おー寒い!、あちちっ!」は・・皮膚・五感で感じること、
「あの野郎!、虫が好かねえ!」は思考・計算で感じること、
感慨や感動、共感は、ハートで感じることだ。


感動や共感、思いやりの深い傾向の人は、
すでに古い3次元レベルを超えている。
気づかず知らず超えている・・。
すでにOKなのだ(笑)

相手と自分、何かと私・・その間にある「共感」は、つまり「愛」である。

愛とは、世の不安を餌に、「愛という概念」を使ってどこか気持ちよくさせて、
人集め、金集めするような宗教?とは全く無縁のものであり、
どこに行かなくても、すでに在るものなのだ。

愛とは、国家や組織が危機にあると称して、それを守るべく集団を戦いにいざなうような、
そういう共感とは全く無縁のものであり、
何をせずとも、すでにあるものなのだ。

また、愛が「性」だという勘違いは、2流の欧米映画を見すぎたせいかもしれない(笑)
お決まりの恐怖とスリル、サスペンス、ドカン、バコーンの後の、
男女を結びつけるハッピーエンド、それらは「刺激」をてんこ盛りした画像版エスニック料理のようなもの、その満足感は一時のものだ。(笑)

性愛は愛の、異性の違い、肉体を中心とした表現形であり、
誰にも非常にわかりやすくプログラムされた、
真実の愛のための3次元的カリキュラムともいえようか。
異性間で子供が生まれ、通常親は子供に対して無条件の愛を注ぐもの、
親のマインドの歪や観念によって、男女持ち味も加わり、その表現の仕方は様々あるが、
そこで生まれてくるのは・・無条件の愛・・なのである。
違うだろうか?



そして、そういう宇宙的仕組み自体にも・・愛を感じないだろうか?
何事も偶然、何事も、死んだら終わりだという・・観念が、
どれほど愚かなことか、もう十分にわかろうもん。

意識は思考、感情の働きであり、またそこから出現するのが共感、感動だ。
誰にも共通の感動、共感、また慈しみが「愛」。

植物・鉱物・動物はそれ自体活きている・意識ある存在であるが、
「我あり・・」という目覚めた自意識はなく、
翻って、人間は、意識的・・に「愛」を共感・創造できる存在のことだ。

感動や共感、思いやりの深い傾向の人は、
すでに古い3次元レベル、個我の戦い生存レベルを超えている。
今「ここ」に在りても、また「ここ」に組み敷かれず、
それを気づかず知らずかもしれないものの、既に超えている・・。
すでにOKなのだ(笑)

愛は別段大それたことでもなく、規模や物量、距離や時間とは関係ない。
感動や共感は、計算や理論や打算とは無縁のもの。

今在ること・・自体が・・それ、
そう、
在ること・・から全てが生まれている。


自他を思いやり、共感し、感動多くあれば良し!
銭金ばかりの損得感情に流されず、
常に破滅で終わる、国家、集団の間の敵意に同調せず、
また、一時の肉体の過ぎたる保身に惑わされず、

大宇宙のすべてを顕わして在る大いなる「法」を認識し、
それが無条件の愛の様々な表現型であることを悟るべきである。

この世に雄々しき戦いがあるとすれば、
それは決して、決して、
自己の鏡である他者との間ではなく、間違いなく自らのうちにある。

そう、今こそ・・マインドを静寂に導き・・、
うちにある、様々な迷いを一掃することなのだ、
今はもう、・・そのときが来ている。

様々な鎧のような観念の群れを・・・、
低く垂れこめたこの次元の迷妄を・・・・突き破る!ときである。

常にあるのが・・今という瞬間・・永遠なるそれ、
悟るべきはそれ、
・・わたしは在る・・ということだ。



マインドの話(7)人生は楽しい幻想物語

2016-12-21 06:52:42 | 宇宙時代の考え方
あらゆるもの事、事象、現象は・・すなわち「幻想」である。

「幻想」とは、「想」いによって現れた「幻」という意味だ。

幻(まぼろし)といっても、うすぼんやりな、良くわからないようなものではなく、

常にあらわれては消える、変化して止まない現象のことだ。


常に変化するために、どれが真実なのか規定などできないという意味でもある。

そう、現象世界、つまり今あなたが生きているこの世界だが、

そこには隠された真実などはないのである。

いや、逆にあらゆることが「真実」であるともいえよう。

これが嘘で、あれが真実というものはないということ。

例えば、あなたの人生で、これが真実だ!というものがあるだろうか?

・・・

この世界の、どこかに、いいやこの宇宙のどこかに、必ずや真実がある・・?

まったく、それも幻想なのだ。


「えー?なんだか夢も希望もないじゃないか・・」と思うかもしれないが、

また、それもまた幻想なのである。


想いだろうが、現実という物理現象だろうが、文章だろうが、宣伝だろうが、

どこかの大統領のしゃべくりだろうが、社長の訓示だろうが、

ことのすべては想念で投影された幻想であって、

その個々に特別な価値も真実もない、


あらゆるすべては・・起きていることの、

その一瞬の変化の輝きでしかないのである。

それを「創造」というならば、

宇宙は創造の一瞬の輝きの無際限の湧出ともいえるかもしれない。


一瞬という・・今というしかない・・この瞬間・・、

誰の人生も全くそうなのだ。

ずーっと、・・今の瞬間しかなかったのだ。

今という名の・・一瞬、

そこには無限の可能性があるがゆえに、さまざまな変化がある。

変化とは無限の表れだからこそのものである。

それを幻想という。


「なんだっ、幻想か・・」、

何か価値あるものだと思ったが、つまらない・・、

永遠の命や生活を保証するような、あるいは、

金になる、名誉になる、何かしっかりしたものではないのか・・?


どうしてもなかなか消えていない、ケチな(笑)思いに気づけるだろうか。


あなたはこの世のすべてが幻想だと聞いて、どう感じるだろうか。

肩を落とすだろうか? やけになるだろうか?

あるいは、そんなわけあるまい・・こんなに苦労なのに・・というかもしれない。

・・・

宇宙のあらゆるすべては現(うつつ)、現象、あるいは物語であり、

物質的、非物質的と言われる素材も含め、すべては波の動き、波動、

波動で紡がれる物語、またそのなかの登場物、出現事象にしかすぎないのである。


むつかし気な物理学者が何を言おうが、太鼓持ちの政治家がどう宣伝しようが、

宇宙のあらゆるすべては現(うつつ)の象、あるいは変わりゆく物語であり、

どれが大事か粗末なものか、まったく関係がない。


例えば、

どの宇宙、世界が素晴らしく、高貴で、どの時空世界はみじめだ等ということもない。

地球がある意味で監獄惑星だというスピリチュアル系の噂もあるが、

あちらが良くて、こちらが悪い・・それも幻想なのである。

例えば日本が悪くて欧米が賢く正しい?・・これなど全く幼稚以下の想い・・、

セレブが良くて、貧乏庶民はだめだとか、

話すことも考えることも憚られるような?、「想い」に過ぎないのだ。

すべては想いによって創られている・・ように見えるもの・・

それが「幻想」である。


だからこの世界もどの世界も幻想だということだ。

現実とは、(現)うつつ、現れ・・<王が見る>と書くように、

創造者の楽しんで見ている・・・リアルそうな夢ともいえよう。

・・

とはいえ、実際に体感する現実は、遺憾ともしがたい・・というだろう。

幻想だ幻想だと言っても、実際にリアルな実生活があって、すべてが幻想なわけない。

そういう話になるだろう。

いつもそこに戻ってくるかもしれない。


誰もみな、生活のために、ずいぶんと苦労しているわけであって、

幻想だなどと・・どうして言えるのか!・・と怒るかもしれないが、

それは安楽を得ようとしてなかなか得られない・・という

「幻想」中にいることを意味する。

おいおい、まるで幻想だらけじゃないか!


現実生活が大変・・これは社会の中にある追い込みマトリクスなのだ。

生きてゆくために、金稼ぎ、生活確保せよ、そして余力を奉仕せよ・・、誰に?(笑)



マトリクスの中にいては、マトリクスには気づけない。

良し悪し、効能は別として、人は多かれ少なかれ、幼児期から大人になってまで、

様々な社会通念を、これというまで仕込まれるものである。


現実は幻想なんかじゃない・・という根強い思考があるのは、

幻想とはおぼろな雲をつかむようなものだという「誤解」が、

相変わらず消えていないことを意味する。



人の「想い」にそって・・

それが正しいという思いによってだが、その信念体系が、

実生活において・・リアルな現象に変化していることに、

いまだ気づいていないのだ!


単に頭で・・理念で、観念で・・幻想をとらえており、

実生活と生き様と、今・・在ること・・が分離しているからである。

頭の中と、現実と、体感と、社会がてんでバラバラになっており、

今・・在る・・ことにまとまっていない。


あなたの人生は・・幻想なのだ・・とした場合、

それを、頭の中だけでマインドの中だけで、それをもてあそんでいるだけで、

今の・・その瞬間の・・生の・・輝きのなかに、

あなたの思いが色濃く出現していることに、全身で気づいていないということ、

そういうことかもしれないと・・・

自らの想いを・・省みる必要があるかもしれない。


したがって、瞑想や内観は必須だとされているのだ。

自己を観るということは・・自己の世界を見るということなのだ。

例えば、人々は幻想世界で「迷走」しているか、

あるいは自己を観るための瞑想をしているか。

その違いは大きい。


おのれのマインドを省みる、顧みる、観察することは、

宇宙のあらゆる創造を観ていることと同じことであると、気づけるだろうか。

マインドの自己観察は・・あなた個人ではなく、

気づかず知らずかもしれないものの、

実は”宇宙マインド”のなせる業であり、

その業(わざ)で紡ぎだされているものが、

それが楽しいからこそ起きている、宇宙創造という物語なのである。


どれが楽しいか・・宇宙マインドの要素であるあなたが選ぶ、

様々な人生物語が無際限に現れている、

あれも楽しい、これもうれしい、

それこそが、宇宙がある理由なのである。


何が楽しいのか?・・にも様々なレベルがあり、

ある意味でそれは「魂の進化」レベルとも言えるものがある。

それは、何が楽しいか?の違いともいえようか。


小さなことから大きなことまで、

個人の欲を満たす歪んだものから、全体の明るさと調和を満たすものまで、

自我の保身だけの小さなくすんだものから、すべてを我とする開けたものまで、

多次元宇宙という、無際限の宇宙ステージで、様々な創造の物語が展開している。


あなたや私たちは、どんな物語が良いかという選択を、

意識的、無意識的に今この瞬間に選んでいる。


今・・この瞬間に、

唯一・・在る・・常に・・今この瞬間・・という輝きのなかで、

想いによって・・それを創り上げている。

それを幻想世界という。






マインドの話(6)実感≡創造の「エネルギー」

2016-12-15 07:11:39 | 宇宙時代の考え方
すべての根幹は「在る」ということだ。
在る・・Being・・
存在している・・事実、
あなたはそれを実感しているのである。
見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触れる・・の五感も、
在ることの「実感」なのである。

この次元世界を味わっていることの実感ともいえよう。

例えば、あなたに飼い犬や猫や、鳥などがいるかもしれない。
彼らは昨今注目されているわけだが、
それに学んでいる多くの人がいる。
わたしは猫を飼ってます・・という人もいるだろう。
でも飼っている、買っているという思いは、
ちょっと傲慢な言葉かもしれない。

すべての根幹は「在る」ということだ。
在る・・Being・・
存在している・・事実、
あなたはそれを実感しているのである。
見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触れる・・の五感も、
在ることの「実感」なのである。

他の動物はそこまではないかもしれないが、
在ることの嬉しさを自ら表現しているのである。
愛らしく、素直で、お茶目で純真なあなたの家の動物も、
自らの・・在ることの実感を喜びで表現している。

だから多くの人が、歪み切った社会に疲れたそのこころを癒されるのである。
あなたの周囲にいる動物たちは、ただ餌がほしさに喜んでいるとでも思っていた?
まったくそうではない。
食べることも、体を維持することも、嬉しさをそのまま表現するためのものである。



単純に本能だけで尻尾を振っているわけではなかろう。
よくよく観察すれば、
彼らの姿態、表現には・・・生きてあることの喜びと、
例えば、そばにいてくれるあなた方への感謝を、
彼らの<出来得るすべてを使って>表現しているのである。

彼らの本能的とされる生命表現が、
知的に遅れている動物の、
安心できる、かわいいお馬鹿さ表現なのか?

小うるさく利己的な人間社会で傷つき、
大自然のそのままを色濃く保持しているところの、
知的に人間に劣るとされる、動物たちに、癒されている・・・、

嗚呼、あまりに幼いなのは一体全体どちらだろうか(笑)


(くっ・・、ちょっときついんじゃニヤーい?)


知的なことで幸せは得られない、
また幸せは・・得るものではない!
得るもの、獲得するもの、ましてや勝ち負けなどではない、
与えられたもので満足する・・ということでもない。
・・たら、・・れば、は、まったくろくでもない思考の轍(わだち)

今・・在る・・こと、

そこからすべてが現れている。


今・・在る・・

いつもありながら、

決して捉えられないこの瞬間に、<無限>が包含されている、


その無限が、様々な表現をとりつつ自己表現している姿を、

あなたは目撃しているのである!

楽しくなくてどうする?


在る・・Being・・それだ。

まったく余計なお世話だが、(笑)
それを実感することを忘れさせられた世界に生まれたからには、
実感創造を思い出すことが・・あなたの1つのミッション・使命。

社会が今までどうであろうが、
無知と英知のまだらになった世界がどうなってゆこうが、
それに気づいた存在は・・Human Beingは、
今、在ることの・それ自体の喜びを表現せざるを得ないはずだ。

世界のだれが何と言おうと、たとえ大勢が何を言おうと、
わたし・・が創り上げる喜びの実感は、
それぞれの・・わたしの唯一の真実である。

OH MY GOD!


マインドの話(5)本当は楽しいのが「楽」

2016-12-05 07:26:14 | 宇宙時代の考え方
人生とは、例えば「ある映画」に見入るようなものである。

普通、映画とは、人が日常の生活モード(3次元レベルの感覚)から、
まったく違う物語を展開するスクリーン映像に見入りつつ、
あたかも別の3次元物語に入り込んでいるかのような臨場感を与えるものだ。
そんなこと誰でも経験があるはずだ。


この人生も、それが多次元的な仕組みといえばそうだが、
実際まったくそのようなものなのである。
覚者以外はほとんどがそれに気づいていないだけのこと。
知っていた?

<真実は最も身近なところにある>というのは「真実」である。
絶対に・・どこか遠くにあるわけではない。
常に・・あなたの・・今・・この瞬間にある!

何か抽象的、思わせぶりな示唆などではない。
これは哲学的、宗教的な示唆ではなく、事実なのである。
「今・・!」にすべてがある。

今の生活の現状やら、環境条件、物の多さなどとか、
全くそういうというものではなく、
それら枝葉のような観念、常識、物質という外のガラクタおもちゃではなく、
今・・在ること・・そのもの・・、
これからすべてが生じている。

これ、というのは、<わたしは・・在る>・・こと。

在ること・・は事実だが、
社会の現実なるもの、思考や観念加工物質、人の決めた名誉、序列、
それらはすべてマインドのつくる仮の観念、仮想現実なのだ。
幻想、イリュージョン、仮想現実である。
実にリアルに事細かく出来ているように見える・・「幻想」である。

あなたの思考・想念は常に、ころころ変化するだろう、
マインドはそういうものであり、だから仮想、「仮の想い」なのだ。
真実ではなく、仮の想いを大勢で常識、事実として固定することで、
そういう観念世界が現れているのである。
地域、国家、地球人類の常識なるものは、仮想現実で出来ている。
どれかが真実・・なんかじゃない。

常に移り変わる多様性こそがマインドの本質であり、
そのことを十分に把握することが「悟り」であるともいえよう。

そう、十分に・・だ、十分とは嫌というほど、
また飽きる・・飽和するという意味でもある。
なるほど確かに、苦労は買ってでもするものだ(笑)。


この世界のどんなものも、どんなことも、
決してそれが真実なのではなく、
マインドの本質である多様性の無限に展開する姿なのである。
宇宙は・・それだ。
あなたも・・それだ。



映画の話だが、
2次元平面で展開するスクリーン上の「物語」のなかに、
意識を集中するのを持続することで、
その状態ではあたかも「そこに居る」かのような臨場感があるわけだ。
そうではないか?

自己の意識を投入、つまり集中することで、
そこに仮にでも・・何かのリアリティーを感じているために、
手に汗握るとか、ハラハラ、ドキドキすることになる。

内容によっては嘆き悲しみ、理不尽な悪役に対して憤りすら覚えるわけだ。
「あっ、あの野郎っ!何てことするんだ・・!」(笑)

しかしながら、ふと気づけばこれは映画だったと気づく。
当然ながら、視覚や聴覚という感覚だけで、味覚や臭覚、
そして皮膚感覚での臨場感ではないために、
これは映画だということがすぐにわかるというよりも、
常にそれを知っていながら、部分的な臨場感を楽しんでいるわけである。

実は、
この人生も全く同じように展開しているのだが、
母親の子宮から身体が成長し、えらい苦労をして生まれてくる、
そしてその身体の経験を中心として、<私>という自我意識が成長するという、
そういう目茶目茶シリアス?な設定になっているわけだが、
これも仮想現実なのである。

この地球という小さく閉じたような世界に生まれてくることも、
実に・・それも仮想現実なのだ。
とはいえ、映画のような2-3次元的なものではなく、
もっと多次元的なものであるがゆえに、
それに気づかないだけの話である。

どうして映画を見るのかといえば、それが楽しいからだ。
楽しくないものはまったく見ない、・・そうだろう?

シリアスなもの、野蛮なもの、感動で涙するもの、あるいは恐怖のホラー、
いろいろあるが、その時々の心境に応じて、様々なものを観たかもしれない。

しかし、そういう映画をなぜ観るかといえば、実際に楽しいからなのである。
とはいえ単純なお花畑的な楽しさというものではなく、
悲惨な戦争も、恐怖のホラーも、後味が悪い結果になったとしても、
興味があってそれを楽しみたいから観るのである。

人々は、何をそんなに必死になっているのか?
そういう風に感じないか?
次元構成は違えども、映画のように楽しめるのではないか?
もっとも、楽しみとは「味わい」の実感のことで、
肉体感覚の心地よさや快楽、安楽のことばかりではない。


あなたやわたしたちは、地球物語中心となっている主人公に
仮に自己投入して楽しんでいるわけだ。
その主人公とは・・この世界に居る、個人としての「私」
ハラハラ、ドキドキしながら、いつのまにか感情移入をして、
あたかもそこにいるかのような臨場感を楽しんでいるわけだ。

映画もそうだが、本質のわたし、映画を観ているわたしのほうは
いつの間にか映画の主人公に成り代わってしまい、
ある部分マジに真剣になってしまうもの。

「あー、やばい!やばい!、追手が迫ってきた~!」
「あー、逃げ道はそこじゃない・・あっちだ~」(笑)

しかし、そうでありながら、いつでもこちらの自分に戻ることができる。
活きて死ぬ、来ては帰る、生死の仕組みも、
まさにそうでなければ人生劇場を楽しめないではないか。

すべては恩寵であり、愛であるというのは、
全くそういう事なのである。
・・・

映画やビデオは主人公などに感情移入しつつ、
その仮のストーリーの臨場感を味わって楽しんでいる。

あなたはその目の前に展開される、
スクリーンの2次元平面に展開される映像・音声の中に、
一時的に「意識を投入」することを行っているのである。

例えばネバーエンディングストーリー等のように、
物語本の中に入り込んでしまい、
その中で展開する物語に巻き込まれて冒険をする設定があるが、
これは単なる小説の1つの設定方式というわけではなく、
今の我々の入り込んでいるこの世界の設定と同じことなのである。
宇宙という無限時空舞台は・・多次元構成なのだ。

それら全ての元の根源、宇宙の興行主・・というか、神というか、
宇宙意識というか、宇宙マインドというかそれで出来ている。
顕れたものは全て「マインド」の結果である。



そう、現実とはバーチャル・リアリティーのことだ。
仮想という意味は、「仮の想い」・・仮の思考、想起・・、
常に変化してやまない・・マインドが創り上げている。

物質的なものが、硬くて重くてどうしようもない・・
そう思っているならば、
あるいは思い込んでならば、

あるいはみんなが言うからそうだと信じ込んでいるならば、
まるでその通りの・・仮想現実の集合世界にいることになる。

たぶん、いま我々がいるこの現実は・まったくそうだ。(笑)
気づいていた?

・・で、同じような繰り返し(輪廻転生)ばかりでは面白くないからこそ、
「ある時」そういう重たい世界から目覚めることになるのである。
あー、この映画はもう十分・・楽しんだ、みたいな。

あれ?、これって本当・・?
なになに?・・なに!
わたしはだれ?・・ここはどこ?・・(大笑)、
・・わたしとは何か?

(霊的)探求とはそのためのものなのだ。
そりゃそうだ。

本質的なわたしたちは、
この3次元スクリーンの中にいるわけではない。

私という特定個人も、その世界も、魂の経験している
ある次元世界の物語体験だ・・という気づき、

それぞれのわたしたちが、
この次元を超えた存在であることに気づき始めるということだ。
この記事を観ているあなたは、多分そうだ。


ニサルガダッタ・マハラジはかつてこう言った。

「わたしはかつて生まれたことも死んだこともない」・・と、

ええー?!と思うかもしれない、
そればっかりはねえ・・。
覚者である、ニサルガダッタ・マハラジも信用できない!
・・と思うかもしれない。(笑)

常識や経験から言って、個人は・・生まれて死ぬというわけだが、
えー、それって真実だろ?・・と思うかもしれないが、
それも物語のストーリーなのである。


世界とは・・、変化してやまない仮想現実の中の物語であれば、
それを観ている・・、味わっている、体験している・・
本質のわたしは・・かつて生まれたことも死んだこともない!

まったくそうだ。

あなたはどう感じる?

マインドの話(4)いつも、すでにそれ・・

2016-12-03 12:02:43 | 宇宙時代の考え方
希望している何かが得られた時は、
誰でもうれしいと感じるものだ。
「あー良かった、良かった・・嬉しい・・」
そんな思いが沸き上がるものだ。
誰でも経験しているはずである。

例えば、子供のころに欲しいものがあって、
親に買ってもらったとか、お金ためて手に入れたとか、
希望校に受かったとか、恋する人も自分を好いていると知ったとか、
そういう瞬間は、有頂天になるくらい、実にうれしいものである。

希望する何かが実ったとき、
あるいは手に入ったとき、
人は「幸せ」を感じるということだ。

そうではないか?

ところで、多くの人は毎日のように、実は幸せを感じてはいない。
毎日毎日、「あー幸せだ・・」などとはつゆとも思えず、
逆に、年がら年中、私は不幸だ・不機嫌だと思っているかもしれない。

人によっては、そんなに不幸とも思わないかもしれないが、
少なくとも、何かが少し不安で仕方ないかもしれない。
そうではないか?

お金が十分でないから?
愛する誰かがいないから?
ライバルに負けているから?
やたら忙しいばかりで暇がないから?
子育てが終わっていないから?
ローンがまだまだ残っているから?
家族の中が不和だから?
・・
こういう、様々な条件が・・満たされていない、
そういう現状を見て、「どこが幸せなんじゃい!」
そう思っているかもしれない。
そして、それが正しいと思っているのかもしれない。

条件が満たされなければ、決して幸福ではない・・!と。

つまりは、自分を幸福ではないと「密かに」宣言しているわけだ。
あれが無い、これが無い、まったく足りない、・・・
だから幸せではない・・!
なので、幸せになるために・・あれを求め、これを貯め、
さらにこれを集めて・・それを手に入れる・・まで、
不幸のどん底にいる・・というわけだ。
とはいえ、不幸のどん底といっても、
別に生きるの死ぬのというレベルではないが、
少なく見積もっても、
「今は決して幸福ではない!」・・・
そう思っているのである。

違うだろうか?

馬の前にニンジンをぶら下げられて、
永遠にそのニンジンを追いかけている馬のようなものだ。


だって!、お金ほしいじゃないの・・!
誰でもセレブになりたいのとちやう?
地位は高いほどいいというじゃないか?
そういう世の中なんだから仕方ないじゃないの?
それとも、あんただけ別とでもいうのか?
周りの人に聞いたらいい、みんなそう言っているよ・・。

・・
とあくまでもそう思っているのである。
いつ仕込まれたかわからない様々な条件を、
金科玉条のように奉っている。


幸せには条件が付くものだ、
その条件が満たされていないからには、
まったく幸せではない・・。
そういう固まった常識観念に気づけるだろうか。

そして、だから、いつも不幸で当たり前。
というか、実感として、いつもまったく幸福なんかではなく、
それどころは、どこかいつも不安なのである。
でも同時に、その不安を嫌っているのだ。


これはマインドでできた閉鎖ループというものだ。
あなたは閉鎖ループの中で、
気づかず知らず、とはいえ、それほどでもなく、
でも、昔からもがいてきたのかもしれない。

だからいつも、外側の何かを探し、誰かに期待し、
自分に好都合な・・何かが外から起きることを、
ひそかに待ち望んできた。

自らのマインドで、自らを閉じ込めて、
外の何かのせいにして、
そうして、外の何かが変わるのを、
「心待ち」にしていたということだ。

OH! NO!(笑)

・・・
幸せは人によって異なるとも言われるが、
それは人によって望みが異なるからなのだが、
ところで、望みが叶うことが幸せだと・・
それだけが幸福を感じるものだと・・いったい誰が言ったのか?

責任者はどこかの総理大臣か?
どこかの大統領か?

いつもながら、責任者は誰もいない。
あなたの人生にあなた以外に責任者などいるわけもない。

その深い意味を感じ取ってもらいたい表現だが、

わたしとして生まれたのは・・わたし・・しかおらず、
生まれてきた、この世界、
わたしの意識する世界には、わたししかいない。

わたし以外に、わたしの見晴るかす無限の宇宙に、責任者など、どこにもいないのである。
創造主の顕れ方は・・実に・・意外であり、かつ「粋(いき)」ではないか?(大笑)

しかしながら、あなたの「鏡」である他の人たちも、
まったく同じようにそうなのである。



かように、
宇宙で唯一のわたし・・達・・、
とんでもなく奇跡的な存在である・・わたし・・は、
まったく無条件に幸福である以外になにがあろう?
今すでにそれ、まさしく幸せなのだ。
比較も、勝ち負けも、大小も、すべてマインドの作った幻想。

今この瞬間・・いま・・瞬間ゼロでは、マインドは存在していない。
しかしながら、その今の連続によって、
マインドは幻想のごとく展開し浮かび上がるのだ。
それが多次元宇宙となって、
多くの遊び場を提供しているのである。


マインドとは悟りの階梯、十牛全図でいうところの、牛さんだったように、

地球というこの次元世界は、マインド(こころ)を習得するための魂の遊び場、
お花畑も修羅場も含んだ、大いなる遊び場だったのである。

そう、今までは。